狂気は言葉で引き出すことができるのか? ― 伊藤計劃『虐殺器官』(評価・A+)

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

人間には虐殺へと駆り立てる器官が存在する?
序盤のミリタリー小説臭さを抜きにすれば、現代SFの傑作!
 

 日本語で書かれた小説だが、日本人をはじめ、日本に関わる人物は出てこない。米国のさる暗殺部隊の兵士による一人称小説である。それならば、いっそのこと、日本という単語も抜きにすればいいのだが、さして理由もなく、その単語は出てくる。米国人が書いたとしたら、日本よりも中国が多く出てくるはずではないか。日本人の思考で書かれているのに、その代弁者が出てこない違和感が本書にはある。
 なぜ、日系人を出さなかったのかと思う。あるいは、日本のアニメに通じたオタクでもいい。でも、作者はそれを「甘え」として切り捨てたのだろう。ドメスティックな思考を打ち払い、「虐殺」という人類の悪業と向きあおうとした誠実さがもたらした弊害だと僕は見る。
 

 僕は戦争を題材とした小説はよく読むが、ミリタリー小説というのがあまり好きではない。元来、戦争兵器が好きではないのだ。兵器の種類を知らずとも、ゲバラの回想録は読めるし、大岡昇平の『俘虜記』は楽しめる。
 だから、本書の序盤には難渋した。その克明な描写はミリタリー小説ファンを歓喜させただろうが、僕にはついていけない。ただ「人工筋肉」を用いるという兵器のアイディアには興味を抱いた。そして、その筋肉が朽ち果てる描写にも。
 そして、作者にとっては「つかみ」の部分であろう序盤さえ乗り越えれば、本書は僕のような読者にも楽しめる内容になる。なにしろ、プラハカフカの墓参りに行くような展開なのだ。プラハ編からは、僕のページを読み進める手が止まることはなかった。
 

 

 本書は2001年9月11日の米国同時多発テロが契機で出された米国「愛国法」の延長線にある。その法は、テロ対策の名のもとに、米国民(のみならず他国の人物)のプライバシーを侵害するものだった。
 この情報管理社会を描いたSFは、今年に入ってから僕も数冊読んだ。野崎まどの『know』と伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』である。しかし、両者に比べると、本書は「人間」についての考察はより深い。
 

 その理由は米国軍の方向性を正確にとらえているからだ。いまでは、中東や南アジアで無人機による爆撃が当たり前となった。命のコストの問題である。米国兵士の命は何よりも尊い。そこから「戦場で人間でなければできないこと」「無人でできること」の研究が徹底化されるようになった。
 その流れから導きだされた、本書の「脳のマスキング」や「人工筋肉兵器」といった技術は、作者の想像の産物と笑うことは僕にはできない。
 

 本書でもっとも読みごたえがあったのは「インド編」である。序盤のミリタリー小説くささがここにはない。
 僕にとって印象的だった二つの場面を引用する。
 


 上官と性交中だったのだろうか、まだ乳房もろくに膨らんでいない少女が全裸で廊下に飛び出してきて、その痩せた脇腹にAKを持ち、腰だめで乱射してきた。ぼくは冷静に裸の体に点射する。平らな乳房に立て続けに穴が開き、少女は倒れる。子供が飛び出してきた部屋を覗きこむと、上官らしき男があわててズボンを履いているところだったので、ぼくはそれも撃ち殺した。
 


 人が大勢死ぬときはものすごい唸り声が聴こえるんだ。何十、何百の叫び声が合唱になって、それらを束ねたものすごく太い声の柱を、インドの空に打ち立てるんだよ。兵士たちはその声の柱を「リゲティ」と呼んでいた。だれか現代音楽に造詣の深い兵士が名づけたのか、いつの間にか広がったんだそうだ。「二〇〇一年宇宙の旅」のトリップ場面でかかっていた曲のコンポーサーの名前らしい。
 

 いずれも小説というメディアでなければ味わえない迫力がある。
 

 巻末の「解説」によると、この「インド編」は後から加えられたものらしい。今作は第一回小松左京賞の選外作品を加筆修正して出版されたものだというが、落選という挫折が本書をより魅力的にしたのだ。
 しかし、作者は本書でのデビュー後、わずか3年足らずで病没する。本作を書いていたときも、身体はガンに蝕まれていたという。死が迫りながらも「虐殺」について描いた作者の心境はどのようなものであっただろうか。
 

 「人間には『虐殺』へと駆り立てる器官がある」
 本書の仮説には恐ろしいほどの説得力がある。その内なる恐怖を、言葉で引き出した本書は、現代SF小説でも抜きん出た迫力があるはずだ。凄惨な戦場を丹念に記す本書の描写の凄味は、もしかすると真近に死をむかえた作者だからこそ持ち得たものかもしれない。
 つくづく、生前に作者の名前を知らなかったこと自分の無知が悔やまれる。ただ、序盤のミリタリー小説くささと日本人問題をマイナスとして、本書の評価はA+とした。
 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)