伊坂幸太郎『鴨とアヒルのコインロッカー』感想 (評価・A+)

 
 語り口の面白さと巧みな構成が両立した、読みごたえのある現代中編小説
 

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

 
 本書の作者はストーリー・テラーの名手と呼ばれることが多い。ストーリー・テラーとは何か考えてみると、「巧みな構成」と「語り口の面白さ」にあると僕は考える。
 
 今作では、東北の大学に入学した「僕」と、ペットショップで働く「わたし」の物語が、ほぼ交互に配置された構成だ。章題を見れば、「わたし」の話が、「僕」の二年前のものであることがわかる。
 「僕」は入居したばかりのアパートで、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさんでいたところ、隣人に声をかけられる。「河崎」と名乗る「僕」の隣人は、知り合いのアジア人留学生に「広辞苑」を贈りたいという。しかし、そのために書店を襲うという計画を聞かされて「僕」は仰天してしまう。「河崎」は「僕」を、広辞苑強奪作戦の相棒にしようと持ちかけるのだ。
 その二年前、ペットショップに勤めている「わたし」は、行方不明の柴犬を探している。「わたし」にはブータン人留学生の恋人がいる。日本語は不自由だが、彼の正義感に「わたし」はひかれ、同棲生活をしているのだ。三ヶ月前、つまり「僕」の物語の二年三ヶ月前、その街ではペット殺し事件が多発している。しかし、警察は本気で動こうとしない。だから、「わたし」は恋人のブータン人とともに、必死で柴犬を探している。
 やがて、「僕」と「河崎」は書店襲撃作戦を決行する。その二年前、「わたし」とブータン人留学生はペット殺しの犯人を偶然にも遭遇する。はたして、この二つの異なる物語は、どのように収束するのか。その疑問は終盤に明らかになるが、真相が明らかになっても「続き」があることが、本作の最大の読みどころである。そして、結末に至ったとき、読者は本作の奇妙なタイトルの意味を知ることができるはずだ。
 無論、巧みな構成だけが魅力ではない。物語の全体像が見えてくるのは中盤以降だが、共感性の高い語り口に読者は冒頭から引きこまれるはずだ。「僕」の目から見た「河崎」。「わたし」の目から見た「河崎」。両者の視点から映し出された「河崎」は、二年という時間のへだたりにはとどまらない違いがあり、読者はその背後にひそむ物語を知ろうと、ページを進める手を止められないだろう。
 この作者の持ち味である共感性の高い文体をもたらしたものはなにか。それは、作者が自分の感性を何よりも大事にしているからだと考える。
 例えば、ブータンボブ・ディランには何の共通点もないが、この物語ではどちらも重要なモチーフとなっている。ブータン国王夫妻が来日したのは2011年であり、ボブ・ディランが「風に吹かれて」を発表したのは1962年で、本作が書き下ろし長編として世に出たのは2003年である。これらのモチーフが活かされているのは、何よりも作者自身の思い入れの強さによるものだ。それに、関連性がないからこそ、読者はその世界をリアルに感じることができる。
 また、登場人物の正義感と無力感を徹底して描いているのも、読者の共感性を高めている要素だろう。「僕」はバスで痴漢行為に遭遇するが、目を逸らしてしまう。一人の勇敢な女性が阻止すべく行動を起こしても、「僕」は無言で味方のふりをするだけだ。「わたし」は元彼氏の「河崎」の女たらしぶりについては熱っぽく語るが、ペット殺し事件の犯人と対峙すると、恐怖で身体が震え、あと一歩が踏みこめない。
 そんなもどかしさや、やりきれなさ。一人称小説だからこその詳細な感情描写に、読者は彼らの物語を他人事として受け止めることはできないだろう。
 本作に大がかりな仕掛けはない。日本を震撼させるような出来事は、この物語では起こらない。舞台も東京ではなく仙台だ。他の現代小説に比べて、読者は登場人物に親近感をいだくことができるだろう。どの街に住んでいてもボブ・ディランを聞くことはできるし、どの地方大学にもアジア人留学生はいる(ブータン人はいないかもしれないが)。そして、主要人物「河崎」を変貌させるきっかけとなった出来事も、決して特別なものではない。それゆえに、読者は人間を支えているものが何かを考えるきっかけになるだろう。
 今作で唯一物足りなさを感じるならば、それは中編作品であることだ。分量は長編かもしれないが、その内容は中編といって差し支えない。その著述トリックは鮮やかであり、それなくしても魅力ある語り口の面白さがあるものの、小説というメディアの可能性を考えたとき、本書には収束する物語ゆえの限界がある。
 例えば、ボブ・ディランについては、ファンである僕には、もっと語ってもらいたいところがあった。『ライク・ア・ローリング・ストーン』が収録されたアルバムは、バッチリきめたディランの背後に、スタッフの下半身が無造作に映っているという、なんともダサいジャケットなのだが、そういう点も書いておけば、ディランに興味を持つ読者はもっと出たのではないかと思う。しかし、巧みな構成で配置された物語ゆえに、そのような踏み込んだディラン描写を書くことが、作者にはできなかったと考える。
 小説の傑作と呼ばれるものは、作者の当初の構想から外れたものが多い。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』しかり、夏目漱石の『こころ』しかりである。『カラマーゾフの兄弟』は、そもそも二部構成で、アリョーシャの修行僧時代は前座であるはずだった。『こころ』の主人公は「先生」ではなく、その遺書は主人公のその後を決定づける動機にすぎなかった。しかし、露日の文豪は、そこで筆を終えた。本編であるはずの展開を至るまでに、書きたいことを書いてしまったからだ。そして、読者は文豪の想定外の結果をもたらした登場人物の描写にこそ、心奪われるのである。
 本作は見事に計算された作品であり、読者にその展開を悟られないだけの語り口の面白さはあるものの、作者の当初の想定内の範囲しか書くことはできなかった。そんな小説家としての不満が、野心作『魔王』を書かせたのではないかと僕は考える。
 本作は映画化もされたらしい。僕は未見だが、原作である本書を先に読んだほうが、はるかに楽しめると予想する。ストーリー・テラーの名手といわれる作者の、初期の集大成ともいえるべき傑作中編である。少なくとも、読んでいる間は、退屈を覚えることはないだろうし、最初は理解できなかった登場人物の行動動機を知ったあとは、その余韻にひたることができるはずだ。