【あふたー・ざ・けいおん構想】 歩行者天国アキバの追憶
蛸壺屋の新刊同人誌を読んでから、僕の想像力は、すっかりそのトリコになってしまった。
それを補完するプロットを書いてみたが、構想はますますふくらむばかりである。
⇒あふたー・ざ・けいおん(粗筋)
もし、小説として書くのならば、どの場所を物語の終着点にすべきかずっと考えている。
始まる場所は決めている。国道246号線の車窓の描写からその小説は始まるだろう。その車に乗っているのは、24歳の梓とヤクザあがりのマネージャー。彼女たちは表参道にある芸能事務所から秋葉原に向かっている。
その物語では、まだ、秋葉原で歩行者天国が行われている。そこで路上ライブを行うことが、彼女の唯一の仕事なのだ。つまり、これは2008年6月10日の殺傷事件が起こる前の物語である。
僕は思い描こうとする。あの狂騒に満ちた、かつての秋葉原の中央通りを。
2008年6月、秋葉原の歩行者天国は沸点をむかえていた。その痕跡をふりかえってみる。
例えば、グラビアアイドル沢木あすかのみだらな路上撮影会。
・アキバBlogで振り返る 2008年の秋葉原 PV1位はケツ出し女 : アキバBlog
公称22歳、実年齢30歳の彼女が、みずからの意志でこのような行為をしたと信じる者はいないだろう。彼女は芸能プロダクションに属し、それは知名度を上げる「仕事」であったのだ。
素人の趣味など、仕事を遂行する女性の前には敗れ去る。それは廉価競争と同じく、どんどん過激化する。そこにビジネスチャンスがあるかぎり、チキン・レースは続けられる。法というラインを踏み越えたと警察が判断しないかぎり。
どんな行為でも「仕事」とすることはできる。沢木あすかを痴女だのモラルがないと罵った人は、その背後にある芸能プロダクションの姿が見えていない。
その侵略に立ち上がったのが、自称アキバの住人であるコスプレ・オタクであった。彼らには「アキバは俺たちのもの」というプライドがあったのだろう。それが、次のような常識外れの行動を起こした。
・痛いニュース(ノ∀`) : アキバで銃乱射事件 ハルヒのコスプレで奇声を上げ走り回り、エアガン乱射…数人が被弾 - ライブドアブログ
これは秋葉原の古参を自任する自分たちへの関心を取り戻そうとする、彼らなりの反抗だったと思う。愚挙、としか言いようがないことだけど。
そんな狂騒に満ちたアキバ・ブームの後押しをしたアニメ作品が「らき☆すた」である。
アニメイトやコミック・マーケットを舞台にその物語は繰りひろげられた。
主人公、泉こなたは、秋葉原のコスプレ喫茶で働き、そこで生の充実を得ている。
声優平野綾の名演もあり、この「コスプレ喫茶」のシーンはよく知られている。
そして、それは「オタクでいることの楽しさ」を高らかに賛美していた。
そんなオタクが自己主張をできる聖地として、秋葉原は設定されていた。
その派生作品の一つが、「らき☆すた」のキャラソン「最大聖地カーニバル」である。
この曲「最大聖地カーニバル」は、僕にTHE BOOMの「風になりたい」を連想させた。
「風になりたい」のPVでは、銀座の中央通りをブーム一行がにぎやかに歩く光景が映される。
もし、「最大聖地カーニバル」のPVを作るのならば、秋葉原の中央通りを舞台にするのがいい。
パトリシア・マーティンを先頭に「らき☆すた」のキャラがコスプレをして、歩行者天国をパレードのように闊歩するのだ。
それらの流行が、ある派遣工を狂わせた。やがて、彼は歩行者天国にトラックを突っ込ませるという妄想にとりつかれる。それは、彼にとって、もっとも劇的な絵であった。2001年9月11日に見た、世界貿易ビルに追突する飛行機の光景と同じぐらいに、世界の何かを変えるはずだと彼は確信した。
そんな彼の犯行により、秋葉原の歩行者天国は終わった。
秋葉原は今でも多くのショップが並び、オタク向けの商品が売られている。メイドのティッシュ配りだってたくさんいる。ただ、路上パフォーマーの姿はない。そして、歩行者天国は凍結したままである。
かつての路上パフォーマンスはどこにいったのだろう。僕は2009年8月の秋葉原に立って、一年以上前の光景を思い出そうとする。
このブログでは「ナニワ娘と歩く新東京」という連載記事を続けたことがある。そこで、僕は東京再開発がほとんど失敗に終わったことを書いている。
東京を真の国際都市として世界に認められるべく、汐留で、丸の内で、大規模な再開発が行われた。そのためにかけられた金額は、夕張の観光事業やアニメの殿堂なんて一息で吹き飛ばすぐらい莫大なものだった。世界一流の建築家が招かれ、新世紀のTOKYOをアピールするための建築物が次々と建てられた。
しかし、休日にその地に行けば、韓国人や中国人の団体観光客がやけに目立つ閑散とした光景をそこで見ることができるだろう。
その記事で、テレビ朝日の丸い本社ビルを見下ろしながら、男女がこんな会話をしている。
♀「なあ、彼らはどこに行ったん?」
♂「秋葉原」
♀「いや、それは一部のマニアな人だけやろ?」
♂「そんなことないよ。欧米人にとって、東京をもっとも味わえるところは秋葉原なんだ。こんな面白くもない『巨大癒し空間』に行きたがる欧米人なんて、いるはずがない」
その記事は「新・都市論TOKYO(集英社新書)」という本にインスピレーションを得て書かれている。その作者は慶応大学教授で国際的に知られる有名建築家である。彼は「今は北京が熱い」と語る。北京では話を通しさえすれば、東京よりも建築デザインの自由度は高いらしい。在日米軍による高さの規制もない。そんな彼らの芸術作品である変な形のビルが、北京にどんどん建ったことを、我々は北京五輪などで知ることになった。
阪急による梅田、その阪急に影響を受けた東急による渋谷。そんな鉄道会社主導による生きた街づくりに比べれば、再開発された新東京に生気がない。それは企画者の知能指数とか発想の柔軟度とかいう能力の問題ではなく、その職の守るべきプライドが何であったかという問題である。
東京の超一等地に作られた金ばかりかけられたゴースト・タウン。それが新しいTOKYOの姿であるという。笑わせるではないか。
話がそれた。僕は「東京」を描くために、かつて人々を魅了した「歩行者天国アキバ」を小説という形で描きたいという欲求を抑えきれないのだ。そこで、梓はコスプレをしてパフォーマンスをしている。背が低く、スタイルが貧弱な彼女は、年齢不詳の女子高生という設定が与えられている。実年齢は24歳だ。そんな彼女の衣装は、日に日に露出度が高くなっている。もちろん、それは芸能プロダクションの意向である。万世橋警察署がどこまで許すかの実験なのだ。やがて、そのチキン・レースは彼女の下着の角度にまで及ぶことになるだろう。
彼女がそこまでしてアキバの路上に立つのは、お金のためか? いや、実は彼女には先月分の給料が振り込まれていないのだ。
彼女はそれを言い出せないままである。その会社の経理を任せられているのは社長夫人である。彼女は26歳で、元AV女優であったと梓は聞いている。その美貌とスタイルは、彼女が路銀欲しさにAV女優になったわけではないことをアピールしている。彼女のAV出演料には、梓の想像できぬほどのお金が動いたのだろう。そんな彼女に、梓は「先月分の給料が支払われていない」と言わなければならないのだ。2才しか違わない彼女の前に立つたびに、梓は女性として劣等感を味わされる。
それでも、梓はその仕事をやめられないでいる。なぜならば、彼女はその仕事を失うと、ただの普通の人になってしまうからだ。彼女はもう24歳。ただの人間としてやり直すには、とりかえしがつかない年齢だと、彼女は思っている。
しかも、彼女は処女である。芸能プロダクションに所属している女性がすべて性的奉仕をするというのは、庶民のファンタジーにすぎない。商品に手をつけることは、経費を着服するのと同じことであり、まともな社会人ならそんなバカなことはしない。もちろん、性犯罪をおかす男が後をたたないように、例外はいくらでもある。梓にそのリスクをするだけの美貌がないだけである。
芸能プロダクションの底辺に位置する彼女にとっては新たな出会いのチャンスなど与えられていない。雀の涙の給料だけでは生活できず、彼女は平日にバイトをしている。高校時代、彼女は夢をかなえるためならば恋愛を犠牲にする覚悟をした。それを24歳になっても健気にも続けているのだ。
24歳の処女にとって、自分が属している境遇からはずされることは、死ぬほど恐ろしいものだ。だから、彼女は給料が振り込まれていないにも関わらず、その仕事を続けているのだ。社長夫人がそんな梓の葛藤を楽しむべく、あえて給料を振り込んでいないことなど、彼女には想像する余裕もないのだが。
そんな彼女はひそかに期待している。行きすぎた歩行者天国アキバのパフォーマンスが一斉検挙される日々を。そのとき、彼女の名前は全国に知れわたるだろう。コスプレをして、スカートの下を撮影され続けた24歳女性。その事件は、きっとあの人のもとにも届くはずだ。
それはあの人が無視できないほど、悲惨なニュースではないかと彼女は思う。かつてのバンド仲間の惨状を、あの人は絶対に見過ごすことができないはずだと。
それをきっかけにして、再びあの人と会話ができたなら、と彼女は想像する。彼女はその人の楽曲をすべて聴きこみ、あらゆる批評家に負けない感想を用意していた。おそらく、自分の話を聞けば、あの人は私を認めてくれるはずだ。そして、一緒にステージに立つことが許されるかもしれない。かつて放課後に繰りひろげたジャム・セッションのように、創造性あふれる時間を共にすごせるかもしれない。
そんなことを考えて、梓は秋葉原の中央通りに立つ。そのときすでに、「あの人」の死体がホテルの一室で発見されていることも知らずに。
そして、その事実は、高校時代から止まっていた彼女の時計の針を進めることになるだろう。
と、こんな構想を立てて考えてみると、どうしても次のことを考えざるをえない。
「わざわざ、けいおんのキャラにこんな物語を演じさせる必要があるのか?」
愛のある原作ファンには「冒涜だ」と批判されるだろうし、どれだけ力を注いで書いても、所詮は「アニメの二次創作」にすぎないわけだ。
上の文章を読めばわかってくれると思うが、特に「けいおん!」である必要なんてどこにもない。
それは、物語の構想が、蛸壺屋同人誌から始まったことの証拠みたいなものである。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」みたいなものだ。
今のところは、律・澪・紬・梓の物語として、しばらく構想を続けることにしよう。
もし、その終着点が定まったとき、彼女たちに違う名前をつけることになったとしても。
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