書く人はここで躓く! ―「時間芸術」小説作法の実践編
- 作者: 宮原昭夫
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2001/04
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 63回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
本書の筆者、宮原昭夫は芥川賞作家であり、僕が属している横浜文学学校や、朝日カルチャーセンターで、「小説講座」の講師をつとめている。その経験を活かした本書は、名作を引用するばかりではなく、受講生作品をピックアップして、どこが悪いのかを取り上げているという、きわめて実践的な内容となっている。
本書で紹介される受講生作品は、どれも魅力的な素材ばかりである。閉山間際の炭住街で、合理化の先頭に立つ所長の娘が主人公の物語。腕のいい左官が、妻に家出されて幼い娘を連れて見知らぬ町に着く物語。娘を王女様のように飾り立て、侍女のように粗末な服をまとう母と知り合った女性が、その娘を傷つけたい衝動にかられる物語。
それらの作品には確かな文章力と、鋭い感性が宿っている。小説家志望の人は、そんなライバルたちの作品を読んで、顔が青ざめるのではないか。
しかし、それらの作品を、本書の著者は「惜しい」と語る。文章力も、感性も、素材もあるのにも関わらず、小説というものに基本的な勘違いがあるために、作品としては失敗しているのだ。そんな筆者の分析は、小説執筆を志す者にとって、実に興味深いものばかりである。
文学の衰退が叫ばれて久しいが、文章の力が衰えることはない。高齢者の間では、自分史の執筆が流行しているし、インターネットには無数のブログが更新を続けている。匿名掲示板でも「自分語り」によるストーリーが人気を博している。そのなかには、目を見張るような文章力を持つ者だっている。
しかし、彼らがステップアップとして書いた小説が想像を絶するほどつまらない例を、あなたも味わったことがあるはずだ。
それは、小説と手記が完全に異なる表現手法であるせいである。
ブログにしろ、2chの自分語りにしろ、一人称=筆者ということを前提として語られる。だが、小説はいかに自身の体験に基づいていても、主人公と作者はイコールではない。「人間失格」の主人公、大庭葉三は、作者の太宰治とは別の存在である。太宰治のプロフィールを知らずとも「人間失格」の魅力を知ることはできる。
本書の筆者は「小説は時間芸術である」と語る。なぜ、文章力がある人が、面白い小説を書けないのか。人間的魅力に富み、自身の体験談で周囲をもりあげる人が、小説をうまく書けない理由はどこにあるのか。本書でのその分析は、具体性に富んでいて、わかりやすい文体で書かれているものの、内容は濃い。
決して、本書は「手っ取り早く文学賞を取りたいための小説指南書」ではない。筆者みずから「たいへんに非能率な小説の作り方」と語っている。
ただし、世の中には小説を書かずにはいられない人たちがいる。彼らは、日々の生活の中で、取り残されたものを、心の中に澱(おり)のように溜めている。それらをいかに表現すべきか悩んでいる人にとって、本書は格好の案内書になるに違いない。
以下、僕なりに、本書を紹介をしてみる。
読者に音を響かせる文章
筆者は、作家である小沢信男の言葉を引用する。「読書は、音楽に譬えれば、演奏だ」
つまり、小説を読むことは、レコード演奏を聴くのではなく、楽譜を読み取り、頭の中でストーリーを演奏していくものだ、と筆者は語る。
文章には「説明」と「描写」がある。説明的文章とは「少女は美しい」というものだ。ただ、それでは、読者にとっては演奏のしがいがない。
読者を楽しませる文章とは「わからせる」のではなくて、「感じさせる」ことにある。少女が美しいことを説明せずとも、その描写によって美しさに感じさせるのが、小説なのだ。
「細部の表現が主題を包み隠さないといけない」とは、ある文芸評論家の弁である。小説はフィクションであるから、その支えとなる主題は欠かせないが、それを読者に示する必要はないということだ。
ビジネス文書だと、冒頭にその文章の目的を書かなければならない。その内容を「わからせる」ことがビジネス文書の意義だからだ。しかし、小説はそうではない。
貧乏劇団の座長たれ
その「感じさせる」手法はいろいろあるが、もっともわかりやすいのが、登場人物を対置させることだろう。
筆者は一例として「風と共に去りぬ」をあげている。
まず、主人公の男女である、スカーレット・オハラとレッド・バトラー。この二人の対置により、当時の米国南部の地主的な美意識の空虚さが浮き彫りにされる。また、バトラーに、アシュレ・ウィルクスが対置されることで、バトラーの野卑で現実的な行動性と、アシュレの貴族的な無能力がクローズアップされる。さらに、スカーレットにメラニーが対置されることで、スカーレットの強烈な生命力とエゴイズムが照らし出されるのだ。
これら、登場人物の対置による立体化は、漫画作品に慣れ親しむ若い世代が得意とするところだろう。
ただし、人間関係が増えることは読者の混乱をもたらす。ゆえに、筆者は人間関係の多角形を作ることを推奨している。そうすれば、その辺と対角線の総数が、小説で成立し得る人間関係の数となることを知ることができる。
たとえば、三角形ならば、辺が三つで対角線がゼロだが、四角形ならば、辺が四つに対角線が二つ、合計六つになる。三人から四人に増えるだけでも、人間関係は三つから六つに増加するのである。
漫画作品ならば、キャラクタの造形だけしておけば、あとは読者の想像に任せることができるが、読者に頭で演奏させる小説はそうはいかない。
そこで筆者は「貧乏劇団の座長たれ」と提唱している。劇団は出演者にギャラを払わなければならない。舞台を華やかにするために出演者を増やしたところで、その出演料に似合う効果が出てくるわけではないのだ。ならば、バッサリと削ったほうがいい。
必然性と一回性
小説は「作り話」であるが、リアリティが欠かせない。しかし、そのリアリティは写実描写を重ねただけでもたらされるものではない。
長所ばかりの登場人物よりも、欠点をクローズアップしたほうが、その人の印象に残るのと同様に、当たり前の描写では、いかに確かな筆力があっても、読者の記憶には残らないものだ。それよりも、常識とは逆のイメージで描いたほうが効果的なことがある。
横浜文学学校の提出作品に、葬式の際、死んだ祖父の弟たちが火葬場で、屈伸などの運動をしている描写があった。故人との関係が離れているなら不謹慎に感じるところだが、実の弟たちの行為だからこそのおかしみがあった。合評の際には、本編の主題そっちのけで、この部分が印象に残ったと語る人が多かったのは、それが「必然性」ではなく「一回性」だったからだ。
この「一回性」については、作者の人間的経験が欠かせないだろう。小説を書く者は、都合よく処理される生活に違和感を抱き続けなければならない。そうすることで表現できる「一回性」こそが、読者に真のリアリティをもたらすことはできるのだ。
肌ざわりの感じられるようなリアリティのある作品には、どれも作者固有の表現が感じられる。その個性を普遍的と感じさせることが、作者の力量ではないかと思う。
小説の定義
さて、小説について、筆者は次のように定義する。
小説とは一種の時間芸術で「設定」から「新局面」までの時間的「展開」の中で、主人公その他の人間像と、人間関係を描き出しつつ、それが変質していく軌跡をとらえるものだ
これを見て、井伏鱒二の「山椒魚」やカフカの「変身」のどこに「新局面」があるのか、と反論されるかもしれないが、予想された結末を裏切るという「新局面」がある。
この「設定」「展開」「新局面」が、小説の三要素といえるだろう。
「設定」を化学実験になぞらえば、実験室に幾つかの試薬や器具や容器を取り揃えることにあたる。試薬を容器の中で混ぜ合わせ、適当な器具を用いて化学変化を起こさせた場合の、その刻々の変化の過程が、小説の「展開」である。そしてその結果、容器のなかに形成された新しい物質が「新局面」にあたる。
前述した登場人物の対置などは、化学実験の準備段階にすぎない。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一は予期せぬ結果が大発見をもたらしたと語るが、同じように、その「展開」と「新局面」は、作家の構想を大いに裏切ることがある。
わかりやすい例でいえば、夏目漱石の「こころ」や、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」だろう。当初の試みでは、「こころ」の主人公は先生ではなかったし、「カラマーゾフの兄弟」は都市での革命運動が中心であったという。だが、どちらも文豪の目論見から外れた形で完結し、それにも関わらず、名作として現在でも読まれているのだ。
小説を書こうとする人は、それぞれ可能性を秘めた「設定」を抱いている。これは「素材」と言いかえてみてもいい。しかし、「展開」と「新局面」がなければ、小説としては失敗に終わるのだ。
小説は人間ドラマだ!
僕が本書でもっとも興味深いのは「ストーリーかヒーローか」の章だった。
筆者は受講生作品に見られる失敗の一つとして「ストーリー優先による人間像の分裂」をあげている。作者の想定する物語の進行のために、登場人物を現場に居残らせるために、一貫性のない人間像を描いてしまったのだ。これでは、読者は白けてしまう。
しかし、「登場人物が物語に逆らう」ことは、小説の失敗要因ではない。
例えば、「ドン・キホーテ」。作者は中世騎士道物語を批判するために、パロディとして主人公を書きはじめたものの、ドン・キホーテが滑稽な失敗をすればするほど、酷い目に遭えば遭うほど、永遠の理想主義者を描いた物語へと変化していったのである。
先ほど、化学実験を小説執筆の例にあげたが、ノーベル化学賞受賞の田中耕一の発見は、想定外の結果からもたらされたものだった。そこから目をそむけず、それを追究したからこそ、ノーベル化学賞を受賞するほど、世界的に評価されたのである。
小説執筆でも同じことがいえるだろう。しかるべき「設定」がなければ、それを「展開」させることはできないが、時として、「設定」時に意図したのと別の方向にストーリーが進むことがある。そのとき、「設定」を貫徹させてしまっては、小説としては失敗してしまうのだ。
前述した「こころ」や「カラマーゾフの兄弟」も同じことがいえる。文豪たちでさえも、「設定」どおりに「展開」と「新局面」を迎えることはできないのだ。
そもそも、小説とは人間を描写するものだ。映像では表現できない心理を、小説では照らし出すことができる。小説は作り話だが、その登場人物に肉体を宿らせるためには、「設定」の奴隷にしてはならない。
文体を作る努力
筆者は1932年(昭和7年)生まれ、2009年現在77歳である。まさに、日本文学を見守っていた生き証人のひとりである。
そんな筆者は次のような問題提言をしている。
いわゆる純文学と読み物小説との境目がはっきりしなくなった時期と、文体論議が文芸誌上であまり見掛けられなくなった時期とが、どうやらちょうど重なる
筆者が文学に目覚めた1950年代は、文壇で文体が何よりも尊重されていたそうである。「文体さえちゃんとしていれば内容は次だ、と言わんばかりの論調が多かった」と。
そのために、小説家になるためには「人とは違う自分だけの文体を作ろう」という、明確で意識的な努力が必要だと筆者は語っている。
現代作家で、文体の大切さを説いているひとりが、「純文学と読み物小説との境目」をなくした代表的存在といわれる村上春樹である。彼は自分の文体を作るために、まず英語で文章を書き、それを日本語に翻訳しながら書いていたという。
無論、優れた日本語と英語はイコールではない。日本語には必ずしも主語は必要ではないし、だからこそ豊富な敬語表現が発達しているのである。それに、初期の村上春樹が、翻訳文体であることは、文壇で批判的に言われていたことだ。
ただし、文体とは無縁に思える村上春樹も、みずからの作品を創るために、試行錯誤を繰り返していたことは知らなければならないだろう。
漫画では画風が第一に取り上げられるのに、小説で文体が話題にならないのは異様であると思う。文体が内容より重視されるべき、とは思わないが、優れた文章は決して均一的なものではない。
一文の中にも、それぞれの作家の個性が宿る。それが文学というものなのだ。新たに小説を書こうとする者は、それを目指すかはさておき、そのような歴史は知るべきであろう。
創作の神様
河合隼雄いわく「作者の思いがけないことが起こるものこそ、ほんとうの『創作』である」
池内紀いわく「どこへ行くのか定まっているのが読み物だとすると、どこへ行くのかわからないのが文学である」
岡本かの子いわく「観念が思想に悪いように、予定は芸術に悪い。……それは恋愛に似ている」
創作とは何であろうか。作者が自分の空想の赴くままに書いたものは、小説とはなりえない。手品と同じように、観客席を想定して行われるからこそ、小説は感動を宿すことができる。
筆者は「作者は作品の奴隷たれ」と語っている。作品の主人公に作者の意図に従う奴隷ではなく、逆に、作者が主人公が主人公らしく生きることに奉仕する奴隷なのだ、と。
筆者は「小説の神様」という表現をしているが、人はどうしても自分の最初の意図に固執して、思いもかけない展開に進むことを拒否してしまうものだ。しかし、「小説の神様」が降りてきて、想定外の結末を迎えることになったとき、それは世に言う「秀作」となりうるのだ。
読者にとって、小説は楽譜のようなものだ、と書いたが、それゆえに、楽譜よりもレコード鑑賞、つまり映画や漫画などに人がつどうのは、メディアの発達の必然的結果といえるだろう。多くの人は、わざわざ、楽譜を読んで、それで音を鳴らすことを楽しみとしない。
だが、楽譜なしには音楽が成り立たないように、アニメや漫画が全盛の現在でも、小説は求められているのだ。残念なことに、その多くは流行を記号化したようなパロディ作品ばかりだけど。
本書の筆者である宮原昭夫が講師をつとめる横浜文学学校に僕は所属しているが、そこで感じたのは、それぞれの会員が羨ましいほど魅力ある素材を抱えていることだ。
だから、僕は焦る必要はないと考えている。あわてて急造したもので騙せるほど、創作講座につどった人は甘くはない。
もちろん、僕は本書に忠実な小説を書こうとしているのではない。ただ、この本に打ち負かされない小説を書きたいと思うだけだ。それこそが「思いもかけない展開」で、人々の心をゆるがす可能性がある秀作になる可能性があるからだ。