(C80)蛸壷屋新刊『隣の家の魔法少女』紹介(画像つき)

 
 

 「萌え」がはこびるアニメ作品を題材に、生々しい「性と暴力」を大胆に取り入れた二次創作を発表して話題を集めている、同人サークル『蛸壷屋』(http://www.takotuboya.jp/)
 
 今回の新刊『隣の家の魔法少女』は、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を題材としながらも、同時に、小説『The Girl Next Door(邦題:隣の家の少女)』で知られる、1965年米国で起きた少女監禁殺人事件(後述)を下敷きとしている。
 
 成人向け同人誌としては珍しく、この『隣の家の魔法少女』には、性行為(やそれに準ずる行為)が、わずか1コマしか描かれていない。
 女性の裸はあっても、男性器の描写は一つもない。
 そして、そのほとんどは、鹿目まどかが裸で拘束されて、無差別に虐待を受けているシーンばかりだ。
 まどかだけが、である。
 このような展開を期待はずれだと感じた人は多いだろう。
 
 暁美ほむらは、そんなまどかの世話役をしている。
 美樹さやかは、虐待には加わらないものの、まどかを助けようともしない。
 二人がなぜ傍観しているのかといえば、まどかを含む三人には、キュゥべえという妖精のような存在を知覚することができるからだ。
 キュゥべえと契約し、魔法少女になれば、まどかは監禁状態から脱するばかりか、虐待を加えた人たちに復讐することができる。
 ただし、魔法少女になれば、魔女と戦う日々が待っている。その悲惨な末路を知っているほむらは、拘束されたまどかにささやき続けるのだ。
「私を信じて、キュゥべえと契約しないで」
 
 まどかはほむらを信じ続けるのか、エスカレートする虐待のなかでキュゥべえとの契約に救いを求めるようになるのか。
 
 これまで話題となった蛸壷屋作品とは異なり、劇的な場面転換はなく、ゆるやかにストーリーが進む今作は、多くの読者を戸惑わせるかもしれない。
 しかし、暴力と狂気を描き続けてきた作者にとって、「強姦なき監禁」としてその異常性が注目された1965年の事件を、直接的に取り上げたいという願望は、止められないものだったのだろう。
 僕としては、性行為すらない暴力空間を表現しようとしたその姿勢は評価したいと思う。
 

◆『隣の家の魔法少女』あらすじ

 
 

 
とある事情で、母の友人である早乙女和子の家に預けられたまどかは、様々な理由から虐待を受けるようになる
 
 

 
ほむらの見ている前で体罰を与えられるまどか
 
 

 
やがて、監禁されるようになったまどかに、ほむらはキュゥべえへの警告をささやき続ける
 
 

 
見世物小屋の動物のように、同級生の前で、みずからの処女膜をコーラ瓶で貫くよう強制されるまどか
 
 

 
みずからに忠実なキュゥべえのセリフが、ここまで正論に聞こえるとは
 
 

 
モスラ先生が喜びそうなネタもあり
 
 

 
とどまることのない虐待に、まどかの人間としての尊厳は失われる
 
 

 
親友であったはずのさやかは、まどかの痛みを理解しようとはしない
 
 

 
やがて、外部の人間も暴力に加わるようになる
 
 

 
混濁するまどかの視界の先に、満を持して契約をせまるキュゥべえが……
 
 

◆蛸壷屋新作と『The Girl Next Door

 

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

 
 『The Girl Next Door(邦題:隣の家の少女)』という小説は、2007年に映画化されて話題となった。日本でも2010年に公開されている。
 
実話を基にした少女監禁事件の映画化「この20年で最も恐ろしい作品」とスティーヴン・キングも警告! - シネマトゥデイ
超映画批評『隣の家の少女』70点(100点満点中)
 
 
 実話を基にしたとあるが、その細部は1965年に起きた事件とは異なっている。
 1965年に起きたその少女監禁事件については、その主犯であった「ガートルード・バニシェフスキー」のWikipediaの項がくわしい。
 
ガートルード・バニシェフスキー - Wikipedia
 
 
 蛸壺屋新作は、『The Girl Next Door』よりも、実際に起きた事件のエピソードから多くを題材としている。
 作者はその現実に起きたエピソードを、漫画というスタイルで表現できるかを果敢に挑戦したようだ。
 もちろん、日本で起きた1989年の女子高生コンクリート詰め殺人事件からもヒントを取り入れているのだろう。
 
女子高生コンクリート詰め殺人事件 - Wikipedia
 
 
 だから、今作は『The Girl Next Door』という作品のパロディではなく、あくまで、その題材となった事件を下敷きにしているのだ。
 そのために「強姦なき少女監禁」であり、胸に刻まれる文字も「I fuck, Fuck me」ではなく「I'm a prostitute and proud of it(私は淫売、それが誇り)」である。
 
 蛸壷屋新刊は、このようなエピソードを多数描こうとしたばかりに、物語としての完成度は『The Girl Next Door』に大きく劣っている。
 小説と漫画という異なる媒体ではあるものの、『The Girl Next Door』での監禁に至るまでのスリリングな展開とは、とても比較にならない。
 序盤のカーニバルやキャンプなどのノスタルジックで牧歌的なエピソードの中で、やがて拘束される少女の宿命が少しずつ明らかになっていく。そして、少女が地下室に突き落とされたとき、すべての歯車がかみあい、悲劇が幕を開ける。その構成の見事さによって、『The Girl Next Door』の読者は語り手の少年と同じ無力を追体験することができる。
 
 『The Girl Next Door』でもっとも印象的な場面は、虐待されている少女の妹と語り手の少年がジグソーパズルをしているところだ。
 地下からの少女のうめき声は、二人の耳に届いている。妹はそれが何であるかをすでに見知っている。でも、妹はパズルをやめようとしない。
 妹は補助具がなければ歩くことができない体で、だからこそ、姉は虐待から逃れようとはしない。そのような人質としての自分の立場についても、妹はちゃんと知っている。
 でも、妹は目の前のジグソーパズルを続けることしかできない。
 そんな妹に語り手である少年はささやき続ける。あまりにも空虚な言葉を。
 
 フィクション作品ならではの構成で、虐待を傍観する少年の無力感を描きだした『The Girl Next Door』はスティーブン・キングが激賞するのもうなずける傑作だが、それに匹敵する動機付けが蛸壷屋新刊では出来ているかどうか。
 
 『魔法少女まどか☆マギカ』での異なる時間軸の一つという枠組みが、この物語の限界を示しているのかもしれない。
 
 また、原作に忠実なラストシーンは蛇足であったと思う。それはしかるべき着地点だったのかもしれないが、なんだか『星をみるひと』のエンディングのような、やりきれなさにかられてしまう。
 壮大ではあるが、詩的ではない。
 
 蛸壷屋の前作『俺と妹の200日戦争』の完成度が高かっただけに、今作の読後感は物足りない。現実の事件を基にした暴力描写を味わうことが、今作の楽しみ方といえるだろう。
 
 

◆なぜ『魔法少女まどか☆マギカ』だったのか

 

 誤植があったぐらい(左画像参照)、主犯者である早乙女和子の名前は、なじみのうすいものだった。
 そのような存在感のうすいキャラを主犯者とした今作は、『魔法少女まどか☆マギカ』という作品から生まれた二次創作ではなく、米国の少女監禁殺人事件を描くために『魔法少女まどか☆マギカ』を利用した二次創作だといえる。
 
 作者はあとがきで『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(あの花)』を題材にすることも考えていたと語る。僕としては「あの花」の、現実離れした少年期ロマンティシズムを、暴力表現で打破してもらいたかったと思う。
 原作を突き破る二次創作。それが蛸壷屋作品が賛否両論の話題を集める理由ではなかったか。
 
 決して、今作はまずい作品ではない。
 虐待に加担することはないが、まどかの痛みを理解しようとしない美樹さやかは、出番は少ないものの、その表情は印象的なものだった。
 「ワケがわからないよ」と繰り返すキュゥべえは、暁美ほむらの試みの滑稽さを読者に伝えるという原作とは異なる印象付けに成功している。この作品の設定は、キュゥべえのセリフを、もっとも正論として受け止めやすいシチュエーションであろう。
 そして、全裸で動物のようになぶられるまどかの表情は、蒼樹うめの原案を相当に意識したもので、いつもの蛸壷屋ヒロインとは異なるエロティシズムを感じさせることに成功していると思う。
 
 ただ、ファンからすれば、忘れた頃にあらわれる巴マミのセリフに期待していただろうし、まどか以外のヒロインの裸を何らかの形で見せるべきではなかったのかと思う。
 
 「あの花」のキャラクタで、この物語を演じるならば、虐待されるのはめんまで、主犯者がゆきあつあなるとなるだろうか。
 川に転落し、数年間植物人間となったものの奇跡的に回復した本間芽衣子。体は成長したものの、心は幼い芽衣子に宿海仁太は向きあうことができない。いっぽう、そんな仁太を想う安城鳴子や、回復した芽衣子に焦る気持ちを拒絶された松雪集は、芽衣子に憎しみを抱くようになり……。
 そのような人間関係の交錯を描いたほうが、個人的には楽しめたと思うのだが、どうだろうか。
 
 虐待されながらも、奇跡や魔法を生み出す悪魔のささやきに、最後まですがりつかなかったヒロインが、異なる時間軸で世界を救う。
 それはそれで、魅力ある物語であるかもしれないが、『魔法少女まどか☆マギカ』の二次創作という形では限界があった。
 作者の意図である今作の貨物列車のような進行は、読者の多数には受け入れられないと予想する。ただ、その意欲的な試みは次回作につながるはずだと僕は期待しよう。