「生き神」を崇拝する南アジアの信仰を紹介 ― 井田克征『世界を動かす聖者たち』(評価・A)

 

新書724世界を動かす聖者たち (平凡社新書)

新書724世界を動かす聖者たち (平凡社新書)

 

インドの仏教寺院には、背広姿の菩薩がいる?
初潮前の少女を神と崇める、ネパールの「クマリ」信仰とは?
南アジアの聖者とその信仰を紹介する入門書
 

 クリスマスを祝い、寺の除夜の鐘を聞き、神社に初詣に行く。そんな宗教に節操のない日本人の年末年始行事を「日本的」と表現する人は多いが、そのような多元的宗教観は、実に「アジア的」であることが、本書を読めばわかる。
 インドの聖者、サイ・ババの名前を知る人は多いだろう。2011年の死のニュースは世界中で話題になった。その奇跡の多くがインチキであると非難されるいっぽうで、社会福祉の功績からノーベル平和賞候補にまでなった人物である。
 そのサティヤ・サイ・ババは、シルディ・サイ・ババの生まれ変わりであると自称している。そのシルディ、つまり先代サイ・ババは、イスラム教徒である。サティヤ・サイ・ババヒンドゥー教徒だ。サイ・ババ先代と二代目では、宗教が異なるのである。
 ところが、インド人はそれに疑問を抱いていない。そして、サティヤ・サイ・ババの支持者には、欧米のキリスト教徒はもちろんのこと、仏教徒イスラム教徒もいたのである。
 宗教の垣根をこえた人間の神格化は、インド独立の父、マハトマ・ガンディーにもいえる。ガンディーを祀る寺院はインド各地にあり、有名な「塩の行進」の街道は、宗教を問わず巡礼者が絶えないという。
 このようなみなみアジアの多元的宗教観が、キリスト教を下地にする欧米人にも支持されていることに興味深い。南アジアの聖者たちは「偏在する神」を説く。多神教でありながらも一神教。その信仰は、日本人にとっても理解しやすいものだろう。
 

 本書では、そんな南アジアの「聖者」たちを取り上げている。初潮前の少女を神とあがめる、ネパールの「クマリ」信仰、チベット独立運動の象徴であり活仏である「ダライ・ラマ十四世」、そして「サイ・ババ」など。
 日本人にとって南アジアはなじみがあるものではない。ヨガブームが、欧米から輸入された広まったように、日本人にとってインドは、欧米人よりも遠い存在であるかもしれない。
 我々は、欧米の宗教観と比較して「日本人は宗教に節操がないのだ」と意固地に開き直っているが、それは日本がアジアに位置することを忘れた見解である。本書を読めば、そんなことは言えないはずだ。
 

 

【読んだ動機】

 

 本書は2014年4月20日朝日新聞読書欄にて紹介されていた。
 僕が興味があったのがネパールの「少女神クマリ」である。クマリ信仰とは特定部族から選ばれた初潮前の少女を生ける女神として崇拝する文化である。クマリに選ばれた少女は、名前を失い、世間から隔絶された館に住み、女神として信仰されるのだ。
 漫画やゲームでは「聖女」がひっきりなしに出てくる。少女が世界を救うことも良くある。そんな物語を浴びて育った自分としては、「少女神クマリ」という実例に強い関心を抱いた。
 本書では「ダライ・ラマ十四世」についても説明している。彼は転生した観音菩薩であるとされる。南アジアでは、このような「聖者」が少なくない。2011年に死んで話題になった「サティヤ・サイ・ババ」も、初代「サイ・ババ」の生まれ変わりであると主張していた。
 なぜ、南アジアでは、このような「聖者」を信仰する文化があるのか。本書はインドを知らない僕にとって、最適の入門書になると期待したのだ。
 

【読む前の先入観】

 

 本書はタイトルが良くない。「世界を動かす聖者たち」で副題が「グローバル時代のカリスマ」。どこにも南アジアという地域名がないのだ。
 これは出版社の意向なのか、作者の意図なのかわからない。南アジアに限定すると売れないことを心配したのだろうか。
 新刊の帯には、本書で個別に取り上げている六者の聖者があげられている。
 

・少女神クマリ
ダライ・ラマ14世
・2人のサイ・ババ
・ラームデーヴ
・アンナー・ハザーレー
・アンベードカル
 

 本書の収録順では、ババ・ラームデーヴよりも、アンナー・ハザーレーが先に紹介されている。ヨーガ・マスターであるババ・ラームデーヴは一般的に良く知られた存在なのだろう。
 

 いずれにせよ、南アジアの聖者たちだけを取り上げているのは明白である。そのことを書名に記さなかったのは本書の欠点である。
 

【本書の特徴】

 

 本書は入門編であり、南アジアの宗教観の格好の案内書となるはずだ。マハトマ・ガンディーを知っているぐらいの日本人でも楽しめる。逆にいえば、南アジアに詳しい人には物足りない内容であるかもしれない。
 新書という現代性をいかしたメディアにふさわしく、ラームデーヴとアンナー・ハザーレーの項目では、ブログやSNSによる「聖者」への支援運動も取り上げている。いずれも専門的な内容ではないが、ネット時代の「聖者」信仰を知るきっかけとして楽しめる。
 

 十億を超える南アジアの影響力は国際的にも大きい。インドの聖者たちは日本よりも英米に広く知られている。日本でも一般的になったヨーガ・ブームは欧米からの逆輸入だが、そこには「聖者」を中心にした「菜食主義」信仰があったことを本書では知ることができる。
 なぜ、一神教キリスト教が下地の欧米で、南インドの聖者たちが支持されてきたか。その理由にも本書は迫っている。多宗教のインドから生まれた彼らの「偏在する神を唯一とする」宗教観は、日本人にも受容しやすいものであるにちがいない。
 

【展開について】

 

 各章がそれぞれ独立した聖者論となっているので、どこから読んでもかまわないと「はじめに」で述べているが、通して読んだほうが理解できるように工夫された構成である。特に、第五章〜第七章は続けて読んだほうがいい。
 後半で取り上げられた「聖者」たちは、少女神クマリやダライ・ラマ十四世と異なり「生き神」ではない。どうして、人間が「聖性」をともなうようになったのかを、それぞれの事例から分析している。
 

 第五章では、アンナー・ハザーレーを取り上げている。いま、インドでもっとも人望を集める一人であるハザーレーは、伯父を意味する「アンナー」という愛称をつけて呼ばれることが多い。
 彼は2011年に無期限断食(ハンガー・ストライキ)を始めて、インド中の注目を集めることになった。その目的は「汚職追放法案」の委員会設立である。支援者はガンディー帽と呼ばれる白い帽子をかぶり、デモ行進をした。『タイムズ・オブ・インディア』によれば、彼の支持は8割にのぼったという。
 その断食は2回にわたって行われ、最初は5日間、二度目は12日間。その間、メディアばかりでなく、インターネットでも、その断食は連日報じられた。結局、政府はハザーレーの案を受け入れる。
 断食といえば、ガンディーを連想するだろうが、このハザーレーは「聖者ガンディーの再来」と期待されている。インド人がハザーレーに聖性を見いだすのは、その徹底した自己犠牲精神にあるという。いまやインドで知られぬ者がいないのに、ハーザレ―は妻帯せずに寺院に寄宿し質素な食事をとる生活を続けている。それが、インド人にとっては理想の聖者像なのだろう。
 このハザーレーは社会活動家として名をはせた。最初は故郷の村を改革することから始まった。干ばつの続く貧しい郷里を「天災」ではなく「人災」であるとし、禁酒・禁煙運動、貯水槽の設置、教育の普及、カースト差別の廃止を実現する。こうして、ラレガン・シッディ村の環境改善運動を成功させたあと、ハザーレーはマハーラーシュトラ州汚職追放運動に乗り出す。結果、投獄されたものの、民衆は激しい抗議をし、釈放される。その後は、個別の汚職の告発ではなく情報公開を求める運動を起こす。そして、2002年に州政府による「情報に対する権利法(RTI)」の制定にこぎつけた。
 こうして、今ではインド中央政府に働きかけるほどの影響力を持つ活動家となった。それでも、彼は質素な暮らしを変えることはない。そんなハザーレーの支援者の多さに苦言を呈する人は少なくない。もはや彼の断食は、民衆の混乱を担保にした、実質的な脅迫となっているのだ。そこには民主主義はない。大衆はハザーレーの主張に、法案の中身を吟味することなく、その人格によって支援するようになっているのだ。
 インターネットによる情報共有の中で、ハザーレーの影響力は衰えることはないという。僕はこの本に出会うまでその名を知らなかったが、今後は彼のニュースをチェックしようと思う。
 

 いっぽう、政治運動に加わったがゆえに、聖性を失ったのが、第六章で取り上げているヨーガ・マスターのババ・ラームデーヴである。このラームデーヴは、前述したアンナー・ハザーレーの断食を支援し、世界中から注目された。
 僕は彼の名を知らないが、インドのみならず世界中に熱心な信奉者を持っているという。ラームデーヴは伝統的なヨーガから宗教色を排し、1日数分から数十分のヨーガを毎日継続することで、美容や健康が手に入ると説いた。
 まるで、欧米ヨーガの逆輸入だと感じるが、インド宗教の伝統を背景に実績を積んだラームデーヴに、インド人が夢中になった。本書では彼がインド人の支持を得たのは、ハリウッド的華々しさとは無縁の、農村生まれからの洗練されていない朴訥で親しみある語り口にあったと分析している。やがて、インド系イギリス人を通じて、ラームデーヴのヨーガは世界中に広まった。
 ところが、政治活動に身を入れるようになると、支持者は彼から離れていった。もともと、メディアや有名人に頼った彼の宣伝は、宗教家よりもビジネスマンという批判の声があった。
 それが決定的になったのは、ハザーレーと同じく、法令制定を要求する断食を行ったときである。5万人を超えた支持者が暴徒化するのを怖れたインド政府は、深夜1時の身柄拘束を敢行する。二時間後、彼は逮捕されたが、そのとき2人の女性信徒に手をひかれて群衆にまぎれこんでいた。しかも、女装をしていたという。宗教的シンボルである衣服を簡単に投げ捨てて、女性になりすて逃亡したラームデーヴに世間の目は冷たかった。
 今のインドでは、ラームデーヴはヨーガの導師(グル)としては傑出しているものの、彼の政治活動は俗っぽく、自己抑制に欠いていると批判されている。本書ではラームデーヴを「聖者になれなかったトリックスター」と分析している。
 

 第七章ではアンベードカルという人物が出てくる。インドの聖者といえば、伝統衣装に身を包んでいるのがほとんどだが、彼は「背広姿の聖者」である。
 カーストの被差別民(ダリット・不可触民)として生まれた彼は、勉学で成功をおさめ、米国のコロンビア大学に留学し、黒人運動家と親交を結ぶ。さらには英国に留学し、博士号と弁護士資格を取得する。こうして、帰国した彼は、カースト撤廃運動に身を乗り出すことになる。
 そんな彼が対立したのは、インド独立の父マハトマ・ガンディーである。
 ガンディーは、ダリット(不可触民)を「神の子」と呼び、その差別はヒンドゥー教の汚点であり、廃絶しなけれならない悪習であると主張していた。
 ところが、ガンディーはカースト制自体は有用であると肯定的にとらえていた。彼はダリット(不可触民)はシュードラの一員と迎え入ればいいと考えていた。
 これに激怒したのがアンベードカルだ。彼はカースト制度そのものがインド社会の近代化をさまたげる非合理なものとした。実際、ガンディーは「神の子」と言いながらも、ダリット(不可触民)の支援策を積極的に取り上げようとしなかった。カースト内の対立を避けるためである。
 その後、ガンディーと袂を分かち、独立労働党を率いて中央政界に転進したアンベードカルは、初代ネルー内閣で法務大臣に就任し、インド憲法の草案作成を行った。だから、彼は「インド憲法の父」と呼ばれる。
 そんなアンベードカルのカースト差別との戦いは終生続いた。そして、死の二年前、現在インドにも強い影響を与える判断をする。ヒンドゥー教カーストを撤廃できない上は、別の宗教を信仰するほかない。その宗教とは仏教であると。
 こうしてアンベードカルの支持者たちは、仏教徒に一斉改宗をする。
 実は、スリランカの分離独立後、インドにおける仏教徒のほとんどは、アンベードカルのように、カースト差別に対抗するために仏教に改宗した「新仏教徒」なのが現状である。インドでは仏教徒であることは、ダリット(不可触民)の生まれであることと捉えられているのだ。
 そんな新仏教徒にとって「インド憲法の父」であるアンベードカルの信仰は絶大なものだ。現代インドの仏教寺院には、祭壇の中央にブッダと並んでアンベードカルの肖像画が祀られている。
 本書では、アンベードカルを「背広姿の菩薩」と語っている。もし、インドに行くことがあれば、ぜひとも仏教寺院に行ってみたいものである。おそらく、現地ガイドは「外国人の行くところじゃない」と言うだろうけれど。
 

 本書を手にしたのは、前半の聖者たちを知りたかったためだが、後半のエピソードのほうが、はるかに楽しめた。今後、南アジアのニュースを見るときは、この三者の支援者たちに注目したい。
 

【その他、印象的なエピソード】

 

 第二章の「少女神クマリ」の章では、世界中でベストセラーになったという「ロイヤル・クマリ」の自伝『女神から人間へ』が紹介されている。
 現在、ネパールでは9人のクマリがいるというが、そのなかでもっとも歴史と伝統があるのが「ロイヤル・クマリ」だ。国際社会で、クマリ信仰は初潮前の少女の人権を侵害した幼女虐待であるという強い批判を浴びているが、自伝を書いたラシュミラはクマリ信仰自体を否定することはない。4歳から12歳までクマリとして少女神をつとめたラシュミラは、その後、人間関係に苦しんだが、遅れた学業を取り戻し、大学に進学。今では「クマリで初めてのIT技術者」として働いているという。
 幼女であるクマリを政治利用することが少なくないのがネパールの現状である。このような信仰を伝統として受け入れたままでいいのか、近代化のさまたげになっているのかについては、今後も様々な書物から調べてみたいと考えている。
 

 第三章の「ダライ・ラマ十四世」の章では、チベットの異なる宗派である活仏「カルマパ十七世」のことも取り上げている。かつて、ダライ・ラマゲルク派とカルマパのカルマ・カギュ派は激しい争いを続けてきたが、中国のチベット侵攻以降、両者は共闘するようになった。ダライ・ラマ十四世の死後は、カルマパ十七世を宗派の違いをこえてチベットのシンボルにしようとする動きも出ている。
 いっぽうで、ダライ・ラマ十四世もカルマパ十七世もインドの亡命政権にいることで、チベット人ナショナリズムが揺らいでいるという問題もある。チベットに残った人たち、亡命先の第3世代など、「フリー・チベット」と叫ぶだけでは解決できないチベットの現状があるのだ。
 

【評価とその理由】

 

 新書にふさわしい入門編で、東アジアでは聖者が強い影響力を持ち、その名は世界に知れ渡っているという現状を知ることができる。
 筆者は南アジア宗教史やヒンドゥー教思想を専門としているが、本書での内容は専門的ではなく、聖者を取り巻く社会情勢を中心にすえている。
 「一神教」的信仰の押し付けに違和感をいだく日本人にとっても、南アジアの「生き神」をはじめとした聖者信仰を知ることは心の助けになるだろう。インドの「偏在する唯一の神」という宗教観は、キリスト教の下地がある欧米人にも支持されているのだ。
 

 いっぽうで、現在の南アジアをとりまく宗教対立については、まったく語られていないのは不満点だ。英領インドは独立後、宗教によって、インド・パキスタンバングラデシュスリランカの4国に分離した。それぞれの過激派によるテロについてのニュースも聞く。
 多元的であったインドの宗教観で、なぜ、宗教的対立が起きてしまったのか。最後の一章だけでも、それに割くべきではなかったか。
 

 南アジアの聖者を知るうえでは格好の入門書ではあるだろう。評価はA。
 

新書724世界を動かす聖者たち (平凡社新書)

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