安重根は、天皇崇拝者? アジア主義者? 民族主義者?

 
 
 安重根を「アン・ジュンクン」と表記することは、毛沢東を「マオ・ツォトン」と表記するぐらいの違和感があるのは僕だけだろうか。
 
 さて、安重根伊藤博文を暗殺したのではない、という二重狙撃説が、いまだにひそかに語られているが、それは孝明天皇崩御論争と似た不毛さがある。
 
 当時の資料で矛盾をきたした箇所は少なくない。しかし、その資料から実像を推測するとき、文面を鵜呑みにしてはいけないのだ。文章というのは、それほど完全な代物ではない。だから、資料を読み解くときは、それぞれの人が、どのような立場で、その文章を書こうとしたかを頭に入れた上で読み砕かなければならない。
 
 安重根に対する評価もそうだ。ある者は「天皇崇拝者」といい、「アジア主義者」、はたまた「民族主義者」と呼ぶ者もいる。
 
 僕は安重根の実像は「過激行動家」にすぎない、と思っている。
 
 1909年10月30日の訊問調書によれば、安重根は溝渕孝雄検察官に、伊藤博文を射撃した理由として「15の大罪」を述べている。
 その中で、「伊藤が孝明天皇を毒殺した」という俗説を主張する一方で、安重根は「明治天皇は『東洋の平和』を訴えた」と、天皇崇拝に似た発言をしている。
 おそらく、翻訳の都合上だろうが、安の天皇に対する発言のほとんどは敬語表現となっている。
 現代の感覚で、そんな彼の口述を読めば「安重根天皇崇拝者だったのでは?」と思われるかもしれない。
 
 しかし、当時の環境を知れば、それほど単純なものではないことがわかるはずだ。
 
 安重根において、明治天皇は「偉大なる名君」であった。彼が伊藤博文を狙撃した五年前、日本はロシアに勝利した。その事実は安重根を興奮させた。白人の列強国家相手に、黄人の日本人国家が勝利したのだ。この知らせを聞き、安重根は「これで、聡明なる明治天皇のもと、東洋の平和が保たれる」ことを確信したという。
 だが、彼が著した『安応七歴史』の中でも、日本の勝利を喜ばなかった者が出てくる。それが、フランス人神父である洪錫九(J.Wilhelm)だった。
 洪神父は言う。「ロシアが勝てば、ロシアが韓国の主人に、日本が勝てば、日本が韓国の主人になるだけだ」と。正しい歴史認識であろう。
 洪神父は旅順刑務所に出入りが許され、死刑執行まで安重根と面会し、彼の魂を慰めた。キリスト教に偏見を抱く人は多いかもしれないが、宗教家だからこそできることがある。
 貴族の家柄で育ち、キリスト教を通じて外国人との面識も豊富だった安重根は、他の愛国啓蒙家と同じように、日本要人暗殺の愚かさを知る環境が与えられていた。
 にも関わらず、彼は伊藤博文暗殺に踏み切ったのは、なぜか。
 
 その理由として高らかに語られているのが、「孝明天皇毒殺説」である。孝明天皇崩御が、岩倉具視らの謀殺であるという疑惑は、当時からしめやかにささやかれていた。それを、岩倉一派のひとりとして知られた伊藤博文の仕業にすることは、当時の感覚からすればおかしなものではない。
 安重根によれば、伊藤博文はそんな「君臣の立場をわきまえぬ大逆不道な人物」だからこそ、朝鮮半島を侵略する政策を次々と打ち出してきたという。
 
 ここに、安重根の現代人としての欠陥がある。
 明治天皇は「偉大なる英君」であり、伊藤博文は「先代天皇毒殺に関与したのに、政府を牛耳る老賊」である、という構図から、安重根は離れることができなかった。
 彼の理想とする「東洋平和」は、中国・朝鮮・日本・タイ・ビルマが自主独立している社会のことであるが、それはリアリティの乏しい、儒教の君臣政治の再現を夢見た単純なものだった。
 
 彼自身、その思想の欠陥はわかっていた、と思う。安重根という男は、数カ月で相手にあきられ、次々と居場所を変えた節操のない男だが、そのような人間の常として、敏感な感性を宿していた。洪神父といい、溝渕検察官といい、伊藤暗殺で韓国の独立は果たせない、と説得する人々の言葉は、彼にとってはもっともなものだった。
 しかし、それでは彼の自尊心は保たれないのだ。
 だから、彼は「義士」であることを、正しい歴史認識よりも優先したのだ。それによって、旅順の日本人は安重根を「高潔な人格者」と評したのだ。
 このような犯罪者の心理は、現代日本でも決して珍しいものではない。
 
 安重根アジア主義者だとするならば、せめて、それを実践しなければならない価値がない。『脱亜論』を著した福沢諭吉だって、もともとはアジア主義者だったではないか。安重根の業績には、どこにもアジア主義らしからぬものはない。
 彼はキリスト教徒として、洪神父に勧められるまま、東学党の乱の鎮圧に加わった。彼の「高潔さ」は、農民たちを見下し、みずからの血統を誇ることから生まれたものだった。
  
 彼の支持者は、警察が予想していたよりも、はるかに少なかった。それは、彼に命を捧げようとする者がいなかったことを意味している。外国人である日本人にとって、彼は「高潔」だったが、当時の韓国人義士の間で、安重根は、ほぼ無名にすぎない人物だった。
 当初、伊藤殺害の理由を高らかに述べる安重根の姿に感動した溝渕検察官も、やがて、彼が十数人のゴロツキの頭にすぎなかったことを見抜いた。それでも、彼は「文明国家日本」の一人として、最後まで安重根の意志を尊重した。
 
 
 僕は安重根を、アジア主義者とも民族主義者とも思わない。彼はみずからの過激な行動によってしか、自尊心を保てなくなった犯罪者にすぎない。
 
 だが、安重根の誤解は、そのまま日本の東アジア統治の失敗を示唆したものだった、と思う。日本人ならば、明治天皇の言葉なんて「建前にすぎない」ことがわかる。天皇とは、そのような象徴的存在だからだ。
 しかし、安重根たち朝鮮人にはそうではなかった。「東洋の平和」「韓国独立の堅持」を訴えた明治天皇の意志が果たせないのは、先代天皇毒殺関与の疑いがある伊藤博文のせいだと考える可能性だってあるのだ。
 それは、日本の法治主義のもろさ、日本人にしか通用しないお上万能主義を示していたとはいえないか。
 天皇を錦の旗にすれば許される。それは法治主義国家としてあるまじきことだが、韓国併合以降の日本は、天皇の意志を無視した「統帥権」の濫用が次々となされていた。
 これでは、朝鮮人や中国人が従わないのが当たり前である。
 「大逆事件」(幸徳事件)が、同じ1910年に起きたことを忘れてはならない。
 
 
 「やる夫が伊藤博文を暗殺したようです」では、このようなことも書いているのだが、物語に没入できない人もいると考え、あえて蛇足ながら解説してみた。