マイケル・ジャクソンの「天才性」を分析する

 
 
 「天才」に打ちのめされた経験のない人は不幸なことだ。
 
 例えば、漫画家藤子不二雄の二人。
 デビューして、彼らは手塚治虫石森章太郎の「天才」ぶりに打ちのめされた。
 その「天才」が一人で描く原稿のスピードは、藤子不二雄二人が一緒になっても倍近くの差がついたからだ。
 
 とはいえ、彼らが漫画家であることをあきらめたわけではない。
 彼らには、コンビを組んでいるという強みがあった。
 彼らは自分の才能の信じ、手塚や石森という「天才」にペースを乱すことなく、漫画を発表し続けた。
 
 一方で、藤子A我孫子)は、コンビを組んでいた藤子F(藤本)のことを「天才だった」と公言している。
 僕は藤子Fのセンスが大好きだ。特にモジャ公。その作品の連載後期のブラックユーモアは、藤子Fにしか出せない面白さにあふれている。
 しかし、藤子Aの筆まめな性格も、それに劣らぬ多くのものを生み出した。彼の詳細な日記があってこそ、まんが道という一大傑作がもたらされたのである。
 
 「天才」とはいえ、完全無欠なスーパースターではない。
 「天才」と呼ばれる人たちは、それぞれの生き方で、その「天才性」を維持してきたのだ。
 
 
 今回は、マイケル・ジャクソンを例にとり、その「天才性」を分析してみよう。
 
※最近、話題になっているマイケルの「他殺」については、別記事で書いています。
マイケル・ジャクソンは殺されたのか? −過失致死容疑をめぐるニュース
 
【目次】
・先天的な才能
・明確なヴィジョン
・機が熟するまで待つ勇気
・うぬぼれない謙虚さ
・「天才」に打ちのめされることは不幸なことではない。
 
 


◆先天的な才能

 
 

Jackson 5 - I want you Back (1970)
http://www.youtube.com/watch?v=aQKDOtlRFWQ
 
 マイケル・ジャクソンは、ジャクソン兄弟5人による「ジャクソン5」のリード・ボーカルとしてデビューを果たした。1989年11月のことである。
 そのデビューシングル「I want you back/帰ってほしいの」は、全米チャート一位を獲得した。
 当時、マイケルは11歳であった。これは最年少記録としてギネスブックに登録されているらしい。
 
 そんなマイケルの天才少年ぶりが関係者に認められたのは、デビュー一年前のオーディションである。
 そのパフォーマンスがレコード会社モータウンの社長に認められ、ジャクソン兄弟はデビューすることができたのだ。
 
 そのオーディションの映像がこれである。
 
 

Michael Jackson -I Got The Feelin (1968)
http://www.youtube.com/watch?v=Ux3joe0GdTA
 
 曲はジェームス・ブラウンのカバー。
 子供ばなれしたマイケルのダンスとシャウトは後に通じる才能にあふれている。
 しかし、この映像を最後まで辛抱強く見る人は少ないかもしれない。
 過度な期待を抱いていた人には、退屈に映ることだろう。
 
 では、彼がカバーした、ジェームス・ブラウン本人の映像。
 
 

James Brown - I Got the Feeling (1969)
http://www.youtube.com/watch?v=21yFiTOTDt0
 
 いくら、オーディションテープの画質や音質が悪いとはいえ、ジェームス・ブラウンと少年マイケルには、明らかな格の違いを感じないだろうか。
 この圧倒的存在感の差は、決して年齢だけが問題ではないだろう。
 
 少年マイケルは素晴らしいセンスの持ち主だが、世間では「ビックリ! ジェームス・ブラウン顔負けのパフォーマンスをする少年」と騒がれるレベルだ。
 このままデビューをしても、全米チャート一位に輝くことはできなかったはずだ。
 
 そのため、マイケルを含むジャクソン兄弟と契約したモータウンは、一年以上のレッスンを課した。
 こうして、少年マイケルは、リトル・ポップ・スターへと成長することができたのだ。
 
 

Jackson 5 - ABC (1970)
http://www.youtube.com/watch?v=MYx3BR2aJA4
 
 1970年、先に紹介した「I want you back」や、この「ABC」のヒットにより、マイケル・ジャクソンは天才少年としての賞賛を欲しいままにする。
 上記のオーディション映像を知らない者にとっては、この少年マイケルの登場は、衝撃的なものだっただろう。
 
 
 しかし、1975年にジャクソン家は一大決心をする
 みずからのプロデュース権を獲得するために、レコード会社を移籍したのだ。
 それは、三男ジャーメインの脱退や、「ジャクソン5」から「ジャクソンズ」へのユニット名変更など、多くの犠牲を払った上での選択であった。
 
 十代の後半だったマイケルは、それからしばらく「ジャクソンズ」の活動に専念する。
 モータウン時代は、定期的にソロアルバムを発表していたが、レコード会社を移籍してからは、ソロアルバムを出すまでに4年の歳月をかけている
 それは自分が納得のいくアルバムを発表したかったからだ。
 
 そのソロアルバム制作は、黒人大衆音楽を代表する巨頭クインシー・ジョーンズとの出会いがきっかけだった。
 1978年、映画「ウィズ」に出演したマイケルは、音楽監督であったクインシーに「良いプロデューサーを紹介してほしい」と頼んだ。クインシーは「考えておくよ」と軽く受け流した。
 ところが、映画の仕事を通じて、クインシーはマイケルの性格にほれこんだのだ。後述する、彼の妥協なき飽くなき追求心と、徹底したリハーサルでの態度に、二十歳の若者とは思えないプロフェッショナルさをクインシーは感じたのだ。
 クインシー本人が「プロデュースをさせてほしい」といったとき、マイケルはどれほど驚き、喜んだことだろう。
 
 こうして、マイケルのソロアルバム「オフ・ザ・ウォールは作られた。1979年のことである。
 
 

オフ・ザ・ウォール(紙ジャケット仕様)

オフ・ザ・ウォール(紙ジャケット仕様)

 
 そのジャケットは、今のマイケルのイメージからは異なるものだろう。
 しかし、ジェームス・ブラウンの模倣から始まり、お着せの曲を歌ってきたマイケルにとって、「オフ・ザ・ウォール」のジャケットは「自立」の宣言だった
 
 この「オフ・ザ・ウォール」は、優れたソングライターによる楽曲が魅力だが、マイケル自身も曲を書いている。その一つが「Don't Stop Till You Get Enough/今夜はドント・ストップ」
 
 

Jacksons - Don't Stop Till You Get Enough (1979)
http://www.youtube.com/watch?v=FzqRbhGaz9g
 
 裏声で歌われるこの曲は、ソウル・ミュージックとディスコ・サウンドを融合させた、新しいマイケル・サウンドを世に知らしめることになった
 
 そして、その次のアルバム「スリラー」にて、黒人にも白人にも、世界的にも愛されるエンターテイナーとなったのである。
 
 
 確かに、マイケルは偉大な才能の持ち主である。それは、彼ともっとも近い年齢の兄、マーロン・ジャクソンと比較すればわかる。
 
 

Jackson 5 - Dancing Machine (1974)
http://www.youtube.com/watch?v=8VWuVCvfsJ8
 
 左から、次男ティト(ギター)、四男マーロン、長男ジャッキー、五男マイケル、三男ジャーメイン(ベース)である。
(なお、左端でコンガを叩いているのが、当時は正式メンバーではなかった、六男ランディ)
 
 ダンスも歌唱力も、マイケルに遠く及ばなかったマーロンに対しては、何度も不要論が叫ばれた。
 もし、天才の弟に苦悩する兄の物語を知りたければ、ジャクソン家四男マーロンのことを調べてみるといい。
 
 しかし、マイケルだって、生まれながらの「キング・オブ・ポップ」ではなかったのだ
 ジェームス・ブラウンの物真似から始まった彼のパフォーマンスは、才能豊かな人たちに支えられて、世界中の人々に認められるほど、成長したのである。
 
 
 あと、マイケルには音楽的センスはあったが、他の方面でも優れた才能を持っていたかは疑問を抱いている。
 
 その証拠の一つが、マイケル・ジョーダンと共演した「JAM」のPV。
(この曲は1991年発表のアルバム「Dangerous」の一曲目に収録されている)
 
 

Michael Jackson and Michael Jordan - Making of The Music Video "Jam"
http://www.youtube.com/watch?v=dma9fvOmbJs
 
 これは、マイケルの解説のついたメイキング映像である。
 この映像で、マイケル・ジャクソンのバスケのセンスを知ることができるだろう。
 
 なぜ、この程度の実力で、バスケット界の至宝ジョーダンと共にバスケをしようとしたのか、全国のバスケ少年に恨みを買いそうな内容だ。
 しかし、ジョーダンがこんな素人のジャクソンにアドバイスをしたり、逆にダンスでは、無邪気にジャクソンがジョーダンに振り付けを教えているという、ほほえましい光景が見られる。
 
 どちらも世界超一流の才能の持ち主だが、その分野以外で、たちまち一流になれるわけではないのだ。
 自分の先天的な才能に気づき、それを毎日磨き続けなければ、その「天才性」は維持されないのである。
 
 

◆明確なヴィジョン

 
 

Michael Jackson - Smooth Criminal (Live 1992)
http://www.youtube.com/watch?v=07v6tB_OLR8 
 
 マイケル・ジャクソンのコンサートは世界中で開催され、多くの熱狂と失神者を生んだ。
 そんなパフォーマンスから、「スムース・クリミナル」、通称「スムクリ」を紹介しよう。
 これは「DVDライブ・イン・ブカレストに収録されたパフォーマンスである。
 
 この曲でもっとも有名なのが、上記動画の2:40以降で見られる「ゼロ・グラビディ」。この傾きは、ムーン・ウォークと並び、マイケルのコンサートの見せ場となった。
 
 「スムクリ」は、1988年に発売されたミュージック・ビデオ「MoonWalkerのハイライトを飾る曲であり、そのダンスは多くの人の注目を浴びた。
 
 

Michael Jackson - Smooth Criminal (1988)
http://www.youtube.com/watch?v=ex30DYwQlHU
 
 そのPVをマイケルはコンサートで再現したのだ。
 ビデオを見れば見るほど、より楽しめるパフォーマンスとなっている。これに喜ばないファンはいない。
 
 そんな「デンジャラス・ツアー」のリハーサル映像Youtubeで流れている。
 
 

Michael Jackson - Smooth criminal (Rehearsal 1992)
http://www.youtube.com/watch?v=zK3fLaNeVw0
 
 このリハーサルを見ると、多くのことが気づかされるはずだ。
 
 まず、「スムクリ」が口パクリップシンク)であること。
 マイケルは、歌って聞かせる曲と、ダンスで魅せる曲とを分けていた。
 もちろん、11歳からステージに立ち続ける彼のこと、ライブの即興性のあるシャウトで観客を盛り上げられることは熟知している。
 だから、踊りが激しい曲でも、リハーサルでどこまで歌えるかを試しているのだ。
 
 しかし、それよりも、カメラの入ったリハーサルを迎えても、マイケルが「スムクリ」の振り付けを完全に覚えていなかったことに驚かされる。
 上記動画の、3:05以降は、バックダンサーを見ながら、何とか立ち位置を保つことで必死なのである。
 これを見れば、一曲すべての振り付けを会得するのは、頭のイメージだけでは不可能なことがわかるだろう。
 
 このマイケルの醜態は、彼本来の内気な性格、アドリブへの弱さを教えてくれる。
 その一方で、ここから、マイケルが特訓を重ね、本番ではその偉大さを知らしめるパフォーマンスをした事実に驚かされる。
 
 マイケル・ジャクソンは練習魔として知られるが、それは、このような醜態をファンに見せるわけにはいかなかったからだ。
 そのために、彼は入念なリハーサルを繰り返し、「考えずども踊れる」状態まで持っていったのである。
 マイケルのダンスの魅力は、そのなめらかさ、いうなれば、よどみなさにあるが、それは猛練習があってこそなのだ。
 
 このようなマイケルの姿勢を「努力の人」と受け止める人は多い。
 先天的な才能の上に努力されたのでは、もう勝ち目がない、と絶望のため息をもらす人もいるだろう。
 しかし、マイケルが努力を積み重ねたのは、自分のアドリブに弱いという欠点を自覚していたからだ。
 それを克服するために達するべき目標は、常人よりもずっと高い次元にあったのだろう。
 
 その目標、いうなれば「明確なヴィジョン」の実現を、彼はもっとも優先した。そのために、公演を延期したこともある。
 たいていの人ならば「他人に迷惑をかけるならば」と、中途半端な状態でごまかす道を選ぶだろう。
 だが、マイケルは他人に迷惑をかけても、自分の目標の実現に努めた。
 
 これが「天才」の特色だと思う。
 みずからの目標のためなら、いかなる妥協もせずに、そのためならば生活を犠牲にする覚悟があるのだ。
 まわりには、そこまで必死になる理由がわからない。マイケルなんて、歌もダンスも世界一流の才能があるじゃないか、と。
 それは、マイケルが、このリハーサル映像のような醜態を、決して関係者以外に見せようとはしなかったからである。
 
 
 そんなマイケルのライブ作品は、現時点では「ライブ・イン・ブカレスト一作しかない。
 

ライヴ・イン・ブカレスト [DVD]

ライヴ・イン・ブカレスト [DVD]

 
 公演が行われたのは1992年、「アルティメット・コレクション」の一つとして発売されたのは2004年のことである。
 世界中で評判になったマイケルのコンサート映像となると、大ヒット間違いなかったと思われるのだが、あえてマイケルはその発売を許可しなかったのだ。
 
 その理由は、あくまで推測にすぎないが、ファンに新鮮な驚きを与えたかったためであろうし、彼の完璧主義の性格から、ライブ作品よりも、完成されたPV(ショート・フィルム)のダンスを見た状態で、ファンにコンサートを楽しんでもらいたかったためだと思う。
 
 例えば、マイケルの初めての日本公演での観客の反応から、その驚きがどのようなものだったかを知ることができる。
 

Michael Jackson-Wanna Be Startin' Somethin' (Live 1987) 
http://www.youtube.com/watch?v=xg0AsWruz4k
 
 曲は「スリラー」の一曲目である「スタート・サムシング」
 とにかく、マイケルが6分近く歌いまくるダンス・ナンバーである。
 
 この映像を見ると、最初、そのテンポに日本人ファンはついていけないようだ。
 マイケルを見ただけで、彼らは驚き、曲に身をゆだねることを忘れてしまったようである。
 
 しかし、3:17のポーズで、ファンはようやく登場時の興奮から我に返ったようだ。
 やがて、思い思いのやり方でリズムをとるようになる。
 マイケルのコンサートが日本人に受け入れられた瞬間である。
 
 マイケルのパフォーマンスは、この「静」と「動」を効果的に生かしている。
 ダンスの経験がある者なら、静止ポーズがごまかしのきかないものであることを知っているだろう。
 
 そのレベルに達するまでに、観客に驚きと興奮をもたらすために、マイケルは必死で練習を重ねてきたのである。
 彼は童心を失わなかったが、「魔法」が先天的な才能だけで生み出せないことを知っていた。
 
 みずからの名声にこだわるよりも、みずからの目標に忠実であったことが、マイケルが成功した理由である。
 
 

◆機が熟すまで待つ勇気

 
 

Michael Jackson - Beat It (1983)
http://www.youtube.com/watch?v=WObfcDIf6lY
 
 この「ビート・イット」は、ギターにエディ・ヴァン・ヘイレンをむかえたことで知られる曲だ。
 マイケルの数多き代表曲の中でも人気の高いハード・ロック・ナンバーである。
 
 そして、サウンドだけではなく、PVも話題になった。
 多人数によるダンスや、物語風の構図などは、それまでのPVの常識をくつがえしたものだった。
 
 マイケルのPVは「ショート・フィルム」と呼ばれ、その完成度は今なお高く評価されている。
 ダンスをする者にも、映像を作る者にも、そしてそれらの知識がない者ですら何度も見てしまう魅力にあふれている。
 
 そんなマイケルのPVの魅力にひかれて、パロディを作った者がいる。
 
 

"Weird Al" Yankovic- Eat It (1984)
http://www.youtube.com/watch?v=HyfcOriVKBM
 
 この"ウィアード・アル"・ヤンコビック「EAT IT」は驚くべきことに、全米12位まで上がった。
 パロディソングとは思えない大ヒットをしてしまったのである。
 
 それは、アルの「EAT IT」が本気でパロディをしたことが、見ただけでわかるからだ。
 曲の長さからわかるとおり、これはデジタル的な完全模倣ではない。
 
※なお、アルのパロディ作品はマイケル自身も気に入り、マイケルの「リベリアン・ガール」のPVで、アルは実に思わせぶりなシーンで登場を果たした。
http://www.youtube.com/watch?v=3ethtD4R1kk
 
 
 このように、パロディですらヒットするほど、マイケルのPVの質は高いのだが、もちろん、それ相応のお金と時間をかけているから可能になったものである。
 
 このPVの話題性のおかげで、マイケルの人気は維持されてきたのだが、作品数はキャリアのわりには、驚くべきほど寡作である。
 1975年のレコード会社移籍以降にかぎると、オリジナルフルアルバムは、35年のキャリアでわずか7枚である(「HIStory」のDisc2を含む)
 
 ソロのコンサート・ツアーに至っては、次の三度しか行われていない。
 
・Bad World Tour (1987-1989)
・Dangerous World Tour (1992-1993)
HIStory World Tour (1996-1997)
 
 ただし、1984年までは「ジャクソンズ」の一員として、マイケルはコンサートに出演している。
 とはいえ、ソロアルバム「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」が大ヒットしていたのに関わらず、彼は1987年まで、ソロ・ツアーをすることがなかったのである。
 
 その理由は、ジャクソン家の意向もあったのかもしれないが、そのほかにも機が熟すのを待っていたためだと分析する。
 マイケルはありふれたコンサートはしたくなかったのだろう。
 その構想をきちんと形にし、その協力者を得るまで、彼はツアーに出ることがなかったのである。
  
 マイケルは寡作であるかわりに、それぞれの作品の完成度は驚くほど高い。
 レコード会社としては、早く次のアルバムを出してほしいと催促しただろうが、マイケルはそんな要望を断わり続けたのだろう。
 
 「スリラー」といい「バッド」といい「デンジャラス」といい、たとえ共同プロデューサーがいたとしても、他者の作曲による歌だとしても、ゆるぎのないマイケルらしさがある。
 それは、数年がかりで入念に制作されたものだからだ。
 
 そして、コンサート、アルバム、PVなど、種類の異なるコンテンツを定期的に発表することにより、人々にたえずその存在感を知らしめたのだ。
(マイケルのシングルカットPV商法は、80年代は有効だった)
 
 
 ただ、1993年の少年性的虐待疑惑以降は、そんな彼の完璧主義にゆらぎが出てくる。
 「ヒストリー」の二枚目といい、新曲5曲+リミックスという「Blood on the Dance Floor」といい、アルバムとして見るならば、中途半端な完成度である。
(だからこそ、その中にマイケルの人間らしさが感じられるのだけど)
 
 このように、マイケル・ジャクソンは成功し続けていた理由の一つが、クオリティの高めるために自分のペースで作品を発表し続けてきたことである。
 
 日本の音楽シーンで、このようなことは許されないかもしれないが、これはレコード会社がマイケルを過保護にしていたわけではなく、マイケルの強い意志が反映されているからこそできたことだ。
 
 中途半端な形で出すぐらいなら、発売を延期する決意があったからこそ、マイケルの「天才性」は維持されたのだ。
 
 


◆うぬぼれない謙虚さ

 
 人々は他人のうぬぼれには敏感である。
 もちろん、誰もが、ある方面で驚くほどの努力をしている。仕事として、趣味として。
 しかし、それを他人に誇ることは、つかの間の自尊心を満たすことしかできない。
 
 マイケル・ジャクソンは有名になっても、決してうぬぼれることはなかった。
 
 例えば、1969年、11歳で歌ったデビューシングル「I want you back」を、彼はずっと歌い続けている。
 
 

Michael Jackson - I Want You Back/The Love You Save (Live 1992)
http://www.youtube.com/watch?v=zyND4ZL-LOU
 
 これは、古くからのファンを喜ばせるだけではなく、マイケル自身に初心を忘れない思いがあるためだろう。
 
 彼は自作の曲が多くなっても、ファンの人気が高い他者作の曲を歌い続けてきている。
 楽曲提供者には、マイケルの恩返しだと見えたことだろう。
 
 そして、彼は奇人変人といわれてきたが、ファンを見下すようなことはなかった
 常にファンには本気であたってきた。
 そのために、時間をかけてアルバムを制作し、入念なリハーサルを重ねコンサートに挑んだのである。
 
 自分が有名になっても、デビュー当時のことを忘れることなく、支援者への感謝を忘れなかったマイケルだからこそ、ファンに愛され続けたのだ。
 
 


◆「天才」に打ちのめされることは不幸なことではない

 
 
 特定の分野を極めようとすれば、必ずや「天才」に立ちふさがるときがくる。
 しかし、みずからの才能の乏しさに絶望し、その道をあきらめると、見えないものがある。
 
 例えば、受験でもそうだ。
 東大・京大クラスになると、センター試験なんて、高二のときに点数が高いのが当たり前になる。
 なぜなら、高二までは、センター試験の勉強だけすればいいからである。
 そして、残りの一年を、彼らは二次試験の合格に向けて、みっちりと取り組むのだ。
 学部によって話が変わるが、東大・京大クラスに受かり、官僚になるのはそういうレベルの連中である。
 センター試験の点数で頭の良し悪しをはかろうとする人は、そんな人たちの存在を知らないのだろう。
 
 また、自分の才能の限界を知ることは、不幸なことばかりではない
 「強さのヒエラルキーを構築する」という記事で書いたが、人間の想像力には限界がある。
 ゆえに、高みにいる「天才」には弱者の痛みが想像できないことがある。
 凡才だからこそ、世の圧倒的多数である、弱者の共感を呼ぶものが表現できるのだ。
 
 もし、小説を読んで「この作家は、俺のような弱者の気持ちなんかわかっちゃいない」と思ったのならば、自分が共感できる小説を作ればいいのである。
 きっと、あなたのように思っている人は多いはずだ。
 
 ただ、マイケル・ジャクソンが自らの目標に忠実であったように、中途半端では失敗する。
 マイケルが熱心にリハーサルに取り組んだように、本気でなければならない。
 そして、マイケルのように、機が熟するまでじっくりと待つ勇気も必要だろう。
 
 そのように生み出されたものは、売上一位とか、時代を作ったりとか、そういうものではないかもしれない。
 やはり、最終的に先天的才能のある人間にはかなわないのだ。
 ただ、それで、自分と同じ人たちへの共感を得ることができたのならば、それは成功したとはいえないだろうか。
 
 世の中のほとんどの人間は「天才」ではない。
 おそらく、マイケル自身も、自分を「天才」とは思っていない。ソングライターとしては、彼の才能はスティービー・ワンダーには及ばなかったと思う。
 しかし、それでも、マイケルはその生き方で「天才性」を維持してきたのだ。
 
 
 最後に僕の好きなボブ・ディランの詩を。
 

ウディ・ガスリーは、わたしの最後のヒーローだった
なぜならば、わたしが最初に会ったヒーローだからだ

 
 「天才」に近づくことは、その「憧れ」を喪失することである。
 憧れだった人物の人間性を知ることは、多くの失望をもたらすことになるはずだ。
 なにかは「裏切られた」思いがする人もいるだろう。
 近づけば近づくほど、「天才」の凄さは見えなくなるものだ。
 
 しかし、それでも、ボブ・ディランは、ウディ・ガスリーの後継者を自称し、みずからの曲を歌い続けた。
 
 
 「天才」に打ちのめされることは不幸なことではない。
 それにより、己の限界を知り、己の進むべき道を知ることができるからである。
 
 
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