【感想】レイ・ブラッドベリ『火星年代記』 (評価・A)

 
SF(スペース・ファンタジー)の可能性を切り開いた名作!
あらすじを自分の言葉で書くだけでも楽しめる逸品!
 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 
 日本のサブカルチャー、つまりゲーム・漫画・アニメ等に、SFが与えた影響は大きい。例えば、コミックマーケットなどの同人誌即売会の歴史を調べると、SFというジャンルの存在感を知ることができる。
 しかし、現在のポップ・カルチャーにおいて、SFの価値は絶対的なものではない。
 その理由をいろいろと推測していたのだが、SF人気を決定づけた今作を読むと合点がいった。
 例えば、ショートショート作家の星新一が小説家を志したのは、今作を読んだからである。星新一作品の軽妙なユーモアの源泉は、この『火星年代記』にあるといっていい。
 SFの略語は「サイエンス・フィクション」といわれるが、今作に雑学知識は必要ない。火星を舞台にしているものの、描いているのは人間性だからである。
 
 
 今作が世に出た1950年、火星については多くを知られておらず、作家の想像力を試す格好の実験場だった。
 現在はそうではない。火星についての情報は多く、それゆえに、人々は想像の翼をはためかせることはできなくなっている。
 だから、今作におけるSFとは「スペース・ファンタジー」の略語と受け止めてよい。
 今作は短編集である。火星を舞台に、人類(という名の米国人)と火星人との喜劇と悲劇に満ちた邂逅と、その後の貪欲な人類の殖民、そして、滅亡が描かれている。
 《未知への遭遇》と《世界の終わり》はファンタジーの鉄板であるが、当時のつたない宇宙知識だからこそ、火星を舞台にしたファンタジーを描くことができたのだ。現在で同じ真似はできないが、今作を読むことはあなたの創造力を刺激するだろう。
 
 さて、僕が読んだのは、1997年に作者が改定したものである。もっとも大きな変更はそれぞれの年代である。初版では、1999年に人類は火星に達しているという設定だったが、作者は現実味がないと、プラス31年足したのである。すなわち、人類が火星人と遭遇したのは2030年としたのだ。
 この禁じ手は、SF代表作としてゆるぎない地位を確立している今作の名声を汚す行為かもしれない。ただ、僕のような新しい読者にとっては、余計な雑念に惑わされることなく物語にひたることができた。この、こだわりのなさが、ブラッドベリという作者の魅力かもしれない。
 
 今作では、まず、火星探索隊の顛末が描かれる。第一次探索隊については火星人の視点から語られる。地球人とは異なる火星人の特質ゆえに、その探索隊は全滅する。
 第二次探索隊の顛末は、今作でもっとも有名なものかもしれない。火星人に会ったというのに、地球から来たと信じてもらえずに、いろんなところをたらい回しにされる探索隊が最終的にたどり着くのはどこか? 星新一がこれを読んでショートショート作家になったのもうなずける面白さだ。
 第三次探索隊は地球人の視点である。すでに、火星人の特徴を知っている読者からすれば「罠だ! どう考えても罠だ!」と思いながらページを読み進めるだろう。
 この第一次から第三次の探検隊は、いずれも全滅してしまうのだが、それぞれ異なる筋書きなのが楽しい(人の死をあっさり書けるのもSFの魅力である)。そして、それでも人類(という名の米国人)は火星に向かうのである。
 こうして、火星に居場所を確保した米国人は、彼ららしい自分勝手な名前を付ける。これは、先住民の文化を抹殺した、現在の米国の地名と同じである。
 はたして、彼らは新たな火星人となるのか。それとも、地球人であることをやめないのか。中盤以降はその葛藤がドラマを生んでいる。火星に移住しながらも、人々は夜空に浮かぶ地球を見ることをやめることができない。
 これは、現在進行中の火星殖民計画が成功して、彼らがどのような行動をとるのか想像する示唆を与えてくれるだろう。もし、彼らはかつての母国が核戦争になったときに、地球に帰ろうとするだろうか。それでも、火星にとどまりつづけるだろうか。
 最後の三章は、それぞれエピローグの形をとっている。かつて、火星人が暮らしていたゴーストタウン、地球人(という名の米国人)が開拓したゴーストタウンを、ピクニックする彼らの寂寥感は、《世界の終わり》を大胆に描くことができるSF(スペース・ファンタジー)ならでは。
 このように、あらすじをまとめるだけでも楽しいファンタジー小説だ。火星を他におきかえても通用する汎用性の高さ(それは、サイエンス・フィクションとしての純度の低さでもある)が、本書にはある。だからこそ、一定の教養をしいるハイカルチャーに代わるサブカルチャーの開拓者として今作はもてはやされたのだ。
 宇宙に興味がない人も、今作を読むことで、未知の世界を想像する喜びを知ることができるはずだ。
 
 あと、今作では地球人といっても、米国人しか出てこない。このことは、特にマイナスではない。日本人の小説も似たり寄ったりだからだ。
 米国人の特徴といえば、特殊な訓練をしていない一般人でも銃の携帯が認められていること。今作で、米国人は火星で不必要に銃をぶっ放す。それは、自分の影におびえて、鏡に向かって銃を撃つ滑稽さがある。ただ、それで鏡が割れるだけと思いきや、実際には生命が絶たれたりするのだから恐ろしい。
 現在、火星移民計画は進行中だが、おそらく米国人主導になるだろう。もし、その計画に乗って、火星に行きたい者は、今作を読むべきだ。銃を持つ米国人のメンタルの弱さがもたらす悲劇を知ることができるだろう。
 
 最後に、やや蛇足だが、僕が興味深かったのは、中国に関するふたつの描写。
 
 ひとつは、監督派の聖職者が、火星人にキリスト教を伝道しようとする場面である。これは、1997年の改訂版に収録された『火の玉』の一部分なので、旧来の『火星年代記』には含まれていない。
 そこで、聖職者がこんなことを言う。
「中国人が信じるキリストは白人か?」
 余談だが、死後キリストと呼ばれることになるナザレのイエスは中東人なので白人ではない。ローマ兵士の落とし子というファンタジーを信じる日本人は多いが、ローマの血をひいているならば、受難物語(イエスが不当な判決で十字架刑を受ける話)で、イエスがぞんざいな扱いをされることはないだろう。福音書でイエスの外見は記されてないのは、つまり、ありふれた中東人だったからである。
 ところで、米国人の中国の伝道が失敗に終わったのは有名な話である。その失敗を日本軍侵略のせいにしたのも有名な話である。米国一般人が、ルーズベルト大統領の対日全面戦争を支持して、原爆を落とすのも辞さなかったのは「もし、日本が侵略しなければ、今頃、中国はキリスト教化していて、米国の良き友人になっていたのに」という幻想があったからだ。戦前の日本一般人も米国を誤解していたが、この幻想による米国人の《正義の鉄槌》史観は、現在でも根強く残っているのだからタチが悪い。
 そんな米国人の中国キリスト教伝道がどのように行われていたのか、僕はくわしく知らない。日本の布教は遠藤周作の小説を通じて知っている。少なくとも、日本ではキリストが日本人でもあるという教えは広められなかったはずだ。ただ、日ユ同祖論という荒唐無稽なファンタジーは、ひょっとすると、そういうところから始まったのかもしれない。
 なお、東アジアでキリスト教布教がもっとも成功したのはピョンヤンである。伊藤博文を暗殺した安重根ピョンヤン近郊出身のキリスト教徒だった。彼は獄中で、看守らに自分を洗礼名の「トーマス」と呼ぶように強制した。その彼が、キリストを朝鮮人と考えていたとは考えられない。
 『火星年代記』の『火の玉』の記述は、米国人の根本的な東アジアへの誤解が感じられる興味深い一節である。
 
 もうひとつが、母星の地球で核戦争が起きたときの、火星殖民の会話である。
「わたしらは中国での戦争のことを聞いた。だが、決してそんなこと信じなかった。なにしろあんまり遠すぎたものな。それに、死のうっていう人の数が、とてつもなく多すぎた、そんなことがあるわけがない。映画を見たときでさえも、信じなかった。な、それとこれとおなじことだね。地球は中国だね。あんまり遠すぎるんで信じられんのだ」
 これもまた、米国人の戦前東アジアの一般的見解であろう。はたして、この映画が何の事件を記録したものであるかは定かではない。戦前日本の中国への侵略が英米の批判を浴びたのは当然だと考えるが、中国内部にそれを許すだけの脆弱さがあったのも事実である。日本の侵略がなくとも、蒋介石は敗れ、毛沢東が勝っていたのではないか。
 しかし、日本の真珠湾奇襲をきっかけに、米国人は《正義の鉄槌》をいとわなくなった。そのおかげで軍事大国の道をひた走ることになったのだから、戦争に疲れた米国人が口には出さないものの、心の底に抱えている「日本が暴走しなければ、我が国は平和だった……」という恨みは受け止めなければならないのだろうか。
 SFを読みながらも、そんな現在の国際情勢を考えてしまう僕であった。