二次創作と著作権と文化の創造

 
 先日、ときめきメモリアル同人アニメ裁判について記事にしたところ、多くのサイトに紹介されたようだ。
 
 その記事では、「ときめきメモリアル」を題材とした「成人同人アニメ」を有償で配布したサークルに対して、版権元のコナミが起訴した裁判を記している。
 
 この【「ときめきメモリアル」無断改変事件B】は1999年8月30日に判決が下された。再度、その一部を引用する。
 

同一性保持権侵害について
(中略)
 藤崎詩織(註 ときメモのヒロイン)は、優等生的で、清純な、さわやかな印象を与える性格付けがされている。
(中略)
 被告は、本件ビデオにおいて、本件藤崎の図柄を、性行為を行う姿に改変しているというべきであり、原告の有する、本件藤崎の図柄に係る同一性保持権を侵害している。
 なお、被告は、同人文化の一環としての創作活動であり、著作権法違反は成立しないと主張するが、採用の限りでない

 
 その判決で、被告であるサークル「赤紙堂」代表者が支払うべき賠償額は、227万5000円とされた。
 それは利益の27万5000円に、無形損害額が200万円加算されたものである。
 
 
 この判例からわかるように、もし、権利者に裁判で訴えられたら、二次創作の作者は確実に賠償金を支払う判決が下されるだろう。
 
 しかし、この事例から、二次創作=犯罪の可能性があると、とらえるのは間違っている。
 二次創作が文化の発展に寄与したのは、まぎれもない事実だからだ
 
 まずは、スピード違反と二次創作を比較するところから始めてみよう。
 
 

(1)スピード違反と二次創作

 
 交通法規で定められた制限速度を守り続けている人は、皆無といっていいだろう。
 なぜならば、制限速度を守る運転は交通のさまたげになるケースが多いからだ。車間距離を取り、天候や時間に応じたペースを保ち続ければ、交通事故を起こす可能性は、限りなく少なくなる。
 
 しかし、どんな見晴らしのいい道路でも、いくら自分のペースを守った運転でも、制限速度を10キロ以上オーバーしていたことが明らかになれば、罰金を科せられることになる。
 
 なぜ、制限速度が設けられているのかといえば、それをもとに道路整備がなされているからだ。30キロの道には、見通しが悪かったり、歩道がなかったりと、しかるべき理由がある。
 いわば、制限速度は、その道路がどのような環境であるかを運転手に伝える目安なのだ。
 
 個人的に、スピード違反の取締には理不尽なものが多いと思う。事故多発の前例がある地点を重点に取り締まるのは結構だが、何の変哲のない道路で、捕まえやすいから、とスピード違反を見張っているのは勘弁してほしい。
 
 そんな理不尽な取締のおかげで、我々はスピード違反をすることに良心の呵責を抱かなくなり、捕まった人に「運が悪かったな」と同情するのである。
 
 それでも、制限速度が必要であることに異を唱えるものはいないだろう。
 もし、そのような交通法規がなければ、交通事故は増え、他人のみならず自分に被害をもたらすからである。
 事故による被害を及ぼさないために、交通法規は整備され、その違反者を罰する法律ができているのだ。
 
 
 さて、二次創作の場合、それに被害を受けるのは、誰であろうか。
 それは、キャラクターの版権を保有する権利者だけである。
 権利者でもないのに、版権キャラを利用した作品をつくり、それで利益を得る行為が、ビジネスの妨げになるということで、著作権侵害を訴える権利が与えられているのだ。
 
 このために、著作権法親告罪である。
 第三者がいかに指摘しようが、権利者が訴えないかぎり裁判となることはない。
 あくまでも、著作権はビジネスの問題であり、モラルの問題ではない。
 だから、それぞれの権利者のガイドラインに沿った二次創作を作れば問題視されることはないのだ。
 
 そのガイドラインは千差万別である。
 例えば、ディズニー社は著作権に対して厳しいことで知られる。
 ディズニーのキャラの映る写真はもちろんのこと、そのイラストですらも、ネットで公開することは、きわめて危険な行為だと受け止められている。
 
 親告罪であるがゆえに、それぞれの企業が二次創作をどこまで容認しているかを知る必要があるのだ。
 二次創作の違法性とは、スピード違反と違って、ケースバイケースなのだ。
 
 
 さて、同人誌即売会のひとつ、コミックマーケットは日本最大のイベントとなり、ニコニコ動画のランキングはパロディ作品にあふれている。
 そのユーザは、どれだけ「二次創作が著作権侵害と訴えられるリスク」を理解しているのだろうか。
 
 前述した「ときめきメモリアル同人ビデオ判決」からわかるように「同人文化の一環としての創作活動であり、著作権法違反は成立しない」という主張は、裁判所では通用しない。
 
 では、二次創作は悪なのか、といえば、僕は文化の形成過程から、それを否定する。
 そもそも、芸術の多くは模倣から始まったものだからだ。
 
 

(2)シェイクスピアと「ルパンVSホームズ」

 
 イギリスを代表する劇作家であるシェイクスピアは、数多くの作品をのこした。
 「ロミオとジュリエット」「ハムレット」「リア王」など、その劇作品は現在でも繰り返し上演され、多くの人を楽しませている。
 それらの作品に、すべて元ネタがあることを知っているだろうか。
 
 くわしくは、Wikipediaを参考にしてもらいたいが、「ロミオとジュリエット」という若いカップルの悲劇の物語は、シェイクスピア以前に作られたものだ。シェイクスピアは、その物語を脚色して台本としたにすぎない。
 
「ロミオとジュリエット」物語成立と変遷 -Wikipedia
 
 このように、芸術作品の多くは、独創のキャラクターにもとづき作られたわけではないのである。
 
 
 しかし、キャラクターを第三者が活用し、物語に織り込むことを許さない風潮が、20世紀初頭から生まれてくる。
 例えば「ルパンVSホームズ」
 これは、ルパン・シリーズの作者であるモーリス・ルブランが、怪盗ルパンと探偵ホームズとの対決を描こうとしたものだが、ホームズ・シリーズの作者であるコナン・ドイルは、ルブランにホームズを出演させることに厳重な抗議をした。
 ゆえに、ルブランはホームズをショルメという名に変えて「ルパンVSショルメ」として刊行したのである。
 
 なお、日本では当初からこの作品を、「ルパンVSホームズ」として販売していた。
 極東の日本では、コナン・ドイルに抗議される心配がなく、そう改名したほうが売上を期待できたからである。
 
 原作者の著作権は、販売戦略のために、しばしば侵害されてきた。
 そんな著作権が今のように確立されたのは、20世紀後半以降の話なのだ。
 
 

(4)大衆音楽における著作権と、1996年の日本バッシング

 
 洋楽にくわしい人ならば、60年代の音楽作品における著作権が、いかにいい加減なものだったことを知っているだろう。
 例えば、ローリング・ストーンズレッド・ツェッペリンは、作者不明の伝承曲をも、みずからの作詞作曲とクレジットして発表していた。
 そのようなことが許される時代であったのだ。
 
 大衆音楽の著作権を語る上で欠かせないミュージシャンが、ボブ・ディランであろう。
 彼は当時としては画期的な「楽譜を著作権登録する」という行為をおこなった。
 
 それまで、米英の大衆音楽では歌詞は軽視されていた。レコード・ジャケットに歌詞が表記されることはなく、それぞれのミュージシャンなりに歌詞はアレンジされて歌われた。
 ところが、ボブ・ディランは、歌詞を含めた楽譜を著作権登録した。このことにより、その曲の歌詞が明確に著作物となったのである。
 
 ただ、ボブ・ディランは、本質的には吟遊詩人だったので、著作権登録したあとでも、しばしば、みずからの曲の歌詞を変化させた。
 著作権登録からレコーディングまでの期間に、歌詞が激変することは、ディランにとって日常茶飯事だったのだ。
 
 そのために、初期のボブ・ディランの歌詞カードには、実際に歌われているものと異なる歌詞が書かれている。
 なぜならば、それが、著作権登録した歌詞であり、いくらディラン本人がレコードで別のフレーズを使っていようが、変えることは許されないからだ。
 
 1962年にデビューしたビートルズの台頭とともに大衆音楽は巨大ビジネスへと進化した。そして、それとともに、その利権を守るための「著作権」というビジネスもまた、確立されていくのである。
 
 
 さて、1996年、日本は欧米諸国から「著作権侵害国家」と声高に批判されていたことをご存じだろうか。
 
 当時、日本では著作隣接権の保護期間を25年としていた。そのため、50年代に活躍したエルヴィス・プレスリーや、60年代のビートルズのレコードを、安価で販売することができたのだ。
 
 それを、欧米は「国際慣習に反している」として、日本政府に著作権法の改正を求めた。
 このとき、「日本は経済的には先進国だが、著作権では未開国」と激しく罵倒されたものである。
 
 それは、文化保護という名目のもとに、著作権をビジネスとして、国家産業とするための欧米諸国の戦略であったのだ。
 
 なぜ、20世紀後半に、著作権が幅をきかせるようになったのか。
 それは、技術の発展が原因のひとつだろう。作品の複製が容易になったことから、法律による規制がなければ、創作者に利益をもたらすことができないと考えられるようになったからだ。
 
 ただ、この著作権法は、ディズニーのような政治力の会社が利権を生むために、何度もねじ曲げられている。
 多くの法律がそうだが、著作権法は正義を司るために作られたものではないのだ。
 
 

(5)AMVとMAD

 
 自文化に対する著作権の締め付けが厳しくなってきた米国とEUの在野クリエイターにより発展したのが、アニメーション・ミュージック・ビデオ(AMV)である。
 Wikipediaによれば、1990年頃にAMVは日本アニメをもとにするという決まりごとが生まれたようだ。
 それは、日本アニメが素材として優れていたからという理由よりも、著作権侵害で訴えられるリスクがなかったためである。
 
 Youtubeが開始された2005年以降、AMVは積極的にアップロードされ、日本のアニメファンにも知られるようになった。
 
 特に、有名なのが、2007年に発表された「Skittles」というAMVであろう。
 

 
 アニメ作品「涼宮ハルヒの憂鬱」を素材として、Heartsdales feat.SOUL'd OUTの楽曲「CANDY POP」に合わせたこのAMVは、日本アニメファンにも高い評価を得た。
 
 この動画は何度も権利者削除されたものの、他者によるアップロードが後をたたず、版権元はこれらAMVとの共存を模索せざるをえないようになった。
 
 
 そして、これが日本のMAD文化にも多大な影響を及ぼした。
 もともと、音声をつなげて面白おかしな内容にする「MADニュース」など、意外性を楽しむことが中心だったMADにおいて、作家性を追求したクオリティの高い映像の魅力を、海外製AMVは知らしめたのである。
 
 特に、その後に放映された「らき☆すた」に関しては、それぞれのキャラクター・ソングのPVが、MAD作品として作られた。
 やがて、版権元はそれらの優れた作品を「公認」するようになる。
 
 
 海外発祥のAMVは「日本アニメは著作権侵害で訴えられる心配がないから」という、不届きな理由で発展してきた。
 しかし、その中から、日本人クリエイターを刺激するほどの創造性が生まれたのだ。
 
 もし、90年代に、日本がアニメ文化の著作権を強硬に主張していたならば、AMVはすたれ、日本のMAD文化の方向性も別の形をとっていたかもしれない。
 
 

(6)既存のキャラに頼ったアマチュア創作の是非

 
 くりかえすが、権利者の許可を得ない版権キャラによる二次創作は、著作権侵害として訴えられる可能性がある。
 いかなる弁論を駆使しようと、その結果、賠償を支払う判決が下されることは、ほぼ間違いないといっていいだろう。
 
 このようなリスクがあるにも関わらず、次々に二次創作がつくられるのは以下のような理由だろう。
 
 
(1)既存キャラを用いることの手軽さ
 
 すでに知られているキャラクターを利用しているのだから、その説明をする必要がない。
 オリジナル創作だと、冒頭部の登場人物紹介だけでも手間がかかるが、二次創作では本筋だけを作ればいいのだ。
 「作りたい部分だけを作る」ことが許されるのが、二次創作である。
 
 
(2)他作品との比較がしやすい
 
 例えば「けいおん!」の二次創作として分類すれば、それぞれの二次創作を手軽に比較することができる。
 個々の同人作家が、原作をどのように受け止め、どう発展させるのかを楽しむことができる。
 
 これは二次創作だけではなく、「初音ミク」などのボーカロイド曲にもいえることだろう。
 その中には、有名歌手のコンベンションで採用外となった、プロによる楽曲も含まれているが、ほとんどがアマチュア作品である。
 それら、様々な多様性を持つ才能を、「初音ミク」作品として、抵抗なく聞き比べることができるのは、新たな音楽の楽しみ方をもたらすことになった。
 
 
(3)素材をイチから作らなくてすむ
 
 キャラを創造するのは難しいが、すでに受け入れられているキャラを動かすのは簡単なことだ。
 さらに、動画作品でしか許されないことだが、原作を素材としてパロディ作品としてつくることが許される。
 アニメ作品には、多人数による制作チームが必須だが、パロディ動画ならば、個人でも作ることができる。
 素材を流用することで、映像の新たな表現手法を、誰もが追求できるのだ。
 
 
 もちろん、二次創作には様々な弊害がある。
 
(1)原作ファンでしかわからない設定の多用
 
 説明せずとも、キャラの物語を表現することができるため、予備知識がなければ楽しめない作品になることがほとんどである。
 二次創作のほとんどは、ファンに向けての内輪向け内容に陥ることがほとんどであり、そこには新たな発展性はない。
 
 
(2)キャラクターの再利用にともなう類型化
 
 様々な同人作家による二次創作の派生により、それぞれのキャラの特異性がうすめられることが多い。
 例えば「涼宮ハルヒ」というキャラを「ツンデレ」という形式に記号化し、その範囲内で物語を構築するような行為は、その原作の個性を奪ってしまうことにつながる。
 それらの類型化は「万人受けする」キャラクターを作ることはできても、そこから新しい物語を構築することはできないだろう。
 
 
(3)見た目だけが立派な作品の横行
 
 既存のキャラの見栄えさえ良ければ人気になるために、原作を真似ただけの作家の個性がない作品が多い。
 さらに、同人漫画の場合、30ページ未満の作品がほとんどだから、そのストーリーはパターン化されている。
 結果として、キャラクタを替えただけで中身のない作品が目立つようになる。
 二次創作で一定の評価を得るためには、みずからの個性を喪失したほうが得策なのだ。
 そのような作家に、新たな進歩は期待できないだろう。
 
 
 これらの欠点があるものの、二次創作がクリエイティブなものではないと断言することはできない。
 
 そもそも、漫画を原作としてアニメの脚本だって、二次創作と同じようなものだ。
 そこにあるのは、権利者の許可を得たかどうかという、法的な違いしかない。
 
 文化という観点で考えるならば、そのような違法性は取るに足らない問題である。
 むしろ、社会的立場が確立されていないアマチュアにより、商業作品に匹敵するクオリティが量産されるのならば、そのコンテンツの価格を見直さなければならないだろう。
 それらを著作権侵害としてしらみつぶしに訴えるのは、若い才能の芽を摘むことにもなりかねない。
 
 
 多くの二次創作は「ファンだけにはわかる」という、原作の感想文にすぎないが、その中には、原作をさらに発展させた、作家性のある二次創作もある。
 それは、シェイクスピアが「ロミオとジュリエット」という、よく知られる逸話をもとに劇作品として書いたのと同じように。
 
 

(7)著作権侵害は「営業妨害」でなければ訴えられない

 
 今では、作品をただ受け止めるだけではなく、ファンによる二次創作を知ることが、コンテンツの楽しみ方となっている。
 
 しかし、新たなコンテンツ制作はビジネスなしにはなりたたない。もし、有名作品の続編が、同人作品の中から生まれ、それが原作に影響を与えたのならば、営業妨害として取り締まらなければならないと考えるのが妥当だ。
 
 その例の一つが、ドラえもん最終回同人誌問題だろう。
 その同人誌への原作者への問い合わせが多くなるなどの風評被害により、権利者は同人作家を訴えることにしたのだ。
 
 そんな同人問題の引き金となった契機は、ほぼ、雑誌の記事がもとになっている。
 雑誌への掲載は、それが一般的に認知されたことを意味する証拠となるからだ。
 
 だから、同人作家は、軽はずみな一般誌への露出は慎むべきである。
 また、雑誌の記事を書くライターは、二次創作が著作権侵害であるというリスクを知らなければならない。一般誌で個々の同人作品を紹介するなど、もってのほかである。
 
 いくら、コミックマーケットが日本最大のイベントとなったとはいえ、二次創作は大っぴらに著作権を主張してはならない分野なのである。同人即売会や、委託販売という名目があってこそ、許される文化なのだ。
 
 既存のキャラに頼った作品で巨額の富を得ている者には、権利者には快く映らないものだろう。
 それは、作品を無断アップロードと同じく、営業妨害であり、著作権侵害として権利者が訴える動機になる。
 
 もし、著作権侵害として裁判所に訴えられたら、二次創作に勝ち目はない。いくら、同人文化の素晴らしさを主張しようが、裁判所にそんな理屈は通じない。
 「ときメモ同人アニメ事件」はそれを知る上で、忘れてはならない裁判だと思う。
 だから、権利者に強硬姿勢で望んではならない。企業とて、負担のかかる裁判はやりたくないのが本音なのだ。
 
 
 しかし、そもそも、人間の芸術の歴史は、ほとんど二次創作から生まれたのだ。
 かつては聖書などの宗教文化をもとにして。それから、数多くの有名作品をベースにして。
 すべての創作行為は模倣から始まった、といっていい。
 
 また、一つのキャラの発明が、富を生み続けるという利権は、文化の発展という観点からすれば、問題視すべきである。
 かつて、画家が貧乏な境遇でも、筆を取りつづけたように、表現者が一つの成功作で生活が保障されるという風潮は、新たな文化を阻害するだけだと思う。
 
 
 著作権を語るとき、多くの人は「モラル」を話題にする。
 しかし、今のような著作権が定着したのは、20世紀後半以降であり、人類の文化の歴史からすれば、ごくごく最近の話である。
 
 あくまで権利者の「営業妨害」になるか否か。
 二次創作にたずさわる者は、そのことを念頭に置いて、創作活動に励めばいいと考えている。