キューバ革命の英雄、ファン・アルメイダの死
・http://www.cnn.co.jp/world/CNN200909130013.html
キューバ革命におけるゲリラ戦で重要な役割を果たした、ファン・アルメイダ(Juan Almeida Bosque)が死去した。享年82歳。
彼は黒人で、フィデル・カストロ(兄)のハバナ大学時代の学友であった。1956年から始まったゲリラ戦では司令官の一人として活躍した。革命政権樹立以降も、重鎮の一人として要職を任された。
キューバの人種の割合は、白人25%、黒人25%、混血・その他50%と言われる。黒人であった彼が革命政府のトップの一人であることは、キューバの平等主義の象徴になった。
社会主義国家であるキューバの平等主義には批判が多いが、世界でまれに見る、人種差別・性差別のない国家であることを否定するものはいない。
そんなアルメイダの功績を語る前に、まず、キューバ革命について簡単に振り返ってみよう。
1959年、ゲリラ部隊を率いて革命に成功したフィデル・カストロ(兄)の目に映るキューバは、三分の二以上の土地を外国資本に支配された半植民地国家であった。
キューバ国民に富の再分配をするべく、カストロ兄は農地改革と企業国有化を断行。それは、キューバで多額の富を得ていた米国に大きな損害を与えた。
1961年、米国政府はブラヤ・ヒロン侵攻作戦で、カストロ政権の転覆をはかるが失敗(ピッグス湾事件)。
その卑劣さに激怒したカストロ兄は、キューバを社会主義国家であると宣言し、ソ連との関係を強化する。
そして、1962年、米国の侵略に対抗すべく、キューバに核ミサイルを持ち込もうとし、それがミサイル危機、いわゆるキューバ危機をもたらした。
50年近く、権力の座にあり続けていたカストロ兄だが、テロリズムとは無縁であった。
カミーロ・シエンフエゴスの事故死や、J・F・ケネディ暗殺を、カストロ兄の仕業と見る人は多いが、その決定的証拠はない。
カミーロの兄は、弟の死後もキューバ政府の要職をつとめていたし、ケネディ暗殺の当日、カストロはケネディの意をくんだジャーナリストと面会し、米国との関係改善をはかっていた。
他の独裁者とカストロ兄が異なることは、内部粛清がなかったことである。
1956年12月、彼の率いるゲリラ部隊は十数人にまで減少した。そのメンバーのほとんどは、革命後に政府要職をつとめることになる。カストロ弟、ファン・アルメイダ、カミーロ・シエンフエゴス、ラミロ・バルデス、そして、チェ・ゲバラ。
革命後、社会主義政策をとったカストロ政権に反発し、米国に亡命したキューバ人は後をたたなかったが、血なまぐさい事件は少なかった。
よく、キューバ革命を語るとき、共産化に反対した司令官のひとり、ウーベル・マトスが話題にのぼるが、彼はゲリラ部隊での古参ではなく、輸送以外に目ざましい活躍をしたわけでもなかった。
例えば、北朝鮮の金日成が、同じ反日パルチザンの同志を次々と粛清したのに比べれば、カストロ兄との器量の違いがわかるであろう。
さて、先日、死去したアルメイダについてである。
ゲバラの書いた「革命戦争回顧録」、それを元に僕がAA物語にした「やる夫・チェ・ゲバラが革命を起こすようです」を読めば、アルメイダがゲリラ部隊で重責を任されていたことがわかるだろう。
1956年12月、亡命先のメキシコからキューバに上陸したゲリラ部隊は、たちまち政府軍の奇襲にあい、十数人にまで激減してしまう。
そのとき、軍医だったゲバラは死を覚悟したが、アルメイダの言葉で正気に戻り、その肩を借りて、戦線を離脱する。ゲバラにとって、アルメイダは命の恩人なのだ。
フィデル・カストロ率いるゲリラ部隊は、階級が「少佐」「大尉」「中尉」の三つしかなかった。そのため「少佐(コマンダンテ)」は、今のキューバでは「司令官」という意味で使われることが多い。
十数人になったゲリラ部隊で、司令官(少佐)はカストロ兄ひとり、大尉はアルメイダとラウル・カストロ(弟)しかいなかった。
それから、ゲリラ部隊が支配地域を確立するまでのもっとも厳しい数ヶ月、アルメイダは別働隊を任されるなど、軍事的ナンバー2として活躍する。
当時、ゲバラは軍医にすぎず、重要な会合に参加できる立場ではなかった。
しかし、アルメイダは早くからゲバラの才能を買っていたようである。
例えば、エウティミオ・ゲラの裏切りで全滅の危機をむかえたとき、アルメイダは切り込み隊長カミーロと、軍医ゲバラから意見をうかがい、ゲバラの助言を採用している。
そして、1957年のエル・ウベロの戦いで、アルメイダは小隊を指揮し、その果敢な突撃により勝利をもたらした。だが、その戦いでアルメイダは重傷を負う。
そのアルメイダたち負傷兵を介護し、空襲の中、一ヶ月にわたる隠密行動の末、本隊との合流に導いたのが、ゲバラであった。
このとき、大尉であったアルメイダは、ゲバラに隊の指揮を一任している。そして、彼の指揮官としての器量をみずからの目で見たうえで、カストロ兄に、ゲバラを司令官とするべく助言したと考えられる。
こうして、1957年7月、ゲバラは司令官として別部隊を任されることになった。アルゼンチン人であったゲバラが、キューバ革命軍のナンバー2に選ばれた瞬間である。
なお、負傷が癒えたあとのアルメイダも、ラウル・カストロ(弟)とともに、司令官になっている。
そんなゲバラとアルメイダの関係を物語るエピソードがある。
1958年1月の第二次ピノ・デル・アグアの戦いで、ゲバラ部隊は、前衛隊長カミーロが負傷するなど苦戦をしいられた。
カストロ兄は、ゲバラ部隊に撤退するようにを示唆するが、ゲバラはかたくなに拒否する。冷静な司令官として知られるゲバラが、カストロ兄に反対するのは、この戦いが唯一といっていい。
そんなゲバラの説得に訪れたのが、アルメイダだった。強硬姿勢だったゲバラも、アルメイダの言葉には軟化し、撤退を決意した。
ゲバラやカミーロの華々しい戦果に比べて、カストロ弟とともに東部方面の戦線を指揮したアルメイダには、具体的な戦功は乏しい。
カストロ弟は、兄と違って、当初から共産主義者であり、国外にも人脈があった。どちらかといえば、政治家タイプで、軍事的才能は優秀ではなかったと思われる。アルメイダは、そんなカストロ弟を補佐する役目を果たしていたのだ。
キューバ革命が成功したあとでも、アルメイダは革命大臣となったカストロ弟の補佐役という印象が強い。
おそらく、アルメイダはマルクス主義者になりきれなかったのではないか。カストロ兄は学友としてのアルメイダを信頼していたものの、独裁国家にありがちな汚れ仕事は、アルメイダに任せていない。
革命政権で、秘密警察を任されたのは、ラミロ・バルデスだった。彼のカストロ兄への絶対的忠誠は、ゲバラ部隊の副官を任されたことでも明らかだ。革命後、ラミロは内務大臣として、カストロ弟とともに、革命の闇の部分、つまり諜報を司ることになる。
アルメイダは音楽の才能があったらしく、数百曲をのこしたという。
ゲバラとともに、彼も革命戦争回顧録を記したが、日本語訳は出ていない。思想色が少ないためであろう。
ファン・アルメイダはそんな知的な黒人でありながらも、最後まで全国評議会副議長の一人であり続けていた。
彼の目には、平等を実現しながらも、豊かさは保障できなかったキューバの現状は、どう映っただろう。