敵から見た日本軍の実像 ― 一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵』(評価・A+)

 

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)

 

組織戦に優れるが、自分で考える力を持たない「三流」の日本兵の実像とは?
敵の視点から日本陸軍の本質にせまった意欲作!
 

 敗戦後、日本陸軍は批判の矢面に立たされた。精神論ばかり振り回して、日本を破滅に追いこんだ組織であると。
 しかし、その非合理性を強調するほど、日米戦争があれほど長引き、それだけ多くの犠牲者が出してしまった事実から遠ざかるのではないか。
 著者はその疑問から、敵である米国陸軍が日本陸軍をどう見ていたのかを、軍事報告書をもとに調べることにした。
 米軍報告書による日本軍の実像はこのようなものだ。
 

・個人の射撃は下手で接近戦は弱い。陣地、偽装は優秀。
・組織戦に優れるが、頭脳や自分で考える力を考慮に入れれば、日本兵は三流。
日本兵は互いに愛情を持たない。上官の命令なしに他の中隊を助けることはない。
・死者は丁重にとむらうが、傷病者への待遇は劣悪。
・風呂には毎日入るが、食堂は不潔で医療体制は低レベル。
・いったんとらえた日本兵捕虜は実に御しやすく、有用である。
日本兵の賃金は世界中の陸軍でおそらく一番安い。
 

 本書は米軍報告書を紹介するだけの内容ではなく、戦後から21世紀までの日本人批評を数多く引用している。その丁寧かつわかりやすい解説は、特定の思想にかたよることなく、誰が読んでも新たな発見を見いだせるだろう。
 なぜ、我々の先祖たちは「バンザイ突撃」といわれる玉砕を敢行し、無残に命を散らせたのか。その理由に迫る力作である。
 



 

(1)攻撃よりも防御に優れる

 

 米国軍による日本兵分析は以下の二点から始まった。
 

1.敵である日本兵と、友軍である中国兵の区別をする必要性
2.マレー作戦の衝撃から生まれた「日本兵超人神話」の払拭
 

 まず、《敵である日本兵と、友軍である中国兵の区別をする必要性》について。
 日本人は太平洋戦争を「アジア人対白人」と捉えることが多いが、米国人は「侵略された中国を解放する」という大義ゆえに、人種戦争とは見なしていない。
 そして、米陸軍公報では、英軍が「中国軍であるかのようにふるまった日本軍に騙されて」捕虜になったという事例が紹介されている(真偽の程は定かではないが)。
 そこで、様々な文化的背景から、日本人と中国人の鑑別方法が提案された。しかし、そのような外見の鑑別は、人種差別の助長につながり、味方である中国人をも貶めることに、米国人は気づいた。
 つまり「日本人と中国人を身体の面から見分けるのは、ドイツ人とイギリス人をシャワー場でその会話を聞く前に見分けようとするのに等しい」ということである。
 結局は、現在でも使われる"r"や"l"の発音による判別がとられた。日本人は"l"を"r"と置きかえる。中国人はその逆である。だから「Robins fly」と言わせれば、中国人と日本人の区別はつくのだ。
 

 次に、《マレー作戦の衝撃から生まれた「日本兵超人神話」の払拭》について。
 「マレー作戦」の鮮やかさから、日本兵は「超人」ではないかという幻想が、米国兵には浸透していた。その払拭のために、米国陸軍公報では、日本兵の戦術分析が次々と掲載されたのである。
 まず、指摘されているのは、射撃規律は優れているが、個人射撃は下手であること。集団戦は得意だが、個人戦は弱いということである。米国兵士の言葉を借りれば「戦闘機械の優秀な歯車であり、決められた計画を細部まで実行することができるが、急速に変化する状況に対処する才覚も準備もない」となる。
 これは満州事変以降、「誤れるデモクラシー的思想への迎合」として兵の自発性を否定するようになった日本陸軍の方針にも原因があるだろう。
 接近戦、つまり銃剣術となると、日本兵は奇声を発して「突き」一辺倒であり、銃床攻撃で対処可能であると米軍は早くから見抜いた。
 そのかわり、陣地や偽装は優秀であると米国兵は口をそろえて証言する。攻撃よりも防御に優れていたのが、太平洋戦争の日本陸軍であったのだ。
 これは、体格差の問題もあっただろう。中国兵相手には接近戦をしかけることが多かった日本兵も、体格の大きい米国兵相手には戦術を改めざるをえなかった。
 陣地や偽装を得意としたという指摘は、現在日本に生きる我々にも納得できる。ネット文化でも、職人に敬意を払うのが日本人だ。接近戦ではかなわないと気づいた日本兵は、持ち前の手先の器用さをいかし、米国兵に対抗すべく陣地づくりや偽装に精を出すようになったのだ。
 ただし、その陣地には退路は設けられていなかった。決死で臨むことでしか米軍に対抗できないと日本軍は考えていたのだ。そして、人命の尊さを抜きにすれば、その効果はあった。
 

(2)風呂には毎日入るが、衛生概念は欠如していた

 

 日本兵は毎日欠かさず風呂に入ることから、きれい好きと考えられていたが、その実態は大きく異るものだった。
 例えば、食事はもっとも下等の兵が作っていた。これは日本陸軍に衛生概念が欠如してきたことを意味する。
 医療施設はほとんどなく、その環境は劣悪である。ささいな病気は自分で治すことが求められていたのだ。
 「性病は軍のパロメーター」といわれる。日本軍では、公表の性病患者の数は少ないが、「性病にかかった」となると上官にしこたま殴られるから隠していたからであり、性病検査はまともに行われていなかった。性病の少なさから、日本兵は強姦をしなかったという主張は見当違いも甚だしくて、南方戦線では日本兵による強姦や殺人の例は枚挙にいとまない。戦友の遺骨を取りに行くのにあれほど長い年月を要しているのも、そのせいである。
 米軍報告書では、ドイツと比較した「慰安所」の不衛生ぶりも記録されている。強制性には疑問を唱える者も、日本軍の粗末な「慰安所」の様子を知れば、慰安婦たちが戦後に集団提訴する理由に納得できるだろう。
 そんな衛生概念の欠如は、戦況に大きく影響を与えた。有名なガダルカナル島の戦いでは、日本軍の死因は飢餓と病気によるものがほとんどであり、ほとんどの兵が脚気を患っていたとある。栄養・医療を無視した作戦の敢行は、いたずらに犠牲者を増やすだけであったのだ。
 衛生を軽んじたのは、それだけ兵士の命を軽んじていたことである。
 

(3)戦友の命は軽く、他の中隊を助けない

 

 日本軍では、足手まといとなった傷病者を、捕虜にされまいと自決を強要することが日常的に行われていた。
 「戦死」といっても、敵の攻撃で致命傷を負った者がすべてではない。助かる見こみがあっても、作戦遂行の阻害になるからと、自殺をしいられるか、味方の銃撃で殺されたのだ。
 米軍は(建前上では)そうではない。負傷兵を置き去りにすることは、米軍精神に反するとされた。米軍では、そのような命令を出した士官は、罰を受けずとも出世できなかった。日本の年功序列制とは大違いである。
 日本軍はそれを利用して、狙撃兵に「敵兵に致命傷を与えないように」と命令していた節がある。死者だと一人の戦力減だが、負傷となると助ける兵士を含めて三人の戦力減となるからだ。
 しかし、そう命じられた狙撃兵の心中はどのようなものであっただろう。自国兵の命の軽さと、敵兵の命の重さ。それを知りながらも、彼は戦い続けなければならなかったのだ。
 

 ある米国軍曹によれば「日本兵は互いに愛情を持たない」という。これには従軍者から批判の声が上がるだろう。
 日本兵には戦友との絆はあった。しかし、それは同じ中隊内にとどまっていた。
 米国軍曹の続きはこうである。「例えばあるトラック中隊は上級将校の命令がない限り、よその中隊を助けようとしない。トラックの仕事がないとのらくらしている」
 自分の属する中隊内では酒を飲み助け合うが、他の中隊は上官の命令がなければ自主的に助けようとしない。今でいうところの派閥主義と責任回避。
 米軍兵士が他の中隊も助けようとしたのは、現場下士官の評価が組織に反映されたからである。日本軍ではそのような自主性は軽んじられ、現場から離れた上級将校の作戦を忠実に遂行することだけが求められた。
 その結果が「互いに愛情を持たない」と敵に批判される日本軍を生み出してしまったのだ。
 

(4)日本兵捕虜の口は軽く、軍事機密を簡単に漏らした

 

 米軍公報によれば「戦争初期のころ、生きて捕まる日本兵はまれで、戦死者100人に1人の割合であったが、沖縄・フィリピン作戦の後半では死者10人に1人の割合で捕虜になっている」という。
 米軍から見て、いったんとらえた日本人捕虜は実に御しやすく、有用であった。なにしろ、戦艦大和や零式戦闘機の性能といった最高機密を、捕虜はいとも簡単にしゃべってしまったのだ。
 なぜ、日本兵捕虜の口は軽かったのか。それは、捕虜になれば命はないと教えられていたからだ。ところが、米軍は日本兵捕虜を丁重にもてなした。「日本人は貸し借りに生真面目な性格だから、助命という恩を着せれば、それと同等のお返しをしなければ面目がつぶれると考える」と分析されていた。
 戦後、米軍の捕虜になった日本兵は、米兵が非常に親切だったと記述している。しかし、そうすることで軍事機密を入手できるという、冷徹な計算があったからである。
 米国兵の中でも、戦友の恨みとばかり、降伏を申し出る日本兵を許そうとしない者は少なくなかった。それをいさめるために、上官はこう言うのだ。「あいつらの口は軽い。丁重にもてなせば、簡単に機密を漏らす。それが結果として、お前たちの命を救うことになるんだ」
 いっぽうの日本軍の米兵捕虜への尋問はどうだったか。ある少尉によれば「腕力が指針となる」という荒っぽいやり方だったという。「敵の言葉は我々と違う。口をすべらせて詳細な分析を引き出したり、遠回しな尋問法を用いて成果を挙げるのは困難である。尋問中は勝者は優れていて敗者は劣るという空気をみなぎらせるべきだ」
 したたかな米軍に比べて、あまりにも粗末というほかない。
 日本人捕虜が機密を漏らすことが明らかになると、日本軍の検閲はますます厳重となる。兵士の郵便物はすべて開封され、内容を確かめられた。足手まといの傷病者を、置き去りにするどころか、射殺するようになったのも、捕虜尋問対策である。戦術的には無用な玉砕が敢行されるのも、捕まるならば殺されたほうが日本軍にとって良いとされたからである。
 

(5)何のために戦ったのか?

 

 「鬼畜米英」というスローガンは、ガダルカナル島撤退以降から、メディアで叫ばれるようになった。それまでの日本兵は、敵兵を蔑視する言葉がなかったのである。
 日本人捕虜と接するうちに、米国兵は同じ日本人でも文化格差が激しいことに気づいた。田舎者と都会の者である。
 戦死すれば二階級特進して靖国神社にまつられるのを名誉と感じていたのは田舎者ばかりで、都会の者はそれを信じなかった。
 都会では米国文化は憧れの的であった。昭和初期の都会では、米国映画が大流行していた。例えば、後の首相田中角栄は、従軍時にポケットに米国女優のプロマイドを入れていたことが見つかり、しこたま殴られたと回顧録にある。
 それでは、何のために日本兵は戦っていたのか。
 米国兵の言葉を借りれば「日本兵の賃金は世界中の陸軍でおそらく一番低い」ものだった。下士官ですら故郷への仕送りが許されず、一般兵にいたっては、仕送りする余裕もなかったのだ。
 かくも給料が安いのに、兵士たちの留守家族はどうやって生活をしていたのか。米軍報告書をもとに、筆者は次のように分析する。
 

 日本兵が留守家族の生活困窮について抱いていた心配の解消は政府ではなく「村」すなわち近隣社会の手に委ねられていた。万一兵士たちが敵の捕虜となり、卑怯にも自分だけ生き残ったとすれば「村」は家族への農作業援助を打ち切るだろう。私は、これこそが彼らが投降を忌避した最大の理由のひとつとみるし、米軍もそれを知っていた。
 

 大部分の日本兵にとって、天皇靖国は遠い存在であり、その信仰心は篤いとは言えなかった。日本軍ほど宗教と無縁な陸軍は珍しいといっていい。そんな彼らが戦った理由は、故郷に残した留守家族のことであり、それを支援する「村」社会を裏切らないためであったのだ。
 

(6)なぜ、玉砕攻撃は繰り返されたのか?

 

「バンザイ!」「バンザイ!」
 そう叫びながら、穴掘り屋と米軍に揶揄された日本兵が特攻をしかける。これが玉砕攻撃である。涙や鼻水をたらしながら攻撃する日本兵を米軍はどう見ていたか。きっと至福の笑みを浮かべただろう。
「最高のハンティングの時間だぜ!」
 個人の射撃は下手で、銃剣術は弱い。そんな日本軍の攻撃など、米軍には恐るるに足らない。無用な作戦である。
 例えば、戦後批判された戦車への「肉攻兵」についても、筆者は狂気の産物ではなく合理的な判断によるものと評価している。実際、朝鮮戦争の際は、日本軍の流れをひく韓国軍が、対戦車の肉迫攻撃で一定の戦果をあげている。
 この「バンザイ突撃」の背後にあるものは、撤退命令が出されなかったことにある。ビルマ戦線では、見事な撤退作戦を行った事例もあるように、偽装が得意な日本兵は撤退戦も不得手ではなかったはずだ。しかし、陸軍上層部は撤退を命令とするという責任を負いたくなかったのだ。このせいで、現場士官に「このまま座して全滅を待つより、いさぎよく総攻撃を敢行し、玉砕することにより、死守の任をまっとうす」と決断するに至ったのだ。責められるべきは、陸軍上層部であろう。
 ただし、大戦末期になると、日本兵は様々な「卑怯」な手を使い始めたという。レイテ島では「偽りの降伏」に何度も遭遇したとある。白旗を振ってきたので射撃を止めて近づくと、隠れてきた兵が発泡してきたというのである。
 破れかぶれの窮余の策であったのかもしれないが、あまりにも姑息すぎる。この一例だけでも「日本軍は卑怯である」と後世に語り継がれても仕方ないであろう。
 

(7)敗戦の原因は「人事」にあった?

 

 「若き将軍の朝鮮戦争」という韓国軍人による優れた回顧録がある。その作者であるペク将軍が、ニミッツ提督と話をする機会があった。米国太平洋艦隊の提督であったニミッツに、ペク将軍はこう質問したのだ。
「日本軍の敗因はなんですか?」
 ニミッツ提督はこう答えた。「人事の問題ですね。硬直化が進んでいたと聞いています」
 日本人ならば、敗戦の理由は「資源がなかった」「補給が確立できなかった」というだろう。このニミッツ提督の答えは、個人的に長らく疑問であった。
 しかし、本書を読めば、本当の敗戦理由は、年功序列制などの「人事」に問題があったとしか考えられなくなる。
 日本がポツダム宣言を45年8月15日まで受諾しなかったのは、ソ連を仲介とした終戦交渉を続けていたからである。すでに、44年のヤルタ密約でスターリンは対日戦争を約束していたのだから、その動向を見抜けなかったのは、日本外交の手落ちであるのだが、戦争の継続には強い陸軍の意向もあった。
「本土決戦をして、勝利の後に終戦に持って行きたい」
 ところが、その本土決戦の計画は、とても勝利をもたらすものではなかった。
 硫黄島や沖縄では様々な悲劇もあり、人命を度外視した作戦がとられていたが、日本軍は善戦したといえるだろう。それは水際での迎撃をあきらめて、内陸で強固な陣地を構えたからだ。日本軍の陣地や偽装の優秀さは、米軍が口をそろえて認めるところである。
 しかし、日本陸軍上層部は本土決戦で「水際撃滅」という意見が多を占めていたのだ。本土を犠牲にしたくないという声もあっただろう。だが、すでに膨大な兵士や民間人が、長期戦のために命を落としていたのだ。「一億総玉砕」と国民に言っておきながら、太平洋戦線でさんざん米国に叩きつぶされた「水際撃滅」を持ち出すとは、正気の沙汰ではない。
 そして、この傾向を米国陸軍は見ぬいていた。「本土防衛戦は大部分が規則通りに行われるであろう」と分析している。
 

 著者は最後に原四郎中佐の言葉を引用する。陸軍幼年学校・士官学校本科・予科陸軍大学校をすべて主席で通した秀才の大本営参謀・原中佐はこう語る。
 

「ただ一度でいいから勝ちたかった。南九州の決戦、それも志布志湾の決戦で勝ちたかった。意地だった。そして陸軍の最後の歴史を飾ろうと思った。政治は本土決戦によって終戦に移行しようと考えていたかもしれませんが、私の考えは上陸する敵の第一波だけでもいいから破摧(はさい)したかった」
 

 この願望が、水際撃滅論を生み、その勝算なき決戦のために戦争が長期化したのだ。現場の声を無視した「面子を立てたい」陸軍上層部の願望が、撤退命令を出すのをためらわせ、ゆえに戦場では無謀な「バンザイ突撃」が繰り返されたのである。
 

 本書は米軍という敵国から見た日本軍を冷静に分析した本である。それぞれの章には小括があるなど、構造的にも優れていて、すこぶる読みやすい。
 政治や軍事にうとい人でも、本書では学ぶことがあるはずだ。特定の思想にかたよっている人も楽しめるにちがいない。最近読んだ新書の中では、もっとも優れた一冊である。評価はA+。
 

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)

日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)