戦争の本質と、不戦で勝つことの意味

 
 僕は戦争が嫌いだ。
 なぜなら、軍隊というやつは、体育会系だからである。そのノリが僕は好きではない。
 
 戦争の本質については、ナポレオン・ポナパルトの次の言葉に集約される。
 

 
凡なる一将は、非凡なる二将に優る
 

 
 あらゆる戦闘は(ゲバラの言葉を借りればゲリラ戦も)物理法則に基づく。
 いかに雑多な集団を、ひとつの物体エネルギーとするかが、戦争のすべてといっていい。
 
 そのために、平凡な司令官一人のほうが、優秀な司令官二人よりも、軍隊にとって幸せなことなのだ。
 
 だから、軍隊は体育会系のノリにならざるをえない。
 そこでは、自分にとっての強者と弱者をすばやく見抜き、弱者いじめに興じる者がしぶとく生き残る。
 なぜなら、彼らは上官の命令には絶対的に従うため、士気の低下を招かないかぎり、上官に役立つ存在だからだ。
 もちろん、そのような料簡の狭い人間は軍曹どまりだろうが、新兵が最初に接するのは、こういう厄介な連中である。
(これは、会社という組織でもよくあることである)
 
 
 次に、そのナポレオンが参考にした「孫子兵法書」の作者といわれる孫武のエピソードより。
 

 「わしの側室である女性達で軍隊を編成してみよ」との命を受け、孫武は王の愛妾二人を隊長に部隊を編成した。だが、女性達は孫武の指示に一向に従わない。
 
(中略)
 
 すると孫武は「私は編成の取り決めを再三にわたって説き、皆に申し渡した。(中略)それなのに誰一人命令に従う者がいないならば、その隊長たる者には軍令に背いた責任を問わねばならない」と言うと、隊長である二人の愛妾を斬ろうとした。
 
 その様子を見て驚いた闔廬(王)は慌てて「わしの落度だ。わしに免じて彼女らを許してやってくれんか?」と止めようとしたが、孫武は「一たび将軍として命を受けた以上、軍中にあってはたとえ君主の意向といえども従いかねる事もございます」と言って、願いもむなしく隊長と定めた闔廬の愛妾を二人とも斬ってしまった。そうして残った女性達の中から新たな隊長を選び出して練兵を行うと、今度こそどのような指示にも背こうとする者は一人もいなくなった。
 
引用元:孫武 - Wikipedia

 
 いかにも「孫子兵法書」の作者らしいエピソードである。
 戦争では、このように軍法と軍律がもっとも重要なのだ。
 
 
 僕はキューバ革命の立役者であるゲバラの本や、朝鮮戦争で活躍した韓国軍人、白将軍の回想録を愛読している。
 かたや共産主義者、かたや反共主義者と思想は異なるが、二人の書いているものは不思議なことに一致している。
 どちらも、敵をどれだけ倒したかよりも、いかに味方を処罰したかという人事管理を重視して書いているのだ。
 
 ゲバラの「革命戦争回顧録 (中公文庫)」には、劣勢ながらも政府軍を破った、という爽快感のある内容は少ない。
 彼が倒した敵の数よりも、処罰した味方のほうが圧倒的に多いのだ。
 彼らをなぜ処刑したか、そして、士気がどのように保たれたかが、ゲバラがもっとも伝えたかっただったのだろう。
 だから、みずからの功績を誇るような描写は数少ない。
 「三国志演義」のような内容を期待している人は、おそらく、まともに読むことができないだろう。
 
 韓国軍人である白将軍の回顧録若き将軍の朝鮮戦争」はもっと客観描写が徹底していて、他の資料を読まなければ、白将軍の軍隊がどれだけ優れたかを知ることは難しい。
 何しろ、みずからの功績を記すのに、あえて、敵国である北朝鮮軍史を引用しているぐらいなのだ。
 そして、その内容の多くは、米軍中心の国連軍という上司と、ソ連製兵器におびえる部下の間で、どのような人事対策をして戦場にのぞんだかが書かれている。
 
 
 特に、白将軍の本を読みながら考えるのだが、軍事国家であることをやめた日本にとって、国防は米軍などの他国の協力なしには成し遂げられない。
 そのとき、他国の軍人を奮い立たせるために、自身の「ナショナリズム」を主張することは欠かせないが、それは世界共通の「ナショナリズム」でなければならない。
 誰もが、自分の家族を守りたいものである。自然災害のときに、互いに助け合うように。
 そして、それは世界中の人々に支援される。被災地に義捐金が寄せられるように。
 それを招く「ナショナリズム」として、自国の文化や歴史を知ることは大切である。ただ、それは他国の者を感銘させる説得力がなければならない。
 あなたは、日本人であることのすばらしさを他国の者に主張することができるだろうか。
 
 僕は、多くの人と同じように、韓国のナショナリズムが大嫌いだが、韓国人はあまり嫌いではない。
 たいていの人が韓国を嫌うのは、そのナショナリズムが虚飾に彩られているからである。
 そして、韓国人はそれを主張しなければ、国際社会での地位が上がらないと思い込んでいる。
 そのような、歪んだナショナリズムは、もっと批判してしかるべきだと思う。
 ただ、それだけで韓国人と対立するのは問題だ。
 朝鮮半島は、日本の国防を考える上で、絶対に無視することはできない。これは、黒船来航以降、変わることのない事実である。
 
 個人的には、日本人の陰湿さと権威主義も僕は嫌いである。
 特に、戦前の日本では、上に媚び、下をいびる連中が大きな顔をしていた。
 今の学校でも同じような光景が見られるけれど。
 自慢じゃないが、小中学生のときは、そういう光景を見るのが大嫌いで、その兆候が起きただけで、僕はそいつらと口をきかなくなったものだ。
(といっても、女の子を好意の裏返しとしてイジめたことはある。高校時代に、そのことをきかれたときは、さすがに照れた)
 
 手塚治虫が戦争を嫌いなのは、そういう戦時下社会を経験したことがきっかけなのだな、と彼の漫画を読みながら考える。
 
 
 世界中の軍事学校で、今でも教えられている「孫子兵法書」は、「不戦」の大切さを何よりも説いている。
 孫武が王の愛妾二人を惨殺したというエピソードは暴力的だが、戦時状態とはそういうものであることを、王に教える意図があったのだろう。
 
 ゲバラも、その回想録で何度も「平時ならば処刑するほどのものではなかった」と記している。
 だが、戦争とはそういうものなのだ。異なる考えを持つ人々を、一個の物体エネルギーにしなければ、相手に勝つことができないのである。
 その軍律のために、味方を処刑しなければならないことがある。
(だから、民主化により、兵士への厳罰が難しくなった米国軍は、その代わりに大量の自殺者を出しているのだ)
 
 
 僕は「戦争」を軽はずみに言う人間が大嫌いである。
 ただ、それは自国の「ナショナリズム」を持たないこととは一致しない。
 思想のもとに宗教や国境を破ろうとした共産主義は失敗したではないか。
 人間には国家というものが必要だと今の僕は考えている。
 
 
 日本の戦後体制は、国民から「戦争」に目をそむけさせながら、自民の政治家や官僚が諸国との交渉につとめ、平和を維持してきたのが実態だろう。
 戦争のことを考えずにすむ社会は理想的だが、東アジアは、分断された半島、そして中台と、世界屈指の軍事力が集う危険地帯である。
 
 民主政権は、そんな自民政治家や官僚による平和維持から、新たな方向性に進むかもしれない。
 それは、これまでの戦後体制が平和を保つために、国民にとりつくろっていた虚飾をはがすことになるだろう。
 「利権打開」の名目のもとに、その実態を知ったとき、日本人はどう思うだろう。
 平和を唱えるだけでは、決して、平和は訪れない。
 
 
 そんなことを、孫子兵法書を読みながら考える。
 せっかく、軍事国家の道をやめているのだから、「不戦で勝つ」ことの意味を、もっと日本の人々は考えなければなるまい。