伊坂幸太郎『魔王』感想 (評価・C)

 
警鐘小説としては物足りない失敗作だが、作者の持ち味をいかした野心作ではある。
 

魔王 (講談社文庫)

魔王 (講談社文庫)

 
 ストーリー・テラーとして人気を博した作者が、その持ち味をかなぐり捨てて挑んだ野心作である。
 
 本作のタイトルである『魔王』とは誰か。単純に読めば、未来党党首であり、やがて日本首相となる犬養という男になるだろう。犬養の歯に衣着せぬ物言い、他国に屈しない外交姿勢や経済再生のために命をかけるという公約に、国民は魅了される。
 しかし、主人公はそれに危機感を覚える。第二次世界大戦前のイタリアのムッソリーニが独裁に至るまでの過程と、今の日本は同じではないかと考える。そして、彼は自分の能力で、日本の未来の首相に挑むのだ。
 はたして、この『魔王』は、現在の日本が独裁者を出現させる可能性があることを示唆した警鐘小説だろうか。そうだとすれば、あまりにも物足りない。
 この作品の根底にある「政治不信」とはなにか。主人公は「考えろ、考えろ」を合言葉にしているが、それならば「政治不信」についてもっと考察をするべきではないか。我が国の「政治不信」とは「政治家不信」であり「選挙不信」である。学生時代に、選挙活動のボランティアをした経験のある者ならば、国政の場に立つために、どれほどの労力と金銭が必要であるかがわかるだろう。ところが、我が国の法律は、この両者にきわめて厳しい。世界的にありえないといっていいほど、制限された選挙活動しかできないのだ(だから、選挙カーで騒音を撒き散らしつづけるのだ)。法律で縛りつけておけば、余計なことをしないという日本の政治無関心の国民性ゆえである。
 最近の事例でいえば、史上最多の得票数で当選した猪瀬都知事の辞任問題である。その弁明の見苦しさに、失望した人もいるだろう。だが、それが「本当に悪いこと」であるのならば、他の裏金疑惑を追及すべきではないか。ネット上では、猪瀬元知事以外にも、国会議員が同じ団体から裏金を受け取っていたという情報が洪水のように流れている。それなのに、それをメディアは追及しないし、国民は積極的にそれを求めていない。
 巨悪に挑むために必要なのは、考えることではなく、怒ることである。現代作家で、見事な「勧善懲悪小説」を書き続けている池井戸潤は「怒りの人」である。それゆえに、彼の物語は、誰かが辞任して解決する筋書きではない。正義だって、知性と執念があれば、勝つことを教えてくれる。
 どうも、今作は、そのような執念が感じられない。ただ、それゆえに共感性は高い。登場人物たちは、政治の舞台から遠く離れた市井の人間であり、ゆえに親近感を覚えるだろう。
 この作品の冒頭で、とある列車のシーンが描かれている。もしかすると、作者の実体験かもしれない。老人が立っているのに関わらず、若者は席をゆずろうとしない。ようやく、サラリーマンが降りて、老人が座れると思ったら、隣の若者は姿勢を崩して、二席分を占領する。正義感くすぶる場面である。主人公は、老人に同情するだけではなく、怒りの言葉を発させたい欲求にかられる。すると、老人は主人公が思ったことと同じ言葉を叫んだのだ。若者は、それに驚いて、次の駅で去り、老人は悠々と座る。
 老人に席をゆずらない問題は、現代日本の新たな問題となっている。東アジアの人々が、来日して驚くことの一つとして、この問題をあげることが多い。しかし、鉄道会社は「老人に席をゆずりましょう」と積極的に宣伝しない。それよりも、携帯プレイヤーの音漏れとか、歩きスマホとか、まったく意味のない優先席付近での携帯電話電源オフを重視している。老人に席をゆずることは、最優先事項ではないらしい。ゆえに、若者はこの問題に鈍感になっている。
 さて、この物語では、そんな日常光景の偶然から、主人公が「他者に自分の気持ちを代弁させる」能力を手にしたことから始まる。ファンタジー小説なのだ。主人公はそれを「腹話術」と名づけ、様々な実験を試みる。例えば、上司にいじめられてばかりの同僚に、その怒りを代弁させる。おかげで、上司の同僚を見る目は変わる。職場いじめが常態化していた仕事場に、平穏が戻ったと主人公は喜ぶ。
 しかし、社会を見るとどうか。人々の「政治不信」を打破すべく立ち上がった一人の若き党首に、国民の期待は集まっている。ただ、その主張に、主人公はどうも納得いかない。その理由は深く書かれていない。「なんとなく」である。主人公のまわりの人間は、そんな若き党首を支持するようになる。主人公が「彼はムッソリーニに似てる」といっても、まともにとりあってくれなくなる。
 そんな熱気のためか、とある事件をきっかけにして、在日米国人(或いは米国系日本人)に対する風当たりが強くなる。主人公の知人もその被害に遭う。なぜ、彼のことを何も知らないのに、そんな攻撃をするのか、と主人公は憤る。
 主人公は社会が狂い始めたと思い、その元凶が、未来党の若き党首にあると見る。そのために、彼に観衆を失望させる演説をさせようと、みずからの能力「腹話術」と用いようとする。しかし、その思惑は、とある人物に阻止されて、終わる。
 と、これが中編『魔王』の筋書きである。実は表題作だけではなく、その続編である『呼吸』という中編も収録されているが、それは五年後、首相となった未来党の党首が出てくるものの、さして物語に進展はない。
 『鴨とアヒルのコインロッカー』を読んだ者からすれば、この『魔王』の無謀すぎる展開にあきれてしまう。タネも仕掛けもなく、主人公は「考えろ、考えろ」とつぶやきながら、国民の期待を集める政治家に挑み、無残に散る。それだけの話である。
 はたして、今作が未来を予知しているのか、という点もうかがわしい。今作は2005年に世に出ている。もし、2008年のリーマンショック以降だと、標的は米国ではなく中国になっていたかもしれない。たしかに、2005年には反韓デモが起こると考える人はいなかっただろうが、その感情が国民に蔓延していても、暴動にまでは至っていない。日本人はそんなに単純ではないのだ。
 ただ、この作者の最大の持ち味である、自分の感性への忠実さにしたがって、政治的な側面を抜きにして、政治を描こうとした動機は痛いほどわかる。それゆえに、今作に共感する読者も少なくはないだろう。
 ただ、現実問題として、政治家の肉声が我々には直に届くことは少ない。そのシステムの批判抜きにして語る政治談議は、やはり薄っぺらいと思うのだ。一つの失言で大騒ぎして、それまでの功績を台無しにするメディアがあふれるこの日本で。
 本気で世の中を変えなければ、考えるだけではなく怒り続けなければならない。ただ、怒ることにはエネルギーがいる。たいていの人は、誰かを叩いて、その怒りを発散すれば満足するだけだ。それでは「政治家は悪い」という短絡的な思考から脱出できないのだが、そのような人を満たすために、このような作品は必要であるのかもしれない。
 僕はどちらかというと「深く潜る」タイプだ。現代の政治家に憤るよりも、過去の歴史から「なぜ、自分がもどかしいか」を探る。歴史とは「人を導く者たち」の連なりであり、その苦悩は古来から続いているものだ。中国の古典でも、旧約聖書からでも「いかにして人を導いたか」のヒントはある。そこから僕が感じるのは「怒る人」でも「冷めた人」でもなく、「静かに怒り続ける人」が人々の上に立つということだ。
 さて、今作の文庫版にはあとがきがある。そこで、作者は、今作の続編として『モダンタイムズ』という長編の宣伝をしている。はたして、この『魔王』が実験作として成功したかどうかは、その長編を読まなければならないだろうが、今作単体で見るならば、明らかに失敗作である。
 ただ、それは、共感性の高い物語で人気を博した作者が、政治に目を向けると書かざるをえなかった作品ではある。その失敗ゆえに、読者は社会を見る目を改めるきっかけになるかもしれない。失敗作ゆえに、今作には価値があると見る。