若き将軍の朝鮮戦争 ―日本人に敬愛される韓国軍人の回顧録
- 作者: 白善
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2000/05
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 90回
- この商品を含むブログ (12件) を見る
朝鮮戦争で、師団長・軍団長として指揮をとり、33歳の若さで韓国初の陸軍大将となったペク・ソンヨプ(以下、白将軍と記す)は、日本人に敬愛され続けている韓国人である。
その事実は、次のWikipediaの記述から明らかであろう。
ウィキペディア上においても韓国語版よりも先に日本語版が作成され、韓国国内よりも日本国内での評価が高いのが特徴である。特に、陸上自衛官や民間の陸軍ファンの間では、緒戦の劣勢の中での防衛戦や釜山円陣攻防で見せた優れた指揮の才能、そして病身ながら先頭に立って指揮を執るその人間性から、極めて人気が高い。
数百万人ともいえる死者を出した朝鮮戦争は、直視しがたい凄惨さがある。未だに明らかにされていない民間人への虐殺などがあるという。
だが、今なお分断された朝鮮半島の歴史背景を知るうえでも、最前線で指揮を執り続けた白将軍の朝鮮戦争回顧録は一読する価値がある。
本書には、朝鮮戦争のエピソードのほかにも、日本統治下のピョンヤンの状況や、北朝鮮の元首となる前の金日成の様子など、興味深い内容が多い。
知日派として韓国では非難されることがある白将軍だが、決して日本びいきではない。戦前の日本統治に対する描写は鋭く、説得力がある。
例えば、第二次世界大戦で日本が敗れた理由は何であるか、考えたことがあるだろうか。
白将軍は、他の軍人の言葉を引用しながら「人事の問題」であるとする。
人事とは「責任所在の明確化」のことである。
満洲事変の勃発直後の1931年9月21日、朝鮮軍司令官だった林銑十郎中将は、石原莞爾大佐ら関東軍強硬派に押されて、独断で満洲へと朝鮮軍を進めた。それは近代軍としてあるまじき行為であり、一司令官の判断で許される軍事行為ではなかった。
ところが、この独断越境を日本政府は黙認した。当時のメディアは林銑十郎を「越境将軍」と誉めたたえ、さらには美談であるとした。林銑十郎の国民人気は高まり、やがて、33代内閣総理大臣に就任する。戦前の日本国民は、時代の閉塞感を打ち砕く爽快さを、林銑十郎の独断越境に求めたのだ。
こうして、一司令官の独断を許した結果、日本は政略をともなわない戦線拡大を許した。石原莞爾ですら反対した対中全面戦争に突入し、やがて、連合軍相手に宣戦布告することになる。その起因をあげるなら、中央を無視して越境した林銑十郎と、その責任を問わなかった日本政府と、その彼を英雄として持ち上げたメディアにあるだろう。
1945年8月15日、日本は無条件降伏を受け入れた。それから、敗戦の悪夢を払拭するかのように、戦争を否定し、経済復興につとめた。
一方、かつて、日本の国防の要とされた朝鮮半島は、米ソによる分割統治がなされ、それぞれ北と南で別国家が生まれた。そして、1950年6月25日、その両国が交戦状態になる。
この「朝鮮戦争」について、我々はどれほどの知識があるだろうか。多くの人にとって、「朝鮮戦争」で連想されるのは、戦後復興のきっかけになったとされる「朝鮮特需」と、「警察予備隊(後の自衛隊)の発足」ぐらいではないだろうか。
「朝鮮戦争」の戦況については、下のFlashが視覚的にわかりやすいと思うので、興味がある方はご覧いただきたい。
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=148198
釜山円陣(1950年7月〜9月) |
1950年6月25日に始まった「朝鮮戦争」は、ソ連製兵器を持つ北朝鮮軍が圧倒的優位な状況で進められた。同月28日、韓国軍、ソウルを放棄。7月5日、米軍スミス支隊の敗走。同月14日に、李承晩韓国大統領は国連軍に作戦指揮権を移譲(大田協定)。同日、北朝鮮軍は大田に進出し、米軍第24師団は敗北を喫して撤退。師団長ディーン少将は、北朝鮮軍の捕虜となった。
こうして、1950年7月31日、最終防衛ラインともいうべき「釜山円陣」が構成された。これを北朝鮮軍に突破されれば、韓国は大邸(テーグ)を失い、釜山をも奪われる事態になっただろう。そのX軸とY軸の交差する最前線である多富洞を守っていたのが、第一師団長であった本書の作者、白将軍である。このとき、彼は29歳であった。
前線の士気は低下の一途をたどっていた。韓国軍兵士はソ連製戦車T34に恐れをなし、米国軍兵士は彼らを臆病だと罵り、共同作戦に消極的になっていた。このままでは、最後の抵抗戦をも失うと危惧した白将軍は、マラリアにうなされる病身にありながら、兵士たちの前に立って、こう叫んだ。
「2日間も補給が絶えたのに、よく頑張ってくれた、感謝の言葉もない、だが、もう我々には下がる所はない。大韓民国を滅ぼしてはならない気持ちは皆同じである。今から突撃に行こう。私が先頭だ。もし、私が気後れを見せたら躊躇せず撃て。支援射撃の最終弾とともに突撃だ。私に続け」
そして、師団長であるみずからを先頭にして、敵地に突撃をしかけたのだ。その決死の覚悟により、韓国軍のみならず、米国軍兵士も目を覚まし、彼らは不退転の決意を固めた。
この防戦の結果、9月15日の国連軍の仁川上陸をきっかけとして、韓国軍および国連軍は半島南部を奪回することができたのである。もっとも苦しい釜山円陣の8月攻防戦の際、白将軍がみずから突撃するほどの戦意を見せていなかったら、7月までのように、韓国軍および国連軍は敗走し、半島南部を失っていた可能性があるのだ。
その功績が認められ、白将軍は異例の出世をとげる。休戦後の1953年には、33歳にして韓国初の陸軍大将に列せられた。
白将軍はピョンヤンで育った。決して裕福な家庭ではなかった。貧乏子弟だからこそ、高等教育を受けるためには軍人の道を志すしかなかったのである。
彼は満州国の士官学校に入学し、日本軍人たちの薫陶を受けた。
しかし、彼は日本軍の弱点である「高級将校の訓練不足」「権威主義による現場第一主義の不徹底」を見逃さなかった。
多富洞の師団長突撃が語り草となっている白将軍だが、多国籍の国連軍の中で絶対の信頼を得ていたのは、司令部との連携を密にして、伝令の不備による被害を最小限におさえたという、作戦遂行能力の高さにあるのだ。
日本人の多くが知らなかった朝鮮戦争の実態を、本書は教えてくれるだろう。
そして、それによってもたらされた戦後日本の平和について、我々はもっと積極的に知らなければならないはずだ。
【目次】
(1)白将軍が韓国で非難される理由 ―間島特設隊とはなにか
(2)日本統治が失敗に終わったのはなぜか ―法治主義という名の権威主義
(3)米軍に信頼された白将軍 ―ピョンヤン一番乗りの事例から
(4)朝鮮戦争の英雄のその後 ―未だに残る戦争の傷跡
(1)白将軍が韓国で非難される理由 ―間島特設隊とはなにか
白将軍をはじめ、朝鮮戦争での韓国軍の将官は、満州国や日本の士官学校卒業者が多い。
このことから、日本の軍事愛好者のなかは「朝鮮戦争の韓国軍は旧日本軍の精神を受け継いでいた」と考える者がいる。
しかし、白将軍が米国軍に信頼されたのは、日本の軍事教育の賜物ではない。
たとえば、朝鮮戦争勃発時、陸軍トップの参謀総長であった蔡秉徳は、朝鮮人で唯一の日本陸軍士官学校の現役合格者であった。
(他の朝鮮人の日本士官学校卒業生は、満州国の士官学校からの編入である)
だが、蔡秉徳は開戦後の責任を問われ、ただちに左遷されて、最前線に送られた。後に戦死する。
このように、日本士官学校の経歴は、国連軍の指揮下に入った韓国軍の人事では、必ずしも重視されなかったのである。
そんな実力主義の人事の中で、韓国軍の中心となったのが、満州国軍の「間島特設隊」の出身者であった。
彼らの活躍により、韓国は北朝鮮の猛攻を阻止し、金日成の支配をまぬがれることになったのだ。
ところが、今の韓国において、「間島特設隊」は忌むべき存在として、その出身者の名前は否定的に受け止められることが多い。
その理由は、「間島特設隊」は、満州国において、反日ゲリラ掃討に関わっていたからだという。
当時、朝鮮半島には士官学校はなく、朝鮮人が軍人を志すのならば、五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を掲げた満州国の士官学校に入る例がほとんどであった。その中には、丁一権や朴正煕(後の大統領)のように、後に日本士官学校に編入した者もいる。
その卒業生が、朝鮮人中心の部隊である、いわゆる「間島特設隊」に入隊した。ゲリラ掃討に手を焼いていた日本軍は「朝鮮人のことは朝鮮人に」と、朝鮮人ゲリラの掃討を、間島特設隊に命じたのである。
今の朝鮮人の中には、反日ゲリラは民族的行為であり、正義であったと考える人が少なくない。だからこそ、日本からの独立を訴えた運動家たちを相手に戦った間島特設隊出身者を、朝鮮人は「日帝の手先」として批判しているのだ。
そのせいで、韓国人は朝鮮戦争の英雄たちを認めていないのである。
しかし、間島特設隊は「正義のゲリラを掃討する悪の手先」にすぎなかったのか。
後に北朝鮮の国家主席となった金日成たち反日ゲリラ(抗日パルチザン)は、正義の集団であり続けたのか。
金日成が「北朝鮮の国民を豊かにする政治をしたか?」と言われれば、今では、ほとんどの人がNOと答えるだろう。
北朝鮮のチュチェ思想が、東アジア以外の世界に影響を及ぼした例があるだろうか。
金日成は「正義の政治家」として、生涯をまっとうしたといえるだろうか。
金日成たち反日ゲリラは、みずからの思想のもとに、民衆からの略奪を「補給闘争」として正当化していた。
金日成も関わったとされる普天堡の戦いでは、民間人の家屋に放火し、現金と物資を強奪している。
敵兵も治療したというキューバ革命でのフィデル・カストロ率いるM26ゲリラ隊と比べると、その残虐性はきわまりない。
生産手段のない反日ゲリラ部隊は、「日本からの独立運動」の名のもとに、住民から物資を奪い、子弟をさらい、思想教育をした。
彼らは常に民間人を連行していた。もし、軍隊と交戦したときは、彼らを盾にするためである。その死体は、民衆に自身の戦いを正当化するために利用された。彼らが殺されたのは、日本軍の虐殺のためである、と主張するために。
このようなゲリラ部隊に対して、日本軍はどのように対峙したか。
ここでは、フリー・チベットを訴え続けているアルピニスト野口健のサイトから、フィリピンでの掃討作戦についての記述を引用しよう。
日本軍はどうだったのか。アジア解放とスローガンを掲げながらも、レイテ島では村人の虐殺が相次いだ。日本の帰還兵による証言では、「ゲリラと民間人の区別がつかないので森の中で出会った現地人は全て殺せ」との命令が下り、兵士たちは心の中で密かに「誰にも会いませんように」と祈る思いであったが、そんな時に限って女、子どもと遭遇してしまい、母親は拳銃で殺害し、子どもは弾がもったいないので足を持ちヤシの木に叩きつけ丘から放り投げたとのこと。またゲリラと思われる人を拘束しては船に乗せ沖まで運び重りを体にくくり付けて、生きたまま海に投げ込み殺害したとか。フィリピンをアメリカから解放するはずの日本軍による野蛮な行為の数々、次第に日本人に対して憎しみの感情を抱くのも当然である。
南京事件の否定論者の中には「便意兵(ゲリラ兵)は、当時の国際法では……」と述べる者がいる。この国際法「だけ」を遵守したことが、日本統治がアジアで支持されなかった理由の一つなのだが、「ゲリラと民間人の区別がつかないので全て殺せ」という命令は、戦時中とはいえ、決して許されるものではない。
間島特設隊はどうであったか? 彼らは朝鮮人軍人のエリートが集ったという自負心があった。そして、反日ゲリラが補給闘争(という名の略奪行為)を繰り返すことは、住民の保全をおびやかすものであるという認識で一致していた。
彼らは住民から物資を徴収することはなかった。必ず、現金での取引につとめた。「民弊の防止」を最優先事項に掲げていたのである。
また、軍隊に味方した民衆は、のちにゲリラ部隊に復讐されることになる。そのためには、ゲリラ部隊を「殲滅」することが絶対に必要だった。ゲリラ部隊は、死に物狂いで移動するために、その掃討は耐久力を伴わなければならない。そして、民衆を盾にしていることから、射撃は正確きわまるものでなければならない。
こうしてみると、ゲリラ掃討作戦には、非常に高度かつ専門的な技術が必要なことがわかるだろう。
ちなみに、朝鮮戦争がひと段落ついたあと、師団長・軍団長・国連軍代表を歴任した白将軍は、智異山ゲリラ掃討作戦の責任者となった。韓国軍は精鋭をもって、北朝鮮の支援を受けるゲリラ部隊と対峙したのである。
その掃討作戦は、「冷水一杯でも、ただでは飲まない」を基本方針とし、住民の家屋は借らずに野営し、地域住民に負担をかけないように努められた。
しかし、それでも、民間人への犠牲は避けられないものだった。理由は、民衆が思想教育されていたからである。ゲリラ隊に加わった若者たちは、軍隊をあざけり、共産主義思想を改めることなく銃殺された。
一方で、その思想教育をしたゲリラ隊のリーダーたちは、命欲しさに思想の転向を誓うことが多かったという。
当時、知識人として、共産主義をたしなむことは流行の一つであった。そして、彼らは、共産主義に従えば、富裕層の私有財産を奪うことが正当化されると信じていた。
北朝鮮の、さらには、中国・ソ連の支援を受けていた彼らは、共産主義者になることで暴力が許されると思いこんでいたのである。
間島特設隊には、ゲリラ掃討作戦の困難さを理解していたからこそ、民間人には危害を加えないという高い軍人意識があった。
それは、戦線を拡大したために、皆殺しという粗末な作戦を取ることもあった日本軍とは大きく異なっていたはずだ。
それなのに、今の韓国人は、その「間島特設隊」出身者を非難し続けている。
その反動として、間島特設隊により崩壊させられた反日ゲリラの指導者の一人、金日成の行為が「民族的」としてもてはやされているのだ。
亡命先のソ連でも大尉をつとめた金日成は、有能な指導者ではあっただろう。しかし、一国の元首となるほどの器量があっただろうか。
金日成は本名を金成柱という。
金日成(キム・イルソン)という名前は、1910年代から日本軍相手に戦ってきた英雄として、朝鮮半島では広く知られていたそうだ。
北朝鮮の支配者となった金成柱は、1912年の生まれだから、これらの伝説には当てはまらない。
しかし、抗日の英雄「キム・イルソン将軍」を名乗ることは、彼が支配者となるうえで大きな支えとなったであろう。
さて、白将軍は、指導者となる前の金日成(本名・金成柱)に会ったことがあるという。
1945年8月15日の敗戦後、白将軍は徒歩で一ヶ月かけてピョンヤンにたどり着き、人民委員会という自治組織の受付の職を得た。
そこで、彼は金日成の事務手続きの受付をしていたというのだ。その描写は、後の独裁者としての面影はなく、まるで書生のように書かれている。
金日成たち反日ゲリラの実態を白将軍たち間島特設隊の人間は知っていた。
朝鮮人反日ゲリラは、中国共産党の八路軍とは比較にならないほど秩序が欠けており、略奪を何度もくりかえした集団であったことを。
やがて、ピョンヤンでは、金日成がソ連の後押しで権力を持つようになった。彼が反日ゲリラ出身であるかぎり、「反日」は国是であり、日本軍と関わりを持つ者たちは、金日成にとっては許すべからず存在であった。こうして、白将軍は幼少から育ったピョンヤンを後にし、ソウルに越南することになる。
軍事指導者・政治家としての金日成を、白将軍はまったく評価していない。白将軍は1950年10月20日にピョンヤン一番乗りを果たすが、その道中で国土が荒廃しているのを見て、北朝鮮が国民生活をないがしろにし、軍備のみに力を注いでいたことを知った。朝鮮戦争に参加した軍人が、北朝鮮との対話路線を批判するのは、そのような実態を自らの目で知っているからである。
金日成は10月20日のピョンヤン制圧前に、朝鮮半島から脱出した。本国に戻ったのは、休戦直前のことである。金日成が朝鮮戦争でどれほど軍事作戦をとったのかは定かではない。本書では、軍人としての金日成についての考察に、一文字たりとも割いていない。
おそらく、白将軍たち間島特設隊出身者が批判されているのは、北朝鮮や中国による工作が大きいのだろう。
それに、ゲリラ掃討は、一般人からすれば残虐きわまりないものである。最近の世界情勢だと、スリランカの「タミルの虎」殲滅作戦が記憶に新しい。それらの報道を聞いて、スリランカ国軍の徹底した掃討作戦に、恐怖心を抱いたかもしれない。
しかし、それが現代の戦争の実態である。ゲリラが暴力という手段を取るかぎり、殲滅するしか解決する方法はないのだ。
白将軍は「北との対話路線には限界がある」という持論を崩さない。それもまた、白将軍が韓国人に否定的に受け止められる理由の一つである。
だが、実態はどうか。最近の開城工業団地をめぐる北朝鮮の主張を調べてみるといい。北朝鮮は、日本のみならず、韓国相手にも不当な要求をくりかえしている。
もし、白将軍が多富洞で一ヶ月以上もの防衛ラインを維持していなければ、半島全体が金日成の支配下になったかもしれない。それがどのような結果を招くのかは、語るまでもないだろう。
朝鮮戦争の有事は、日本にとっても他国の話ではない。黒船来航以降、日本にとって朝鮮半島は「国防問題」であった。南北に広い日本にとって、その国体を維持するためには、朝鮮半島を味方にしなければならなかった。最終的にそれは統治という形を取ったわけであるが。
朝鮮戦争をきっかけとして、日本では警察予備隊、後の自衛隊が発足した。そして、今もなお、北朝鮮の有事は日本の国防に関わる問題となっている。
戦後、日本ではそれまでの多数派であった開戦論者を批判する動きが起きた。同じように、朝鮮半島でも、日本統治を声高に批判することが正義とされた。
たとえば、1945年8月9日のソ連侵攻後、瓦解する日本軍を裏切ったと誇らしく語る朝鮮軍人は少なくなかったという。
白将軍はどうであったか。母と妻をピョンヤン行きの列車に乗せたあと、自身の属する部隊の隊長であった曾根原実少佐に説いた。とにかく早く故国に帰るのが大事である、と。
しかし、曾根原少佐は、部下も家族も残して満州を去るわけにはいかないと、白将軍の言葉に首を振った。
やがて、曾根原少佐はシベリアに送られ、十年近くも監禁生活を送ることになる。
自身に流れる民族の血や国籍は、重要なものである。だが、白将軍には朝鮮人としての誇りだけではなく、軍人としての矜持も備わっていたのだ。
だからこそ、彼は朝鮮戦争時に米軍をはじめとして国連軍にも信任され、その勇名を轟かせることができたのである。
(2)日本統治が失敗に終わったのはなぜか ―法治主義という名の権威主義
白将軍が生まれたのは、1920年のこと。朝鮮半島の三一独立運動が起きた翌年のことである。
その独立運動に慌てた日本は、文民統治へと転換した。こうして、学問が奨励される時代に、白将軍は育ったのである。
白将軍はピョンヤンの国民学校で日本語による教育を受けたが、それに対して反発心は抱かなかったという。そのため、日本語は堪能であり、本書もすべて日本語で書かれている。
日本の朝鮮統治は「北は工業、南は農業」とされていたように、朝鮮半島北部の中心地であるピョンヤンでは、すでに朝鮮人経営者による地場産業がさかんであった。
今では韓国料理とされる焼肉や冷麺は、分断国家樹立後に、北から南に逃れた人たちが始めたものであり、もともと、朝鮮北部の文化であった。
勤勉であった白将軍は、やがて、ピョンヤン師範学校に入学する。
当時、朝鮮半島に師範学校は、南から、テーグ、ソウル、ピョンヤンの三校しかなかった。
白将軍の入学したときのクラスは、朝鮮人90人に対し、日本人10人であったという。ソウルでは日本人の比率が高かったそうだ。
このように、ピョンヤンでは、日本人の影響はそれほど強くなく、その差別は南部ほど厳しいものではなかったという。
その理由の一つは、南部が農業主体であったことがあげられる。日本人地主によって、小作人であった朝鮮人は搾取されていたのだ。
朝鮮人の日本統治の体験談に耳を傾けるとき、それぞれの出身地は知っておく必要があるだろう。
たとえば、後に韓国大統領になった朴正煕は、もっとも南のテーグ師範学校卒業生であった。
白将軍と朴正煕大統領の対日感情の違いは、このような出生地に起因していると思われる。
こうして、師範の資格を得た白将軍だが、卒業後、満州国の奉天士官学校に入学する。幼くして父を亡くし、母子家庭だった白将軍にとって、師範学校以上の高等教育を目指すには、満州国の士官学校を目指すほかなかったのだ。母方の祖父が有名な軍人であったため、幼少から軍人への憧れもあったという。
このような経歴を持つ白将軍は、日本の文民統治の恩恵を受けていると思われるかもしれない。
しかし、白将軍は、日本統治期を総括して、「やはり、植民地支配であった」と否定的な意見を述べている。
白将軍による日本人差別とは、次のようなものである。
植民地統治支配の一つのエピソードだが、韓国人は(教師の)給与で差別されていた。(中略)当時の初任給は40円前後であったと記憶しているが、この本給は平等であった。ところが日本人には、本給の六割をプラスして支給されたのである。
日本による朝鮮統治は、欧米列強に人道的であったと認められるべく、朝鮮人と日本人の間で差別はなかったと主張されていた。満州国建国の際も、五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を国際的に掲げていた。
しかし、その内実は、このような「手当」によって差別されていたのである。
このような差別は、今の日本社会にも同じことが言えないだろうか。
特別手当を「日本人だから当然」と考えるならば、平等という建前は外すべきである。
このような差別が常態化していたからこそ、韓国人は「植民地支配」として日本統治をとらえているのだ。
そして、日本の「文明化」にも反発が大きかった。これも、白将軍の回顧録から引用する。
日本の「なんでも法治主義」にも問題があった。恣意的な人治よりも法治のほうが合理的かつ公平というのは日本人の論理であって、アジア全般に通じる論理ではない。日本は西欧から学んだ法治主義に、江戸時代に培った「お上は万能」精神は加味したものをアジア全体に押しつけようとした。韓国ではあまり言われなかったが、中国人では日本人を「法匪」と呼んでいた。法律を振りかざす匪賊の意味である。大陸に渡った日本の官吏は、せっせと法律をつくって人びとの生活に干渉したのだから、反発されるのも無理はなかった。
耳が痛い話ではないか。今もなお、地方公務員は「お上」にふりまわされて、自治ができないままでいる。
中国は未だに人治主義であり、その土地の有力者に認められないかぎり、法は意味をなさないのだが、中国に向かった日本のビジネスマンは、己の法治主義をグローバルスタンダードと信じて、「中国人に騙された」と嘆いているのである。
結果として、アジアでの日本統治は失敗に終わった。1945年8月15日に、アジアに散らばる神社は瞬く間に消え去った。それは、日本が現地の精神や文化を支配しようとしたものの、受け入れられなかったことを意味する。白将軍はこう記述する。「宗教をはじめ、あらゆるものが武力によって支えられていたことを示している。それだからこそ、日本に武力がなくなったとき、すべてが瓦解したのである」と。
日本統治による教育普及やインフラ整備は一つの成果だが、それらがすべて武力を背景にしたものであったことは忘れてはならないだろう。だからこそ、1945年の8月15日に日本は軍隊だけでなく、他民族の支配地域を失ったのである。
そして、「お上は万能」という権威主義の横行は、日本軍の弱点でもあった。
それが現場第一主義の不徹底を招き、朝令暮改の軍令が繰り返され、多くの兵士が命を落とすことになったのである。
(3)米軍に絶大の信頼を受けた白将軍 ―ピョンヤン一番乗りの事例から
日本軍の問題点について、白将軍は非常に言葉を選んでいる。そこで引用されているのは、日本軍史を知る者ならば、納得するしかない二人である。
まず、ノモンハン事件の際の、ソ連軍のジューコフ元帥の評。
「日本軍の下級将校はよく訓練されているが、高級指揮官は未熟である」
そして、米海軍で有名をはせ、戦後は自衛隊の再建につとめた、バーク提督の評。
「日本海軍の敗因、それはおおむね人事の問題に帰結するのではないか。人事が硬直していたと聞いている」
これは、軍隊に限らず、今の日本の組織にも言えることかもしれない。
朝鮮戦争後、大田協定により、国連軍の指揮下に入った韓国軍は、その人事でも国連軍の影響を受けるようになった。
たとえば、陸軍トップの参謀総長をつとめた丁一権が、米国陸軍学校の留学ののちに、師団長に補職されたのも、その一つである。
左遷された蔡秉徳の後任として、参謀総長となった丁一権は、李承晩の信任厚く、米軍との関係も良好であり、韓国陸軍トップとしての職務を果たしてきた。
しかし、米軍からすれば、丁一権に師団長という現場指揮官の経験がないことは、その人事管理に反するものであった。
白将軍はこのとき参謀総長であったが、先輩である丁一権に降格人事を伝えるのは、とても心苦しいものであったと書く。
その後、丁一権は師団長として偉功を立て、野戦指揮としても有能であることを知らしめることになった。その後、軍団長をへて、再び参謀総長につき、退役後は外交官として各国大使をつとめ、朴大統領の政権下で、国務総理(首相)や議長を歴任することになる。
このような米軍人事の中で、もっともきわだった昇進をとげたのが、白将軍であった。その要因は何であろうか。
ここでは、1950年10月20日のピョンヤン一番乗りのエピソードを紹介してみよう。
ソウルを奪回し、いよいよ、朝鮮北部へと進出することを決定した国連軍司令部だったが、もともと、白将軍の率いる第一師団は、作戦計画では軍団の予備となっていた。
第一師団だけではない。韓国軍の師団はすべてピョンヤン侵攻作戦から外されていた。
これに激怒した白将軍はベンブラント参謀長に異議をとなえたのである。
「韓国軍が参加しないピョンヤン攻略作戦は納得できない。この戦争の当事者は韓国軍ではないか」と。
ベンブラント参謀長は「軍団長は風邪で休んでいる。意見は伝えておく」と言ったが、白将軍は納得せずに、面会の段取りをこじつけた。
ミルバーン軍団長は、第一師団の保持車両の少なさから、その機動力には懐疑的であった。
そこで、白将軍は日清戦争の際の、ピョンヤン会戦の経過を説明したのである。そして、当時の日本陸軍立見大佐と同じ役割を担当したいことを理路整然と述べた。
かつての日本陸軍はモルトケ戦術を模範としていたが、それはミルバーン軍団長の興味をひく計画であった。
また、韓国人部隊だからこそ、ピョンヤン付近への土地勘がある者が多いと白将軍は主張した。
こうして、ミルバーン軍団長は、異例ともいえる作戦内容の変更を命じたのである。第一師団はピョンヤン北進作戦の一翼を任されたのだ。
しかし、一番乗りを目指すには、車両が不足していた第一師団は一日目には五、六キロ進むのがやっとであった。
幕僚や米軍顧問を交えて、白将軍は歩戦共同作戦をとることに決める。みずから先頭の戦車に跨乗し、先導するという突撃戦法を取ったのである。
それでも、夜間にも進軍する予定の白将軍の計画は、米軍から支援にきていた戦車中隊には受け入れられなかった。
そこで、白将軍は夜間の警戒を韓国軍が担当することを約束し、それを実行した。
当初、国連軍のほとんどは、韓国軍第一師団のピョンヤン一番乗りを期待していなかっただろう。
だが、それが現実味を帯びるにしたがって、偵察機ですら白将軍を応援するようになる。
戦史によれば、どうも、国連軍第一騎兵師団は、最後に「一番乗り」を白将軍ゆずったのではないかと思える進軍速度を取っている。
しかし、白将軍に華をもたせたのは、もともと、計画にすら入ってなかった第一師団の奮闘があってこそである。
ピョンヤン一番乗りを果たしたことで、もっとも盛り上がったのは、支援の米軍将兵であった。
彼らは何故か用意していた看板を掲げた。
「歓迎、第一騎兵師団。 韓国第一師団 白より」
さすがにこれには、生真面目な白将軍は困り果てたようだが、このようなセレモニーができたのも、司令部との伝令を確実なものとし、筋の通った作戦を取り続けたからである。
戦場では、敵兵の指揮官の顔が見えないばかりか、味方の部隊の位置も把握できない。
そのため、軍団相互に協議して、作戦地境を定めてから、行動しなければならない。
そうでなければ、友軍相撃の惨事を引き起こすからである。
残念ながら、このときのピョンヤン占領は一時的なものに終わった。中国軍が70万以上の兵士による人海戦術で参戦したため、韓国軍および国連軍はピョンヤンを放棄せざるをえなかったのである。
この苦しい撤退戦でも、白将軍は前線に立ち、その被害を最小限に食い止めた。
白将軍には超人的な身体能力があったのではない。開戦後はマラリアにかかり、その熱病にうなされることがあったという。
その白将軍が、どうして、多大な功績を遂げることができたのか。
その理由の一つは、多富洞での突撃に代表されるように、戦意を常に兵士の前に見せていたこと。
指揮官の表情を見せることで、兵士がその士気を高めることができたのである。
そして、兵士が心置きなく戦えるような組織づくりにつとめたことである。
そのためには、現状把握に努めなければならない。
この回想録の多くは現場指揮官としての「人事」の大切さを伝えているように思われる。
部下である連隊長との様々なやりとりは、仕事で人間関係に苦しむ者にとって、非常に参考になるものばかりだ。
戦場でもっとも大事なのは、兵士全員が達成できる目的意識を共有できることである。
そのために、現場指揮官は、人事の注意を怠ってはならないのだ。
そのような戦場を知っている白将軍だからこそ、「越境将軍」を許したことが、第二次世界大戦の日本の敗因であったのではないか、暗に主張しているのである。
兵器や戦術が発達しようとも、戦争から「人事」の問題が消えることはない。
(4)朝鮮戦争の英雄のその後 ―未だに残る戦争の傷跡
日本人にとって、李承晩という韓国初代大統領の名前は「竹島問題」とともにあげられることが多い。
「李承晩ライン」は、日本にとっては決して認められるものではない。韓国側の不法占拠であると見なすのが当然だろう。
そんな李承晩政権下で、白将軍は韓国陸軍参謀総長などをつとめ、軍政に関わった。
果たして、彼が李承晩のことをどう思っていたのかは、興味深い記述がある。
これは大変な人だというのが、私の第一印象だった。(中略)李承晩博士(*)に接して感じたのは、中世の宮廷政治家とはこのような人物だろうということであった。計算しつくされた言動や政治の手法を見て、これはやはり世宗大王の長兄の血を継ぐ人物だと納得させられた。同時に博士は敬虔なキリスト教徒であり、トーマス・ウィルソン大統領の弟子と自負する開明的な思想家でもあった。さらには東洋の故事来歴に通じた哲学者であった。私など、ことあるごとに口にされたことわざを聞き、勉強になったものである。東洋にかぎらず西洋にも通じ、アメリカの独立宣言についてアメリカ人が驚くほど詳しく解説されていたことが、マーク・クラーク将軍の回想録に記されている。
(*) 李承晩は米国プリンストン大学で博士号を取得している
まるで、高杉晋作が毛利候に寄せていた忠誠心と同じようなものを感じないだろうか。
日本人である我々は、李承晩に対して厳しい評価をすることが多い。李承晩ラインだけでなく、休戦条約に最後まで合意しなかったことも、批判されてしかるべき要因だと見る。
しかし、朝鮮人である白将軍にとって、李承晩大統領は、頭の上がらない存在であったのだろう。個人的には、まるで殿様とサムライのような関係を、この両者に見出してしまう。
人間は誰しもさからえない相手というものがある。
やがて、李承晩大統領が失脚するとともに、白将軍は軍を退役することになる。それは、軍の要職を白将軍らが占めていたことへの、青年将校の反発によるものだった。
朝鮮戦争でめまぐるしい功績をあげた白将軍も、「腐敗の象徴」とされたのだ。
その要因は、当時の韓国が貧しく、軍人への手当が不十分だったことにあるだろう。
50年代初期の韓国の個人年間所得は100ドルに満たなかった。北朝鮮に備えるために、軍事費を減らすわけにはいかず、それは農業のほかに産業がなかった韓国の予算を圧迫した。
そのような状況下でも、白将軍は軍隊による人材育成につとめた。人材こそが国の財産となると、白将軍は信じていた。
彼らによって、後の「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げることができたのだと、白将軍は自負している。
「漢江の奇跡」が、日韓基本条約とベトナム派兵で得た外貨で成し遂げられたのは事実である。
しかし、その功績は、日本や米国ではなく、朴正煕という経済感覚に優れた韓国大統領に帰すべきだろう。
朴正煕は1961年に軍事クーデターを起こし、やがて大統領の座に就く。
そのとき、白将軍は中華民国(台湾)の大使をつとめていた。退役軍人に外交官が任されたのは、朝鮮戦争にて国連軍と連携を取っていたためである。
このクーデターに白将軍が関与していたとは思えない。そして、その後も、長期にわたって、フランス・カナダの大使をつとめた。白将軍が、朴政権下の韓国に戻ったのは、1969年のことだった。
このとき、白将軍は交通部長官(日本の国土交通大臣)を任される。そして、有名なよど号ハイジャック事件に、長官として対処し、日本側にその指揮を認められた。それが契機で、白将軍は日本の政治家と関係を持つことができ、ソウルの地下鉄工事に、日本側の協力を得ることができたのだ。しかし、貨物船転覆事件の責任を取り、1970年末に交通部長官を辞任している。
それからも、国策会社の社長などを務めるなどして、白将軍は韓国の発展のために尽くしてきた。
戦場での人材管理が、民間人としても生かされたのは言うまでもないことだろう。
日本の軍事関係者に尊敬の念を抱かれる一方で、白将軍の評価は韓国では不当に低い。
それは、数百万もの血を流しても朝鮮半島が統一を果たせなかったこと、在韓米軍との大田協定など、今の朝鮮半島の有事の責任を、白将軍に押しつけていると思われる。
白将軍が本国で低く評価されているという事実に、我々は朝鮮戦争の悲惨さが見るのである。
日本人としてこの白将軍の回顧録を読むことは、軍人としての現場指揮のあり方や、戦争の実態を知ることのほか、韓国人が正視できないでいる朝鮮戦争の背景を学ぶことができるはずである。
嫌韓感情を抱いている人や、それに反発する人は、どうぞ、この本を読むことで、朝鮮半島の近代史について正しく理解してほしい。
- 作者: 白善
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2000/05
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 90回
- この商品を含むブログ (12件) を見る
追記
「Korea」を日本では「朝鮮」と訳すのが一般的だ。
韓国では「Korea」を「韓国」と訳し、北朝鮮では「Korea」を「朝鮮」と訳す。
このため、大韓民国樹立以前、さらには、李氏朝鮮時代をも、韓国では「韓国」と呼ぶ。
さらにいえば、朝鮮半島を韓国では「韓半島」と呼ぶ。「朝鮮戦争」のことも「韓戦争」とする。
韓国人である白将軍は、本書では「韓戦争」「韓半島」と記している。本書での「韓国人」とは「韓国の国籍を持つ人」のことではなく「Korean」、つまり日本語でいうところの「朝鮮人」として使われている。
韓国側は「朝鮮」には日本の植民地支配の意味合いがこいとして、日本側に「Korean」を「韓国人」と訳すように呼びかけている。
しかし、ここではより理解されるために「朝鮮人」という言葉を用いた。
これらの呼称問題は、半島の分断がしかるべき形で収束されるまで続くだろう。
日本人である我々は、北と南の言い分に従うだけではなく、その背景にあるものを知ったうえで、正しく対処しなければならないだろう。
朝鮮戦争時、日本の海上保安庁は、米海軍の依頼を受けて、特別掃海艇を派遣した。そして、1950年10月17日に一人に死者を出している。
参加した1200人の隊員は誰一人事実を言わず、死亡した中谷坂太郎に勲章が追贈されたのは、死後30年をへた1979年のことである。
当時、日本では世間を挙げて、戦争を否定的であったために、これらの事実がおおやけにされることはなかった。
しかし、戦後半世紀を経た今、日本の平和がいかにして築かれたのかは知るべき必要があるだろう。
戦争を批判するのは人間として当然のことだが、その主張を確かなものにするためには、日本も関わった朝鮮戦争の史実を受け止めなければならないはずだ。