小説を書く者が、ドラクエ的に覚えなければならない呪文はなにか?

 
 優れた小説には共通点がある。「生命力」が宿っていることである。
 「生命力」があるから、流行に振り回されることがなく、時代に風化されることはない。読者の世代が異なっていても、魂をゆさぶる感動を届けることができるのだ。
 小説の読者には、ひとつだけ共通点がある。それは「生きていること」である。働いている人、働いていない人、働けない人、働きたくない人、いろいろいるが、読者はすべて生きている。死者に小説を読むことはできない。
 
 
 「生命力」が宿る小説を書くにはどうするべきなのか。
 ドラゴンクエストというRPGでいえば、小説を書く者が覚えなければならない呪文は、ザオリク(蘇生呪文)である。
 読者の立場で考えれば、蘇生呪文ザオリクを覚えていなくても、小説は書けるように思える。
 回復呪文ホイミだけでも、小説を読ませる効果があると考えるかもしれない。
 今の時代、小説を読むのは、自分を守る盾であったり、相手より優位に立つための武器であるかもしれない。だから、守備力強化呪文スクルトや、攻撃倍増呪文バイキルトだけでも、読者を満足させる小説が書けると考えるかもしれない。
 しかし、蘇生呪文が使えない者が書いた小説は「失われたものを蘇らせる」ことができない。蘇ってないものに、読者の想像力は働かないのだ。
 
 具体的な話をしよう。
 あなたは、歩行者天国が行われていた、2008年の秋葉原を小説の舞台として描くことができるだろうか。
 僕はそれを試みたものの、うまくいかなかった。蘇生呪文が使えないからである。
 
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 あのトラックが歩行者天国に突っ込むまでの事件を並べることはできる。
 グラビアアイドルがお尻丸出しで路上撮影会をしていた。
 ハルヒの制服を着たコスプレイヤーが奇声を発しながら、モデルガンを乱射していた。
 それを、狂ってる、と総括するのは簡単だ。でも、それは小説ではない。
 最近、久しぶりに秋葉原に行ったのだが、かつての胸のざわめきが起こることはなかった。あの頃の秋葉原は狂騒に満ちていて、その街を歩くことで、ちょっとした興奮を感じることができた。
 それは、僕はニワカなだけかもしれないけど、そういう人たちは少なからずいたはずだ。そうでないと、あんな事件が起こるはずがない。あのトラックを運転していた派遣労働者の脳内には、2001年に世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだあの光景が浮かんでいたはずだ。彼にとって、世界の中心はニューヨークではなく、秋葉原だったのだ。
 その狂騒を蘇らせるためには、どのように書けばいいだろうか。
 
 小説なんて作り話にすぎない。そんなフィクションを、なぜ人々は求めるのか。
 それは、現実の人間関係から解放された物語に感情移入したいからだろう。
 小説の登場人物たちに憧れをいだき、友達になれたらいいなと思う。
 その感情移入のために、詳細なキャラ設定(スペック)が必要だろうか。あなたが知人のことで思い悩むのは、身長のせいか、体重のせいか、髪型のせいか、年齢のせいか、趣味のせいか。
 確かに、外見的特徴を抜きに人物描写をすることはできないだろう。ただし、外見だけを描いても、そのキャラクターには魂はない。魂のないキャラの物語に、思い入れを抱くことはできるだろうか。
 詳細なキャラ設定で生まれるのは、死体と同じ、物体でしかない。そこに魂を吹きこまなければ、操り人形にすぎなくなる。操り人形の物語に「生命力」があるだろうか。
 
 実は、蘇生呪文ザオリクを使えなくても、面白い小説を書くことはできる。
 二次創作である。
 すでに魂の吹き込まれたキャラを題材にして、小説を書くならば、回復呪文ぐらいを覚えておけば何とかなる。
 ただし、二次創作は、原作の流行がすたれるにつれて、色あせていく。蘇生ではなく回復だけでは、時代の風化に耐えられないからだ。
 これは、流行を追いかけるオリジナル小説にもいえる。蘇生呪文が使えないという落ち度を隠して「わからない人にはわからなくていいです」と開き直る作者がなんとも多いことか。
 
 歩行者天国時代の秋葉原を歩いていたときに僕が感じていた胸のざわめき。
 それは、当時の映像や写真、ニュースを見ても、あざやかによみがえることはない。
 優れた小説を書く者はそれを可能にするはずだ。登場人物のわずかな会話や、ピントを外した情景描写の中に、その呪文をこめる。
 その感情がよみがえったとき、人は「生きている」ことを実感する。
 
 蘇生呪文ザオリクを覚えるためには、どうすればいいだろうか。
 ドラクエのように、はぐれメタル狩りをして、経験値を上げて、レベルアップをすればいいのだろうか。
 優れた小説を書く者は、人生の経験値がなければならないのだろうか。
 いや、そうではない。かつて失ったもの、記憶の蓋をして忘れてしまわないと耐えられなくなるものを、再びこじ開けようとする勇気こそが必要ではないか。
 もちろん、勇気だけではない。その行為は、日々の痛みの上に、さらなる痛みを重ねるだけだろう。
 だが、そうしないと、失われたものを蘇らせることはできないのだ。
 そして、それができる者だけが、新しいものを生み出すことができるのだ。
 
 泉和良の『spica』という小説を読んで、僕はこのようなことを考えた。
 魂を揺さぶる作品に共通するのは、確かな「生命力」が宿っているからであり、それは過去の痛みと向き合う勇気のある者だけが、書くことができるのだと。
 そして、魂を揺さぶる作品でなければ、他人を本気で動かすことはできない。他人を本気で動かすことができなければ、その作品を社会に放つことはできない。
 それは、死者を蘇らせるぐらい難しいことである。
 ただし、自分の書いた世界では、あらゆる法則を無視できる。現実で死者が生き返ることはないが、自分が書くことで、その死者は、読者の中で生き続けるかもしれない。
 小説を書く者は、このような志を持たなければならないと、僕は思う。
 
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