「正しい」日本語にこだわるな! ― 今野真二『かなづかいの歴史』(評価・B)

 

 

平安時代から明治にかけて、かなづかいは揺れ続けてきた。
「他表記性」を失った日本語を「正しい」とする現代の常識を疑え。
 

 Q.「報告」という漢字にふりがなをつけなさい。
 上の問いに、たいていの人は「ほうこく」と答えるだろう。「ほーこく」「ほおこく」では間違いとなる。
 ひらがなは表音文字といわれることが多いが、音通りに表記するとはかぎらない。子供や外国人が戸惑う特殊なルールがあるのだ。
 その規範が、かなづかいである。
 

 例えば、日本語を並べるのは「五十音順」といわれる。実際は「44音+1」である。文字数は「45文字+1文字」。いろは文字で出てくる「ゐ」や「ゑ」をいれても「47文字+1文字」で、五十音には届かない。
 なお、現代かなづかいで「ん」を意味する撥音(はつおん)は、母音をともなう子音であるから、単独した音節としてはなりたたない。だから、言語学的には「五十音順」に含めるべきではない。
 歴史的にみれば「ん」とは、もともと「表記できない音」の代用文字だった。室町時代の資料では、促音「っ」のかわりに使われたこともある。「ニンキ」と書かれていて「ニッキ」を意味する文献もある。
 

 現在のかなづかいは、1986(昭和61)年に告示された「現代仮名遣い」にもとづいているとされる。
 だが、それでも「促音」の「っ」や「拗音」の「ゃ」「ゅ」「ょ」は「なるべく小文字にする」と書かれているのみだ。「現代仮名遣い」の告示に従えば、「今日」を「きよう」と表記しても間違いではない。
 

 我々には「唯一表記志向」というものがある。例えば「鼻血」のかな表記は「はなじ」なのか「はなぢ」なのかといったものだ。答えはどちらでも正解でもある。なぜ、このように日本語表記には「揺れ」があるのか。それを古代文献などから明らかにしたのが本書だ。
 

 本書を読めば、「かなづかい」のルールは慣習によるもので、最初に規範がなかったことが明らかになるだろう。日本語表記は実に「いいかげん」なものなのだ。
 それなのに、我々は「現代かなづかい」ほど表音的ではない「歴史的仮名遣い」を敬遠している。江戸時代ならまだしも、戦前の文章すらマジメに読もうとしない。ところが「現代かなづかい」だって、子供や外国人からすれば、不条理なルールがまかり通っていることを、本書を読めば再確認できるはずだ。
 

 かつて、明治期には「五十音順」を「五十文字」とするために、や行とわ行に五文字ずつカナが考案されたものの、ただちに廃れてしまった。それでも、「五十音順」という言葉は残っている。「かなづかい」の歴史を知ることは、そんな「いいかげん」な日本語と向き合うことであろう。
 

 「正しさ」にこだわると、日本語の本質を失い、その歴史を読むことができなくなる。その危険性を本書は教えてくれる。
 

 

【読んだ動機】

 

 本書を読んだ理由は、2014年4月6日の読売新聞読書欄で紹介されていたからである。僕は毎週の日曜新聞読書欄で紹介された本を数冊ピックアップしてツイッターにまとめるという趣味があるのだ。
 購入したのは5月12日。同時購入したのは6冊。そのなかで、本書を最初に読んだのは、5月11日の朝日新聞読書欄でも紹介されていたからである。紹介する本が違う新聞読書欄でかぶるのはよくあることだが、それだけ中身が充実しているのではと期待して読むことにした。
 もちろん、そのような外的要因だけでなく、文章を書きながら「かなづかい」では気になっていたことがあった。ところが、その疑問が「かなづかい」ですらないことを本書を読んで僕は知ることになる。
 

【読む前の先入観】

 

 僕が知りたかったのは、「1かげつ」の表記である。
 「1かげつ」をどう書くか。僕の中では5つのパターンがある。「1か月」「1ヶ月」「1ケ月」「1ヵ月」「1カ月」。はたして、どれが正しい日本語なのか、気になっていたのだ。
 僕は「1ヶ月」と表記することが多い。それがもっともしっくりくるからだ。大きい「ケ」だと「1けげつ」じゃないかと思うし、音通り「カ」を使うのはカッコ悪い。
 地名表記でも同様の問題がある。鎌倉の「由比ガ浜」、目黒の「自由が丘」など、かつて「ヶ」であったものが「ガ」や「が」に置き換えることが多くなったのはどうしてか、という疑問があった。
 しかし、これらは「かなづかい」の問題ではないようだ。本書ではこれらについてはまったく記されていない。見当違いとあったとはいえ、残念である。
 

(なお、インターネットで調べてみると、もともと「箇」であったのが「ヶ」に変化したらしい。正しく書くならば「1箇月」であり、その略字が「ヶ」になったらしい)
 

 ただし、僕のような「どの書き方が正しいのか」という疑問が、「かなづかい」のルールを築いたという歴史の過程がある。
 古代文献における「かなづかい」は、法則にあてはまらないものが多い。それらを「正しくない」と切り捨てることは「後付け設定をさかのぼって適用する」ようなものだ。
 「何が正しいのか」ではなく「どうして複数の表記があるのか」と考えなければならないことを、僕は本書で知った。
 

【本書の特徴】

 

 本書では従来の「かなづかい」の歴史を、「同語異表記」を認めない現代人思考によって曲げられていると指摘する。
 

 一般的には、鎌倉時代に考案された「定家かなづかい」が、その後主流になったといわれている。
 ところが、この「定家かなづかい」は、一歌人である藤原定家が「かなづかいはこういうものだ」と分析し、「こうつかったほうがよい」とまとめたものにすぎない。息子の藤原為家に伝えるためのマニュアルであり、社会的影響力は皆無であったと本書では分析する。
 

 つまり、後世の史家が、高名な藤原定家が「かなづかい」をまとめた資料を読んで「なるほど、これはわかりやすい」と持ち上げただけの話である。藤原定家筆まめな性格で、彼の筆写のおかげで、多くの文献が現在でも残されているのだが、同時代の文章を書く者が「定家かなづかい」に従ったわけではない。
 

 その後、江戸時代に契沖が『和字正濫鈔』という大著を出す。これは古代文献からの「かなづかい」をまとめたものだが、これによって社会のかなづかいが一変したわけではない。この書が「かなづかい」研究の契機となったことは間違いないが、それをくつがえす資料が発掘されるとただちに他者の手によって補完されるなど、契沖によって「正しいかなづかい」が定まったわけではないのだ。
 

 例えば「濁点」について、明治期においても必ず付けるものではなかったという。「太政官布達」などの公的文書において、濁点が一切使用されていないのである。
 

 「正しい」かなづかいの必要性は、明治の義務教育制度から本格的になった。
明治6年に、おなじみの「五十音の図」が出る。そこには、ヤ行の「イ」と「エ」、ワ行の「ウ」が考案されている。現代では「変体仮名」といわれているが、当時は「標準字体」だったのだ。
 

 現代の視点からすれば、古代資料で「かなづかい」のルールが一定でないことに戸惑うことが多い。ただ、その「正しさ」こそが、現代になって作られたものにすぎないのだ。もし、早い時期にマニュアルが定められていたならば、現代の我々の豊かな日本語表現は滅びていたかもしれない。
 

【本書の核心】

 

 本書では古文が引用されているが、僕はほとんど読み飛ばして、てっとり早く結論部分だけを読んでしまった。だから、十二世紀から近世にかけての文献が頻出する、第二章から第四章までは、きちんと読んだとは言いがたい。
 

 おそらく本書の著者はそのような姿勢こそが問題であると考えるだろう。
「いずれ、明治期の文章を読むことすらも、特定のスキルを有するとされるのではないか」という指摘は耳が痛い。
 

 我々は日本文化の伝統を誇りに思うものの、古文をマジメに読もうとしない。
 その理由はなにかというと、読みにくいからである。現代かなづかいに比べて、歴史的かなづかいは頭で発音しないと意味がわからなくなる。だから、面倒だと読み飛ばしてしまうのだ。
 

 しかし、現代かなづかいだって、音通りに発音しているわけではないのだ。子供や外国人なら抱く疑問を、我々は忘れてしまっている一方で、古文は読めないと駄々をこねている。
 

 その危険性を本書は示唆する。藤原定家が家伝のために残した『定家仮名遣い』が、さも日本社会のかなづかいを決定づけたかのように歴史では語られる。契沖の『和字正濫鈔』によって、江戸時代の文章が一変したわけでもない。その時代の人々は「正しいかなづかい」のマニュアルがなくとも、文章を書いていたのである。
 

 現代では「正しさ」が求められることが多い。例えば「ビジネス用語」。就活生が覚えなければならないその言語は、就職斡旋会社が定めたルールに基づいたものであって、社会を動かす言語ではないのだ。
 

 「正しさ」にこだわるほど、本質から遠ざかるのは、日本語の「かなづかい」の歴史からも知ることができるのだ。
 

【評価とその理由】

 

 本書はドメスティック(内向き)な内容にすぎないという不満がある。つまり、他言語との比較がないので「日本語はいいかげんだ!」という結論で終わってしまうのだ。文字表記の「正しさ」と教育の関係は他言語ではどうなっているのかについて、比較研究をしていないのは、日本語学の欠点だろう。
 

 古文の引用が多く、敷居が高く感じる人はいるかもしれないが、古文を読み飛ばしても充実した内容である。ただし、日本語研究の域を出ていないために、学術書にすぎないのではないかという不満もある。評価はB。