オナニーの語源と、ロトの近親相姦 - ユダヤの宗教観

Lucas Cranach the Elder, Lot and his Daughters
ロトとその娘たち
(ルーカス・クラナッハ)
 
 以前、2chのVIPという掲示板で「やる夫がキリストになるようです。」というAA歴史物語を連載した。
 それは、ナザレの大工ヨシュア(いわゆるイエス・キリスト)の生涯ならびに、キリスト教の成立過程を描いたものである。
 そのときの質問で困ったものが二種類あった。
 
 一つが、聖書の記述をかたくなに信じる人。
 もう一つが、日ユ同祖論を信じている人である。
 
 
 まず、一つ目についてだが、聖書の記述を信じるのは、クリスチャンとしては当然のことだと思う。
 しかし、新約聖書のそれぞれの書物は、出来事や内容がバラバラで、イエスの伝道を一つの物語として構成することすら困難な内容になっているのだ。
 
 例えば、イエスの師匠である洗礼者ヨハネは、ルカ福音書によれば、イエスと親戚関係となっている。
 しかし、他の福音書では、そのような事実は一切描かれていない。
 
 そもそも、イエスの教団は、洗礼者ヨハネ教団の分派にすぎず、その勢力は微々たるものだった。それは、使徒のほとんどが、ガリラヤ地方出身者であり、漁師や微税人など、社会的立場が低い人が中心だったことからわかる。
 かたや、洗礼者ヨハネは地方祭司出身であり、その高名はユダヤ全土に広まっていた。
 新約聖書では、イエスの伝道を誇らしく書いているが、実際のところは、ガリラヤ地方の田舎町を中心としたものだし、故郷ナザレで迫害されたように、万人に支持されたものではなかった。
 ローカルな組織にすぎなかったイエス教団が、なぜ、世界的宗教へと発展したのか。その謎を解くのがキリスト教の一番面白いところなのだが、クリスチャンからすれば「イエスは生まれながらに偉大な存在」であり、それに疑問を抱くことは許されない風潮がある。
 だから、洗礼者ヨハネにイエスが弟子入りしたことについても、もっともらしい理由づけがされているのだ。
 そんなこじつけのないイエスの生涯が書きたいから、洗礼者ヨハネとイエスをただの師匠と弟子とわりきって描いたのだが、クリスチャンに「聖書すらまともに読んでいない」と言われるのである。
 まあ、題材が題材だけに、こういう批判は仕方ないことだったけど。
 
 
 しかし、それよりも困ったのが「日ユ同祖論」を信じている人。
 日本人の祖先はユダヤ人であるという、いわゆるトンデモ理論なのだが、これを荒唐無稽と笑い飛ばさない人が意外と多いので困った。
 それは、Wikipediaの充実さからも明らかだ。
 
日ユ同祖論 - Wikipedia
 
 僕がこれをまるっきり信じないのは、旧約聖書を読んでいるからである。
 風土の違いがあると思うが、日本とユダヤでは宗教観が決定的に異なる。
 その中でもっとも大きな相違点が「神」の認識の違い。
 ユダヤの神は唯一絶対の支配者だが、日本の神はそうではない。
 「神技」のような表現を気軽に使う日本人の祖先が、ユダヤ人であったとは、到底信じられるものではないのだ。
 
 
 そんなユダヤ独自の宗教観を伝えるために、日本人にもなじみのある旧約聖書の登場人物を二人紹介してみよう。
 
 一人目がオナン。彼は「オナニー」の由来となった人物である。
 彼の生涯は旧約聖書の創世記の38章に述べられている。
 
(全文が知りたい人は、下のページからどうぞ。
 聖書本文検索 | 日本聖書協会ホームページ
 
 オナン君は、ユダと"シュアの娘"の次男として生まれた。ユダ、というのは、もちろん、イエスを裏切ったイスカリオテのユダのことではなく、そのはるか昔の人物である。
 創世記38章に書かれたユダには三人の子どもがいた。上から、エル、オナン君、シェラである。
 
 エルが成長すると、父ユダは、タマルという女子を長男の嫁に迎えさせた。しかし、長男エルは死んでしまった。創世記38章7節にその死因を書いている。
 

 ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。

 
 そこで、ユダは次男オナン君に、兄嫁タマルを嫁がせた。
 ユダヤ社会は家父長制であり、「家族」が最小単位なのだ。
 あくまで、タマルはユダの長男エルの嫁であり、一族の血が絶えないために、次男オナン君と性交し、ユダの孫を産まなければならないのだ。
 それがタマルちゃんの存在理由なのである。
 そんなオナン君の生涯を、聖書では淡白に書いている。
 

 ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入り、弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」
 オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。
 彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。

創世記38章8-10節

 
 つまり、オナン君は膣外射精をしたのである。
 旧約聖書では、精子の無駄づかいを禁じている。自慰行為どころか、膣外射精をも許していないのだ。
(ゆえに、カトリックでは今でも避妊を禁じている)
 
 そんな神の教えを守らなかったために、オナン君は殺された。
 ずいぶんと理不尽な話だが、さらに理不尽なのが、オナニーが自慰行為をさす単語として、現在に伝わっていることだろう。
 オナニーの語源となったオナン君のことを「童貞の神さま」なんて崇めている人がいるかもしれないが、童貞ではなく、その行為は膣外射精にすぎなかったのだ。
 
 と、長男エルも次男オナンも、そんな感じで殺されている。
 こういう事例は旧約聖書ではいくらでもある。
 そんな説話を信じる民族が、仮に日本にたどり着き、支配者となったら、ずいぶんと日本の文化が異なるものになっていたのだろう。
 
 
 次に紹介するのが、ロトである。
 日本人ならば、ドラゴンクエストの勇者の名前を連想するだろうが、旧約聖書のロトは血統がいいだけの、いかさない男である。
 
 創世記11章によれば、ロトはアブラハムの甥にあたる。
 13章では、アブラハムと同じく、一族の長になっていたことが記されている。
 やがて、アブラハムの家と喧嘩して、ロトの一族はソドムの街に移り住む。
 
 創世記19章で、ロトの前に"み使い"がやってくる。
 ソドムが神の目に悪い街になったので、滅ぼすことにしたが、ロトとその近親者は生かすことに決めたとのことだ。
 なので、ロトは妻と子を連れて逃げ出す。
 「なぜ?」とか「どうして?」とか、疑問を口にはさむことは許されない。ユダヤの神は唯一絶対の支配者だからである。
 その逃亡の際、決して後ろを振り向いてはいけないと、み使いは言った。
 しかし、ロトの妻は気になって、破壊されるソドムを見てしまった。
 そのために、ロトの妻は塩の柱となった。
 
 ロトには二人の娘がいた。
 しかし、当時のしきたりによれば、二人とも夫をむかえることができないようだった。
 このままでは、ロトの血筋が絶えてしまうので、娘はある「はかりごと」をしたのである。
 以下、創世記19章31節から。
 

 姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」
 娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。
 あくる日、姉は妹に言った。「わたしは夕べ父と寝ました。今晩も父にぶどう酒を飲ませて、あなたが行って父と床を共にし、父から子種をいただきましょう。」
 娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。
 このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもった。

創世記19章31-36節

 
 つまり、血筋が絶えないためならば、近親相姦もOKなのである。
 僕としては、男に気づかれないように性行為するとは、騎乗位しかないだろうな、とか、キチガイじみた姉の言葉に従い、父によってその純潔を散らした妹の無念はいかばかりなものか、とか、どうでもいいことに思いをはせてしまうが、旧約聖書の創世記は万事こんな感じなのだ。
 
 もちろん、世界中の神話では、近親相姦は当たり前のように行われる。そうでないと、血統が聖なるものにはならないからだ。
 しかし、ユダヤ旧約聖書創世記のように、人がバンバン死んだりすることはない。日本の神話もしかりである。
 
 そして、旧約聖書でもっとも重視される「モーセ五書」の「レビ記」「民数記」「申命記」では、いわゆる「律法」と呼ばれる決まりごとが延々と語られている。
 この「律法」を遵守するのがユダヤ教である。
 これが、日本の宗教観と決定的に異なるところである。
 日本の「法治主義」と、欧米の「法治主義」との違いを調べてみれば、そのことがわかるだろう。
 
 
 「日ユ同祖論」によれば、イザヤ書エレミヤ書から、想像力たくましく、その正当性を主張しているが、信じるに値しない。
 これらの預言を利用したのは、原始キリスト教団だってそうだった。
 ガリラヤ地方の田舎町ナザレの大工にすぎなかったヨシュアギリシャ語読みでイエス)が、メシア(ギリシャ語でキリスト)であったことを主張するべく、イザヤ書エレミヤ書は大いに活用された。
 だから、新約聖書でのイエスの伝道は、その預言が成就するために、いろいろなこじつけがなされているのだ。
 そういうキリスト教の成立過程を知っている身からすれば、「日ユ同祖論」に正当性を持たせるべく、旧約聖書の預言書を引っ張りだすのは、何ら根拠のないことなのである。
 
 
 日本では、ユダヤ教はもちろんのこと、キリスト教もあまり浸透しなかった。
 遠藤周作歴史小説沈黙 (新潮文庫)」では、戦国時代以降のキリスト教伝道師の苦悩が描かれている。
 日本人はゼウス(キリストのこと)よりも聖母マリアを信仰した。
 いくら布教しても、異なる文化のため、日本人はキリスト教を歪曲しないと信じられなかったのだ。
 
 キリスト教は、世界宗教となるために、様々な変遷を遂げた。
 例えば、ローマ帝国の国教となるために、ギリシャローマ神話のような「神」を「聖人」に置きかえ、聖遺物信仰など、新約聖書には書かれていない教義を正当化させた。
 しかし、それでも、日本にはキリスト教文化を根づかせることはできなかったのだ。
 
 このような文化を持つ日本人の祖先がユダヤ人であるというのは、とても信じがたい。
 同じ人間なのだから、少なからずの共通点はあると思うが、日本とユダヤの宗教観には明らかに決定的な違いがある。
 
 ただし、この「日ユ同祖論」を信じたために行われた研究を否定するつもりはない。
 それは日本の古代文化に新たな発見をもたらす可能性がある。
 かつて、錬金術が新たな化学をもたらしたように。
 
 ということで、「日ユ同祖論」は一考するにも価しないと僕は考えている。
 まあ、日本人のルーツの一つとして、そんな可能性を想像するのは、ロマンティックなことだとは思うけど。