日本兵捕虜はいかに堕落したか? ― 大岡昇平『俘虜記』(評価・S)

 

俘虜記 (新潮文庫)

俘虜記 (新潮文庫)

 

捕虜収容所内での日本兵は、盗みと賭博とオカマ演芸に夢中だった。
文学者だからこそ表現できた、堕落のリアリズム。
 

 フィリピンの日本兵捕虜収容所は鉄条網に囲まれていた。その目的は二つあったと著者はいう。
 一つは脱走を防ぐためである。しかし、著者の1年にわたる収容所生活の中で、脱走例は1件だけだった。米軍の捕虜であるかぎり、1日2700kcalの食事と安全が保証される。収容所の外に出れば、その贅沢を享受できないことは、日本兵なら誰もが知っていた。
 もう一つは、現地人であるフィリピン人から身を守るためである。日本兵のフィリピンでの残虐行為は、マニラやバタンガスのものが有名らしい。
(第2次世界大戦でのフィリピン人の犠牲者は約100万人といわれる)
 これら南方戦線の日本兵の非道行為は、あまり後世には伝わっていないが、日本兵ならば誰もが知っていた。(だから、遺骨を取りに行くのに、あれほどの時間がかかったのだろう)
 

 本書は実体験にもとづく捕虜収容所体験記である。その執拗なほど粘着した描写は、きわめて読みにくい。しかし、その読みにくさゆえに、捕虜収容所内での日本兵の堕落を生々しく伝えることに成功している。
 大岡昇平は、本書を書くまで文筆で生計を立てていたわけではないが、批評家の小林秀雄と交友があり、自身も仕事の合間をぬって、フランス作家スタンダールの研究をしていた。
 僕は不勉強にも、スタンダール作品といえば『赤と黒』しか知らないが、その主人公ジュリアン・ソレルを通して、人間のエゴイズムを描き切った作家だと思っている。そんな作家の研究を専門にしているからこそ、捕虜収容所の堕落を描く文章を持つことができたのだ。数多くの兵士の従軍日記にはないリアリズムが、本書にはある。
 

 堕落した捕虜収容所内で、大岡昇平は娯楽小説を書きつづけた。官能小説も書いている。閲覧代としてタバコを要求した。著作権を主張し、その表紙には「禁転載」と記したという。
 画才のある者も似たようなことをした。米兵に応じて日本画を描く元画家もいれば、捕虜仲間に応じて春画(エロ絵)を描く者もいた。
 芸術の才無き者は、賭博に夢中になった。米軍から配給されるタバコを賭けて行われたそれは、イカサマが横行し、舎弟を持つ親分を生んだ。ガサ入れのない賭博の、当然の帰結といえる。
 最大の遊びは盗みだった。米軍倉庫から盗み出したそれを、捕虜たちは自分のベッドの下に大切に保管した。
 敗戦後、帰還する際に、捕虜たちは持物検査を受けることになった。手先の器用な日本兵は、盗品を偽装するのに夢中になったが、ほとんどは持ち帰ることができなかった。米軍側は「日本の罹災民に贈る」と言ったが、日本兵捕虜は信じなかった。
 結果、彼らは焼いたのである。「フィリピン人に払い下げたとしても、フィリピンが潤うわけがないんだから」とせせら笑いながら。
 その火は三日三晩燃え続けたという。
 

 僕は3月に『日本軍と日本兵 ― 米軍報告書は語る』(一ノ瀬俊也・著)という新書を読み、日本兵捕虜の記述に興味を持った。「戦争の囚人」たる捕虜の日常生活にこそ、日本兵の実態を知ることができるのではないかと感じた。
 大岡昇平をはじめ、フィリピンの捕虜収容所内の兵士たちは、補充兵が少なくない。一年未満の実戦経験の乏しい日本兵捕虜を通じて「日本軍」を語ることは正しいことではない。
 それでも、本書で描かれている「人間性」は魅力的だ。それは、大岡昇平が文学者の誇りをかけて書かれたものだからだろう。敗戦後の悲哀の中で、彼は静かな怒りをいだき、冷徹な姿勢で本書を書き上げた。
 「戦争」を知るためには避けて通れぬ名作であるといっていい。
 

 

【読んだ動機】

 

 本書を手にするまで、大岡昇平作品は『野火』を読んだだけだった。これは「戦場での人肉食」をテーマとしているが、僕にはすこぶる読みにくかった。作者がフランス文学研究家と知って妙に納得したのを覚えている。
 僕はフランス文学に強い偏見をいだいている。バルザックプルーストはまともに読めなかった。最近、トゥーサンの『浴室』の書評を書いたが、そのときも「フランス人の考えることはよくわらかん!」と何度もため息をついたものだ。
 

 そんな僕が本書を手にしたのは、前述した『日本軍と日本兵』を読んだからである。米軍報告書では「いったん投降すると口が軽く御しやすい」と日本兵捕虜が分析されていることに、僕は強い関心を持った。
 第2次世界大戦で日本兵は上司の理不尽な要求に苦しめられた。米軍が「集団的自殺」とバカにした「玉砕攻撃」を強制させられただけではない。負傷兵が「足手まとい」だと殺されたことも日常的に行われた。
 そんな彼らが、捕虜収容所という、日本の階級が通じない環境に置かれたとき、どのようにふるまったのか。
 僕はそれを知るために、本書を読み始めたのだ。
 

【読む前の先入観】

 

 日本兵捕虜の堕落を「仕方ない」と感じる人がいるかもしれない。そこから人間性を見いだす本書を「そのようなことは語るべきでない」と生理的嫌悪感をいだく人もいるかもしれない。
 それは、父親の仕事を子供を不意打ちで見せる残酷さに通じる。日頃、父親は子供に「パパはがんばってんだぞ〜」とアピールするが、それに似合う仕事をいつもしているわけではない。
 子供は子供で「大人は、子供の僕よりもずっとスゴいはずだから、とんでもないことをやっているんだろうな」と幻想をいだく。
 しかし、人間社会とは、誰もが公平に仕事が与えられるわけではない。仕事ができると見なされれば、得意分野以外の仕事も背負わされる。気づけば、自分の限界以上の仕事が与えられる。そして、すべての上司が責任をとるわけではない。社会で生きるためには、自分を守るためにもサボり方を覚えなければならないのだ。
 これは捕虜収容所内でも同じことで、捕虜の仕事の割り振りで、社会人経験のない若者は、大岡昇平のような三十代の補充兵にはうまく利用されることになる。大岡昇平は、軍需産業会社の事務員として、上の理不尽な要求をいかにごまかして報告するかという処世術を身につけていた。考えずにがんばっても報われないのは人間社会の常である。
 戦争はその犠牲者の多さから、どうしても「美談」を求める傾向にあるが、捕虜収容所の生活描写にそれは必要ない。当事者ならともかく、戦争を知らない我々が、日本兵のメンツにこだわる必要もない。
 

 日本人以外の捕虜体験記といえば、僕は米国SF作家カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』を連想する。
 

 

 ヴォネガットは、第2次世界大戦に従軍し、米国兵士としてドイツ軍の捕虜となった。そこで送られた先がドレスデンで、有名なドレスデン空襲を受けることになる。
ヴォネガットは捕虜になったために、味方である米英の空襲攻撃にさらされたのだ)
 その作品で印象的なのは、ヴォネガットたち米国一般捕虜が、英国将校捕虜と会う場面だ。英国将校は、毎日ヒゲを剃ること、規律正しい軍隊生活を維持することを呼びかけるが、ヤンキー(米国兵)はそれを無視する。その下品さに英国将校はあきれ、二度と接触しようとしなかったというくだりである。
 

 日本兵にとって、米国兵士は恐るべき存在であった。体格差はあったし、ほとんどの者が英語を解さなかった。大岡昇平は捕虜収容所内で通訳という特権階級にいたが、日本兵のエゴイズムを徹底的に描く一方で、米国兵について悪くは書かれていない。占領下で書かれたという事情もあるが、ここに日本兵捕虜としての限界がある。
 ただし、米国兵の知性の未熟さについては本書でも描かれている。捕虜たちを整列させて、管理側の米軍は毎回人数を計算していたが、縦と横を掛け算ではなく足し算する米国一般兵が少なくなかったという。一般兵の教育成熟度は、米国よりも日本が優れていたようだ。
 また、フランス文学に精通していた大岡昇平の芸術欲を満たす相手は、米国兵からは見いだせなかったという。彼が文学者として芸術論を交わしたのは、同じ日本兵捕虜仲間ばかりであって、スタンダールを読んだ米国兵士に著者は出会うことがなかったのだ。
 ただ、それゆえに、大岡昇平はインテリとして敬意を払われていたという。
 

【本書の特徴】

 

 この『俘虜記』のあとがきで、大岡昇平は書いている。
「俘虜収容所の事実をかりて、占領下の社会を風刺するのが、意図であった」
 この言葉がひとり歩きして、本書は「作り話」である、という風潮があると僕は感じる。
 ところが、本書には「小説ならば、こう書かないのだが……」という、わりきれない描写が少なくない。事実に近づくべく、執拗なまでに粘着した表現の数々に、読者は圧倒されるどころか呆れてしまうだろう。
 

 ただし、著者がこう書くのには理由がある。大岡昇平は従軍中に日記を書いていないのだ。
 日本兵の日記好きは、米軍報告書でも繰り返し述べられているし、戦後に多く世に出されている。
 ところが、大岡昇平は自身のインテリ根性から、他兵士の「日記を書く」習慣を馬鹿にしていた。そして、米軍兵士から入手した雑誌の推理小説にヒントを得た、娯楽小説を書いて、タバコと引き換えに捕虜仲間に見せていたのだ。
 

 だから、本書は従軍中の日記にもとづいて書かれたのではない。もっぱら、著者の記憶に頼っている。その粘着な掘り起こし描写は、さすがプルーストを生んだフランス文学愛好家だけあると感じる一方で、記憶に頼る文章ゆえの限界も感じた。
 記憶を呼び覚ますには、それに関連する出来事が執筆期間中に起こらなければ難しい。だから、占領下日本で記憶を頼りに書かれた本書は、どうしても「占領下日本の批判」となってしまうのだ。
 本書のあとがきの意図はこのようなものであり、決して「都合のいい作り話」を創作したのではない。
 

 いっぽうで、インテリ根性丸出しの大岡昇平を「公正な記録者にふさわしくない」という批判もあるだろう。
 例えば、フィリピンの捕虜収容所内では、道路をへだてて台湾人兵士も収容されていた。日本人と台湾人の捕虜生活の違いがどのようなものか、僕は興味を覚えたが、残念ながら、著者は台湾人捕虜と交流をしようとはしなかった。通訳として米軍兵士べったりだった大岡昇平は、台湾人捕虜の存在を無視していたのだ。
 本書で、その違いが述べられるのは、次の米軍兵士の言葉ぐらいである。
「日本人は外業が良く内業が悪く、台湾人はその反対だ。彼等(台湾人)は自分自身のためでないと働かない」
(なお、施設内の仕事を内業といい、施設外の仕事を外業という。いずれも、、たいした仕事量ではなかったらしい。捕虜の労働には相応の監視が必要となる。また、捕虜に仕事を多く与えれば、現地のフィリピン人の仕事を奪ってしまうからだ)
 

 このように本書は「日本兵捕虜の収容所体験記の決定版!」にふさわしい内容ではないが、スタンダール研究家に恥じぬ文章を目指したゆえに、その筆は人間の内面をえぐる魅力的なものなのだ。
 そして、それは『日本兵と日本軍』で引用されていた米軍報告書とも一致する。
 だから、僕は本書を信用に値する回想録だとみる。
 

【展開について】

 

 実は、一般にいわれる「大岡昇平の『俘虜記』」は次の3つに分類される。
 

1.1948(昭和23)年に、雑誌『文学界』で掲載された短編。
 本書では「捉まるまで」と改題され、冒頭に配置。
2.1949(昭和24)年に刊行された短編集。
3.既刊の『俘虜記』『続俘虜記』『新しき俘虜と古き俘虜』をまとめたもの。
 

 僕が読んだ『俘虜記』は新潮文庫で刊行された「3」である。
 

 しかし、大岡昇平の『俘虜記』といえば、「1」を指すことが少なくないようだ。改題が示すとおり、「1」は「捕虜となるまで」が描かれたもので、この記事でくどいほど話題にしている「捕虜収容所」生活は描かれていない。
 

 「1」の「米軍兵士を殺すかどうかの哲学的命題」は、やがて昇華されて、彼の代表作『野火』につながったと考えるが、今の読者にとって、それよりも「捕虜収容所内」生活をつづった内容が、はるかに楽しめるはずだ。
 

 そして、「3」であるように、もともと分冊された作品であるために、作者の姿勢は一定ではない。これもまた「実録だったら、異なる描写があるはずがない」と批判的に見られるところであろう。
 本書は現代文学作品のような統一性はとられておらず、同じことが違った表現で塗り替えられることが少なくない。しかし、それは本書を「文学作品」として描こうとした作者の誠実な姿勢の反映ではないか。
 

 本書の読みにくさは、そのような一体感の無さにもある。ゆえに、現代小説のような「読み進めるにつれて謎が明らかになる」爽快感を本書に求めてはならない。
 

【印象に残った描写など】

 

 本書の魅力は、収容所内の人間関係にあるといっていい。本書ではそんな人物の分析が多く描かれている。
 例えば、収容所内の日本人代表だった「イマモロ(今本)」は、徴兵される前は運送業をしていた。おそらく、親方的立場であり、ゆえに人を酷使する才能があったと著者は分析している。
 その他、捕虜仲間の「否定的」な側面が中心に描写されている。特に「阿諛(あゆ)」、つまり「ごますり」行動に対しての著者の姿勢は厳しい。軍隊での若者の有能さは権力者の匂いを嗅ぎつける才能にあるといっていい。そのような小賢しさを、著者は批判的に書いている。
 ただし、著者自身は、通訳としての特権をいかし、捕虜収容所内の絶対正義である米国兵士にべったりだったから、他の捕虜から見れば「米国人に追従している」と受け止められていただろう。
 日本兵捕虜の中にも軍隊生活を維持する者は少数ながらいた。ベッドの周囲を整頓し、被服も軍隊流に折り畳み、枕元に置いていたという。僕は彼らを立派だと思うのだが、著者は「習慣にすぎない」と切り捨てる。「それは単に服従の活人画的演出、すなわち阿諛(あゆ)しか示していなかった」という大岡昇平の分析は、さすがに言いすぎであろう。
 ヴォネガットの『スローターハウス5』に出てきた英国将校を考えてみるといい。ドイツ軍に捕まった彼らが、新しく収容所に入った米国一般兵捕虜に規律の大切さを説いたのは「ドイツ軍への阿諛追従」であっただろうか。
 

 ただ、日本兵の傾向として、阿諛追従が目立つのは事実であろう。
 収容所内では、日本兵捕虜は将校とその他に分けられた。これは米軍が、捕虜が組織化するのを怖れていたためである。
 ところが、米軍という新たな権威を授かった日本兵捕虜は、将校への敬意をすぐに失ったという。将校は将校で、従者を失い不細工に日常生活を遂行していた。各種洗濯物が乱雑に干してあるのを、大岡昇平たち一般兵は冷笑的に見ていたのだ。
 米軍側もこの日本兵の特性に気づき、日本一般兵捕虜をこう脅したぐらいである。
「我々にさからうならば、おまえたちの将校を入れて指揮させるぞ」
 

 ヴォネガットの小説に出てくる英国将校のような職業軍人の姿が日本将校に見いだせないのは、大岡昇平が公正な観察者ではなかっただけではないだろう。日本軍は権威主義で動いており、しばしば能力よりも学歴と出身が重視されることがあった。捕虜収容所の生活にも、そんな日本軍の欠陥を見いだすことができる。
 

 それよりも、僕が本書で印象的だったのは、著者と同じ中隊だった人物の描写である。
 戦場と捕虜収容所内での彼らの態度の違いにこそ、僕は「人間性」を見いだす。
 大岡昇平が属した「西矢中隊」で、彼は最初に捕虜になった。病気で取り残されて寝ていたところを捕縛されたのである。以降、次々と投降者が収容所内にやってきたのだが、自分の上官の第一声はことごとく気に入らなかったという。
 ある軍曹は横を向いて、こう言った。「大岡、この戦争は負けだな」。つまり、この俺が捕虜になるぐらいなのだから、という意味らしい。
 この軍曹はさして切迫していない状況で「フィリピン人を食うこと」を部下に提案して毛嫌いされた。これを大岡昇平は彼が日華戦争(日中戦争)以来の古参兵だったからと見ている。軍曹の人肉食発言に「暴兵の論理と、占領地の人民を人間と思わない圧制者の習慣が日中戦争を経験した下士官に宿った」という著者の分析は、見当外れといえるだろうか。
 実際、軍曹の言葉にそそのかされて、ある兵士が不用意にフィリピン人に銃を撃った。フィリピン人は何かを叫びながら逃げ、ブリキ缶を叩く警報が四方で起こり、軍曹をはじめとした三十人は武装したフィリピン人に取り巻かれて、捕縛されてしまうのだ。これもまた、日本軍の実態である。
 むろん、軍曹自身がこのような事実を語ったわけではない。彼は上官として、見苦しい弁明に終始しそのメンツを保とうとしていた。その努力も、他の捕虜兵士から意見を聞いた大岡昇平には無駄になったわけであるが。
 

 この他、弾薬がもったいないからと、負傷して歩けなくなった自国の兵をナイフで刺殺した描写など、戦場におもむいた者でなければ知り得ない事実が本書では出てくる。兵士でない者には、それらは「戦死」の一言ですまされる。
 日本軍の「戦死」の多くが、不衛生と看護施設不足による病死であり、命に別状のない負傷でも作戦遂行のさまたげになると味方に殺されたことは、現在では知れ渡っている事実である。当事者が語りたがらない事実なので、耳をすませないと聴きとることはできないが。
 

【心に残った場面など】

 

 もっとも心に残った場面は、前述した、米軍倉庫から盗んだ備品を帰還時に燃やしたくだりである。「東アジア解放」という開戦の建前は、とっくの昔に日本兵から忘れられていたのだ。
 

 次点としてあげたいのは、大岡昇平が帰還時に「最後に見たフィリピン人」とかけた会話である。
 


「どうだい。日本人を君はどう思う」
「ある日本人は善く、ある日本人は悪い」
 と四十がらみの混血児らしい運転手はいった。マニラ、バタンガスの残虐を知っている彼等が、こういってくれたのを私は感謝している。
「君達は全部善い」
 と御世辞をいって別れた。
 

 少々できすぎな場面ではあるが、人間のエゴイズムにまみれた『俘虜記』のなかで、とびぬけて美しいシーンであるといっていい。
 

【本書の核心】

 

 米国軍の捕虜に対する寛大な措置に、米国の「博愛精神」を感じた日本兵は多かったらしい。本書でも大岡昇平は「これぞ文明国だ」と感嘆している。
 ただし、米国軍が日本兵捕虜に寛大だったのは、日本兵の人命を尊重したからではない。日本兵捕虜を優遇することで、軍事機密を引き出したり、厭戦気分をもたらすことが、合理的だと判断したからだ。
 大岡昇平が捕縛されたのは、彼がマラリヤで隊に取り残され、銃を持たずに眠っていたからである。もし、彼が通常の兵士のように銃をかかえて眠っていたら、まずは撃ち殺されていただろう。日本兵捕虜は有用だが、そのために米軍兵士を一人でも犠牲にすることは許されないことだった。
 

 本書を読んで「日本兵を大切にした米国は偉い!」と感想を抱いたとしたら、それはとんでもない間違いである。米国兵士一人の命の重さゆえに、日本兵捕虜を有効的に活用したにすぎない。
 そのような米軍精神は、無人機が跋扈する現在アジアで見ることができるだろう。無人爆撃機が他国の人命を奪う戦争に「博愛精神」を見つける人はいるだろうか。
 

 それよりも僕の心に響いたのは、著者の「怒り」である。
 戦争文学の多くは「悲哀」に満ちている。その悲哀の前には、捕虜の堕落など些細なことであった。実際、日本に帰還した捕虜たちは自分を恥じようとしたが、郷里は生きて帰った彼らを喜んで迎え入れた。それほど敗戦後の日本は疲弊していたのだ。
 それでも、大岡昇平は「怒り」を失うことがなかった。かつての戦友たちが、やがて「開き直り」、戦場の記憶をねじ曲げようとするなかで、彼は文学者の友人の助けを借り、ひたすら自分の記憶を掘り起こした。その孤独な作業を支えたのは「怒り」であった。
 

 本書でそれを象徴するのは「八月十日」の章である。収容所内の捕虜にとって、日本降伏は8月15日ではなく、8月10日であったという。実際、ソ連参戦により仲介役を失った日本政府は、すぐさま終戦工作に動いた。
 それからの数日間は、長かった戦争期間を思えばわずかであっただろう。ただ、以降も威嚇のための都市爆撃は14日まで続いた。武装解除の命令の出ない兵士たちは、戦い続けなければならなかったのだ。
 

 なぜ、8月10日に即座に降伏しなかったのかといえば「国体の堅持」に政府がこだわったからである。すなわち「天皇制の維持」である。
 後世から見れば、1500年以上つづく我が国の天皇制は誇らしくあるのだが、捕虜収容所内の大岡昇平はそうは考えなかった。
 以下、本書からの引用。
 


 天皇制の経済的基礎とか、人間天皇の笑顔とかいう高遠な問題は私にはわからないが、俘虜の生物学感情から推せば、八月十一日から十四日までの四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である。
 

 8月14日の夜遅く、ポツダム宣言受諾の知らせを聞いたとき、捕虜たちの反応は皆無だったという。彼らにとって、日本降伏の日付は8月10日だったからだ。
 

 著者はこののちに『レイテ戦記』という大著を世に出す。それは、軍部の「公式な戦史」に納得いかず、関係者にインタビューをとってまとめたものだ。軽く読んでみたが、とても一人の文学者の仕事とは思えない重厚なものだ。
 公刊戦史に真っ向から対立する戦記を書かせた動機も、やはり「怒り」によるものであろう。核心に「怒り」があったからこそ、本書は執拗なまでに記憶が掘り起こされ、結果、戦争文学の傑作となることができたのだ。
 

【評価とその理由】

 

 何度も書くが、本書は気軽に読めるものではない。しかし、捕虜収容所内の人間性を記すためには、エゴイズムを描く文学性が欠かせなかっただろう。文学者が書いたからこその真実が本書にはある。
 日本敗戦の歴史を語るために、本書は必読の内容であると考える。評価はS。
 

俘虜記 (新潮文庫)

俘虜記 (新潮文庫)