人生経験は作品の質には関係ない - 藤子Fのエピソードから
モテる男よりモテない男のほうが、女性を魅力的に描くことができる、というのが真理だと思う。
リアリティを追求して、女性の生々しさを描いたところで、魅力的な女性像とはならない。
女性を抱くことに思い煩うよりも、女性への幻想を失わない方が、面白い作品が書けることがある。
面白い作品を書くために、人生経験は不可欠ではない。
肉親の死に対して、誰もが客観的描写をすることができないのと同様に。
戦争の悲惨さを体験した人が、その残酷さから口を閉ざすのと同様に。
ただの経験談では満足できないから、人々はフィクションを求めるのだ。
そんなことを、藤子不二雄の一人、藤本弘は言っている。
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
(中略)
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
しかし、退屈で鬱積した人生を送ってきた漫画家は違う。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。 漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
ここから可能性は無限に広がるのです。私はそういう人が描いた漫画を支持したい。
卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。
この発言は明確なソースがないためにガセネタだとされるが、オタク擁護論ではないし、藤本らしい発言だと思う。
(うっかりすれば、「まんが道」というライフワークに取り組んでいる、相棒の我孫子批判と感じるかもしれないけど)
創作活動とは孤独な作業である。
どれだけ女性を上手に口説く人も、それをそのまま文章に写しただけで、ベストセラーになるとは限らない。
例えば、藤本(藤子F)と我孫子(藤子A)という、コンビの作品から、ヒロインの呼び方を比較してみる。
藤本作品は、なぜか「さん付け」がほとんどである。
「のび太さん」(源静香)「みつ夫さん」(星野スミレ)「高畑さん」(エスパー魔美)「内木さん」(チンプイのエリちゃん)といったふうに。
逆に、我孫子作品では、「魔太郎がくる!!」の場合だと、主人公の魔太郎が、ヒロインを「由紀子さん」と呼んでいる。
リアリティがあるのは、我孫子作品のほうだ。「魔太郎」の由紀子さんは、主人公の味方ではあるけれど、ピンチのときは見捨てることがおおい。
逆に、藤本作品のヒロインたちは、どんなときでも、主人公の少年を見放さないのである。
「さん付け」されて、そこまで世話を焼いてくれる異性の同級生なんて、この世界に存在するのだろうか、と首をかしげてしまうぐらいリアリティが乏しい。
だが、かたくなに「さん付け」に固執して、みずからの憧れを反映したからこそ、多くの人に愛された藤子ワールドが生まれたのだ。
オタクが批判される理由は、「漫画ばかり読んでいる」せいではないと思う。
はっきりいって、今の大人なんて、ロクに小説を読んでいない。谷崎潤一郎はおろか、源氏物語の内容すら知らないのに、偉そうに「漫画ばかり読むな」と説教する大人が実に多いこと。
むしろ、そんなハッタリに怖気ついているのが、オタクと呼ばれる人たちの悪いところではないか。
今の世の中、共感したり納得したりする文章は、ネットのいたるところにあふれている。
それを読んで満足して、借り物の言葉でしゃべりつづけている人があまりにも多い。
そして、彼らは声の大きなものに、もっともらしいものに、すぐひかれてしまう。
その自分の意志のなさが批判されていることに気づくべきだ。
劣等感を持っているのは人間として当たり前のことである。
もし、何かを創作しようとするのならば、その劣等感をごまかしてはいけない。
自分の理想とする女性を描ききろうとするのならば、他人の批評を気にする必要はないのである。
そのようなことを、藤本は若い世代に求めたくて、上記の発言をしたのだと思う。
はっきりいって、他人がうらやむ人生経験なんて、金があればいくらでもできる。
いくら女性にモテなかった人も、金さえあれば、キャバクラでいくらでも話をすることができる。
だが、それで人々の心を揺さぶる作品を生み出すことはできないのだ。
文学上の作品にだって、人生経験うんぬんを抜きにして、優れた作品は多い。
「赤毛のアン」の作者は、カナダの小さな島の郵便局の事務員という立場で、世界的ベストセラーを書いた。そのときの彼女は未婚であり、処女であった。
「嵐が丘」の作者にいたっては、教師を半年でやめたほかに、まともな職歴がない。ほとんど引きこもり状態で30年の生涯を送ったのに関わらず、英文学の歴史的名作を生み出すことができたわけである。
つまり、男を知らない腐女子にだって、歴史上に名をのこす作品が作れる可能性はいくらでもあるのだ。
ただし、「赤毛のアン」も「嵐が丘」も、原稿を書き終えて以降、なかなか陽の目を浴びることはなかった。
その点、有力者と恋仲にあるような、したたかな女性のほうが、はるかに有利である。それは作品の質とはまったく関係ないのだけれど。
もちろん、同好の士となれ合っているばかりでは、作品を生み出すことはできない。
藤本の場合、我孫子に出会ったあと、お互いを尊敬し、生涯にわたってパートナーとしてあり続けていた。
「まんが道」では我孫子の視点で、何度も友情を裏切るようなことをしたと書かれている。しかし、二人はプロになってもコンビであり続けていた。
出版社は、早くから、二人の感性の違いに見抜き、別々に原稿を依頼していたのだが、 それでもコンビを解消することはなかったのだ。
決して、二人は特別な少年ではない。二人でともにやってきて、ひたすら道を歩んだからこそ、漫画界の巨人になることができたのだ。
劣等感があるから、架空の物語に思いをよせることができる。
ただ、そんな自分の憧れを形にすることは、みずからの劣等感と向き合わなければならない。
その劣等感をごまかそうとせず、むしろ、それを武器にするぐらいの、精神的強さがなければ、自分だけの作品は生み出せない。
他人のもっともらしい言葉を借りたところで、それが赤の他人の魂をゆさぶることはない。
藤子不二雄作品のほとんどの主人公は、いかさない少年である。成績ダメ、運動ダメ、ただ人前に正義感だけは持っている。
そんな主人公だからこそ、多くの子どもたちに支持されたのだ。
みずからの人生経験の無さを嘆く必要はない。憧れを形にする上での最低限のリアリティなんて「取材」とわりきってしまえばいい。
そうして、自分でコツコツと磨いていけば、いつかそれは、誰かに認められる日がくる。
転校した学校で、誰にも話しかけることができず、ノートに落書きをしていた我孫子に、藤本がしどろもどろになりながらも声をかけたように。
どんなに不安でも、ひとつのものに打ちこめば、いずれ道は開けるはずだと思う。
人並の人生経験なんて、その後でやればいい。
そりゃ、コミュ能力があったほうが、世間では認められやすいかもしれないけど、そんな人が優れた作品を残せるわけじゃないしね。