涼宮ハルヒはどこに向かうのか? ―ハルヒ二期OPが期待外れだった理由
久しぶりにアクセス解析をしてみると、当ブログの来訪者は、相変わらず「ハルヒ性転換小説」目当ての人が多いみたいだ。
登場人物の性別を変換させた二次創作では、原作で不可能だったシチュエーションを描くことができる。
僕の場合、「超能力者・宇宙人・未来人が一切出てこない」SOS団を書いてみたかった。
だから、長ったらしい(原稿用紙300枚超の)二次創作を書いたのである。
「神様のいないSOS団」を描くことが、性転換をすれば可能だと思った。そんな実験作が、僕の「涼宮ハルヒコの憂鬱」である。
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原作の「涼宮ハルヒ」は孤立した存在であると思う。
彼女には、とある特殊能力があるが、そのことを自覚していない。
そして、彼女以外の重要人物はその事実を知っている。
そもそも、SOS団員は彼女の特殊能力のために集った連中がほとんどである。
それなのに、涼宮ハルヒは、「あたしが楽しいことをしているから、みんなはついてきている」と信じきっているのである。
やがて、彼女が自身の能力に気づいたとき、どんな感情を抱くだろう?
それを、彼女だけが知らなかったことを、誰も教えてくれなかったことを、どう思うだろう?
彼女は愚鈍な人間ではないから、いつしか、その事実に気づく日がくるはずだ。
それは、彼女が信じていた「友情」の崩壊を意味する。
僕は原作者に、そこから立ち直るハルヒとSOS団を描いてほしかった。
それは「涼宮ハルヒの消失」以降の、傑作となりうる唯一の題材であったと思う。
しかし、「涼宮ハルヒの驚愕」の発売延期以降、いつまでたっても新刊が出る予定はない。
このような状況で、ハルヒのアニメ二期は始まった。
今は「エンドレスエイト」の無限ループを繰り返している状況みたいだが(第14話現在)、時計の針を進めたくないのは、「いつまでも高校一年のままでいてほしい」というファンの思いよりも、原作者や制作スタッフにあるのではないかとかんぐってしまう。
ハルヒのアニメ二期の新OPを見たときから、僕はそんなことを感じていた。
この新OPの作・編曲者は神前暁である。
彼の職業は「サウンド・デザイナー」。その肩書の通り、彼はクライアントの要望にこたえて、数多くの印象深い楽曲を作ってきた。
「涼宮ハルヒの憂鬱」では、劇中の自主制作映画の主題歌「恋のミクル伝説」(⇒Youtube)、ハイライトとなった学園祭での「God Knows...」「Lost My Music」(⇒Youtube)を手がけている。
そして、「らき☆すた」では、ラップ調の「もってけ! セーラーふく」(⇒Youtube)、演歌調の「夢結びの雨」(⇒Youtube)、特撮番組調の「悠長戦隊ダラレンジャー」(⇒Youtube)など、あらゆるジャンルの作曲に挑戦してきた。
しかし、今回のハルヒ二期OPの「Super Driver」には、コンセプトが感じられない。
エネルギッシュでパワフルな楽曲ではあるけれど、ハルヒ人気を決定づけた「ハレ晴れユカイ」(⇒Youtube)や学園祭の「God Knows...」、らき☆すたの「もってけ! セーラーふく」に匹敵するほどのインパクトはない。
新OPで、ハルヒはどこか向かって走っている。
SOS団員はそれを追いかけている。だが、それはハルヒが特殊能力を発生させて世界を混乱させないための、いわば「任務」にすぎないわけだ。
涼宮ハルヒはさておき、残りの連中は「未来」に向かって走っているのではないのである。
彼らはハルヒを追いかけながら次のように思っているはずだ。
それは、僕が新OPを見て抱いた感情と、不思議なことに一致する。
いったい、涼宮ハルヒはどこに向かっているのか?
アニメ一期のOP「冒険でしょでしょ?」は、いかにもアニメソングらしい曲調だった。
当時、「声優アイドル」にすぎなかった平野綾のイメージと同じように。
二期OPのボーカルと同じく、一期OPをうたっているのは涼宮ハルヒ役の平野綾だが、一期と二期との間には彼女自身に大きなイメージの変化がある。
「冒険でしょでしょ?」のPVでの平野綾は、まるで「80年代アイドル」のようだ。
このアニメをきっかけに、平野綾という声優はアニメファンにとどまらない支持者を得ることになった。
「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品は、彼女にとって大きな一歩を踏みだした出世作だった。
そして、彼女は自分の可能性を広げるべく、イメージ・チェンジをする。
アニメ一期放映後のライブで登場した彼女には、もはや、PVのときの「80年代アイドル」の面影はない。
そこにいるのは「声優アイドル」ではなく、ひとりの「女性シンガー」であった。
このことを苦々しく思うファンは多かった。従来のファンへの裏切り行為だと感じる者もいた。
しかし、「声優」に偏見を抱いていた人たちにとって、この平野綾の姿は、魅力的に映ったはずだ。
このような素敵な女の子が、涼宮ハルヒを演じているということに。
僕もその一人である。
僕が「涼宮ハルヒの憂鬱」に興味を持つようになったのは、学園祭ライブ(⇒Youtube)の作画と楽曲の良さとともに、平野綾という声優のルックスが大きかった。
失礼ながら、ハルヒを「オタクが見る深夜アニメ」と思っていた僕の偏見を、平野綾は払拭してくれたのだ。
それから、平野綾の楽曲は、アニメ声優を演じなくても、オリコン上位をマークするようになる。
その活躍を苦々しく思う従来のファン(の一部)は、「かわいいからハルヒの主役に選ばれただけなのに調子にのりやがって」という負の感情を抱いているようだった。
そんな状況で、平野綾はハルヒと同じ京都アニメーションの新作「らき☆すた」の主役を演じることになった。
「らき☆すた」の主役、泉こなたは、ひとことで言ってしまえば「オタク少女」である。
はたして、平野綾にオタク少女を演じることができるのか?
ミスキャストではないかと危惧する人は少なくなかったが、平野綾はその前評判をくつがえすことに成功した。
特に、上記動画の「コスプレ喫茶」のシーンでは、泉こなた(青髪の少女)と涼宮ハルヒの声を、たくみに使い分ける平野綾の演技力を知ることができる。
もともと子役として、少女時代から場数を踏んできた彼女(⇒youtube)は、決して「かわいいだけ」で主役に選ばれたのではなかった。
この「らき☆すた」での主演で、平野綾への印象を改めた人は僕だけでないはずだ。
さて、この「泉こなた」役を演じる機会を生かそうと考えたコンビがいる。
それが、ハルヒ二期の新OPを手がけることになる、畑亜貴・神前暁コンビである。
彼らはとんでもない曲を、平野綾が演じる「泉こなた」のキャラクターソングとして提供したのだ。
例えば、「コスって! オーマイハニー」(⇒Youtube)では「二次元へようこそ」というフレーズを歌わせることに成功した。
そして、「胸ぺったんガールズ」というユニットを組ませて「ロリィタ帝国ビショージョ大帝」(⇒Youtube)という曲まで歌わせている。
(「AYA STYLE」でおなじみのとおり、平野綾のバストは豊かなものではない)
こんなイジメのようなことが許されるのも、平野綾の歌ではなく、「泉こなた」の歌だからである。
それは、シンガーとしての「平野綾」のブランドが確立していたからこそ許されたことだろう。
もはや、彼女が役柄としてのオタク用語を連発しても、将来性を心配する声はなかった。
これらの「泉こなただからこそ」の曲を大いに楽しんだのは、僕だけではあるまい。
このような経緯があって、ハルヒ二期OPが発表された。
僕は「涼宮ハルヒだからこその曲」を期待していた。畑亜貴・神前暁コンビが、どんな曲で驚かせようとするか、あれこれ想像したものである。
しかし、その曲は、平野綾のシングルとしてのインパクトしか残さなかった。
「らき☆すた」では、「才能の無駄づかい」と揶揄されるほど幅広い曲をのこした、サウンド・デザイナーである神前暁が、今回のような曲を提供したのはなぜか。
それは、彼に曲を依頼した制作スタッフが「面白いコンセプト」を提示できなかったからだと思う。
その理由は涼宮ハルヒが向かう未来を、制作スタッフが明確に描いていないせいだと推測する。
それは、原作に「涼宮ハルヒの消失」以降の傑作がないからである。
一期のときのアニメ制作スタッフには「まだ消失というネタがある」という余裕があった。しかし、二期の今は「もう消失しかない」のである。
今回の新OPは、まるで外国人のAMVを見るような思いにさせる。
Youtubeやニコニコ動画のアマチュア作品と比べると、そのクオリティの高さは段違いに良いが、多くの人はそれよりも「面白さ」を求めていたはずだ。
「ハレ晴れユカイ」や「もってけ! セーラーふく」のような。
「涼宮ハルヒの憂鬱」は、中高生に熱心に支持されている作品である。彼女たちは、傍若無人なハルヒの活躍っぷりに、胸のすく思いをしているのだろう。
かわりばえのない毎日、いじめなどの陰湿行為がくりかえされる学校生活の中で、SOS団の物語にピカレスク小説を読むような爽快感を抱いている少年少女は、決して少なくない。僕自身、ハルヒに憧れている女子中学生と会った。彼女はひそかにSOS団のいる高校生活を夢見ているようだった。
しかし、冷静に読んでみると「涼宮ハルヒの憂鬱」は、ハルヒの絶対性を極力生かすことを主眼においただけの作品であることがわかる。
登場人物たちは、涼宮ハルヒの引き立て役にすぎないのだ。そして、それらのパーツは「サブカルチャーのパロディ」と批判されても仕方ないものである。
他のライトノベルとの違いは、涼宮ハルヒの圧倒的存在感を強調することに専念した「思いきりの良さ」にある。
涼宮ハルヒというアクの強いキャラクターがいなければ、長門有希らの他のメンバーに注目が集まることはなかっただろう。
原作では、「涼宮ハルヒの陰謀」以降、ハルヒの絶対性を脅かす存在として、新たなキャラを用意している。
だが、僕はハルヒの内面に求める展開にするべきだったと思うのだ。
観察眼に優れた彼女が、自分の能力がもたらしているものに、いつまでたっても気づかないのは不自然である。
そして、「部下」から「仲間」と思い始めてみたSOS団員と、目指すべき道が違うことに、いつしかハルヒは気づくことになるだろう。
その展開を、僕は刊行未定となっている続編「涼宮ハルヒの驚愕」に期待していた。
そうすれば、ハルヒというキャラクターの立ち位置は大きく変わることだろう。
それは、涼宮ハルヒが持つ「無敵感」が失われてしまう結果を招くかもしれない。
でも、かつてのハルヒを懐かしむのはファンの二次創作だけでいいのではないか。
なぜ、ハルヒの成長を描けないのか?
ヒロインを成長させることは、キャラクター・ビジネスのタブーなのか?
想像の余地を読者に託す作品のほうが、商売としては成功するのか?
その答えが見えないまま「涼宮ハルヒの憂鬱」アニメ二期はスタートしている。
ハルヒを支持する中高生にとって、この涼宮ハルヒの迷走はどう映るだろう。
一時的に思われた「ハルヒ性転換」ブームだが、今もなお、それを望む人がいることを、僕は自分のブログのアクセス解析によって知った
それは、原作のふがいなさを、性別を変換した「もう一つのSOS団」によって打ち砕こうとする、ファンのささやかな反抗だと感じることがある。
僕が一年以上前に、長ったらしい二次創作を書いたように。
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ユニット名といい、曲名といい、数多き「らき☆すた」のキャラクターソングの中で、もっともキワモノあつかいされている「胸ぺったんガールズ」だが、楽曲の出来ばえは抜群に良いと思う。
「みんなで5じぴったん」は、「もじぴったん」をもじったものだが、そこで歌われるストーリーは微笑ましいものだ。アイドルらしさあふれるポップなメロディも魅力。
そして、カップリングの「ロリィタ帝国ビショージョ大帝」は、なんちゃってR&Bである。小早川ゆたか役の声優の舌足らずさが愛おしく、間奏でのかけ合いが楽しい。
歌詞の内容が、ヲタク文化を題材にしているので、他人と一緒に聴くと誤解される曲だが、偏見を抱かなければ、実に聴きごたえのある作品であり、サウンドデザイナー神前暁の底力を知ることができるはずだ。