「BLACK OR WHITE」PV ―無言で繰りひろげられたマイケル・ジャクソンの人種差別への怒り
訃報を耳にしてから、この週末、マイケル・ジャクソンの動画をYoutubeやニコニコ動画で聴き続けた人が多いのではないか。今日、目黒駅のレコード屋に行っていると、案の定、「Off the Wall」をのぞき、彼のアルバムは売り切れていた。
僕はマイケル・ジャクソンのCDを一枚も持っていない。彼の曲に特別な思い入れを持っていない。そんな僕でも、彼の凄さを肌で感じているのだから、やはり、マイケル・ジャクソンはスーパースターであった。
こうして、数多くの動画を見たなかで、もっともオススメしたいのが「Black Or White」のフルバージョンのPV。
印象的なギターリフにのせて、ポップなメロディーで「肌が白いか黒いかなんて関係ないはずさ」と歌う曲である。
(再生画面の右下のアイコンをクリックすればコメントをOFFにできます)
今もなお、マイケル・ジャクソンの肌が白くなったことを「黒人であることが嫌で手術によって白人になろうとした」と考えている人々が多いらしい。
その人たちは、おそらくこの曲の歌詞を知らなかったのだろう。
彼は「尋常性白斑」という病気で、幼少から体中に白い斑点ができていた。やがて、それは彼の肌を覆いつくすようになる。彼が濃いファンデーションをしているのは、そのまだら模様を隠すためであった。
たとえ、肌の色素が抜けても、彼は黒人であることを捨てようとしなかった。その強い意志が「Black Or White」にこめられている。
この「Black Or White」のPVは三部編成の凝った仕上がりだが、熱心なファン以外は、「性的で暴力的」とされた、後半部分を知らなかったのではないだろうか。
それでは、キャプチャ―画像をおりまぜながら、このPVを紹介していこう。
なぜ、多くの放送で後半部分がカットされたか、その理由がわかるはずだ。
PVの序盤では、「ホーム・アローン」で「世界一有名になった子役」に認定されたマコーレー・カルキンが登場する。
マイケル・ジャクソンのPVは「ショート・フィルム」と呼ばれるように、導入部から完成度の高い娯楽作品になっている。
そして、本編では世界の様々な民族のダンサーとともに踊るマイケルを見ることができる。
特に圧巻なのが、ネイティブ・アメリカン(?)のシーン。
このときのマイケルは、最高にワイルドでクールだ。
そして、世界中の文化と踊るという演出。それは、この曲のメッセージが、決して、黒人と白人にだけ向けられたものではないことを示しているのだ。
こうして、世界中の人たちが出演するにぎやかな本編は幕を閉じる。
しかし、映像は終わらない。その撮影現場にまぎれこんだ黒豹に、カメラは焦点をあてる。
この黒豹がマイケルへと姿を変える。
そう、ここからが物議をかもした「性的で暴力的な」とされたシーンが始まるのだ。
曲は流れない。出演者はマイケル、ただ一人。
マイケルのPVでおなじみのバックダンサーもいなければ、それを盛り上げるミュージックもない。
ただ、マイケルのステップのきしむ音だけが聞こえる。
虚飾を排した映像の中で、彼のボディラインの華麗さに、体幹の確かさに、ただ魅了される。
シンガーとしてもソングライターとしても超一流であるマイケルが、そのアクションだけで何かを表現しようとしている。
時折、叫ぶ声が、彼の感情のたかぶりを教えてくれる。
そして、これは、ただの独演会ではなかった。
彼はガラスに落書きされた車に向かう。
(右にある「KKK」という文字に注意)
そこに描かれたナチスを象徴するカギ十字を
マイケルは軽やかに打ち砕く
そう、この車には、人種差別を示す落書きがされていたのだ。
彼は踊りながら、それを狂ったように破壊する。
さらには、「KKK」の文字があるドアに向かっても……
このあと、彼はズボンのチャックを閉める。
おそらく、この行為が「本能」であることを伝えるためであろう。
それでも、彼の破壊活動は止まらない。
最後は自分の衣服をちぎり、咆哮するマイケル。
ここまで見た者は驚くはずだ。これほどまでに、マイケルが怒っていることに。
あらゆる言葉をかなぐり捨て、一切のメロディーもつけないまま、彼は、ただ破壊し、叫ぶ。
この4分間の独演は、何度見ても、身が震える。
その後、シンプソンズのアニメのシーンが出てくる。
マイケルの破壊活動の意味を知らずに、ただその騒がしさを喜ぶ子どもと、それをけしかける大人の構図である。
それは、それまでの独演を「笑いとばしてもかまわないよ」という、マイケルなりの配慮であると思う。
しかし、そのあとで、こんなメッセージが浮かびあがる。
「偏見は無知である」
この部分に眉をひそめる人は多いだろう。「Black or White」の曲の良さは認めても、この後半部分のパフォーマンスは受容しがたい人がいるはずだ。
マイケル・ジャクソンの影響力は計り知れない。もし、この映像が流されたら、若者たちは彼の怒りの理由を理解せず、車を破壊するダンスに熱狂するかもしれない。
その危険を知りつつも、マイケルはこのような怒りを表現せずにはいられなかった。
マイケルは黒人としての自分のルーツを忘れることはなかった。米国の著名なミュージシャンが一堂に会した「USA for Africa」にて「We Are the World」という屈指の名曲を作ったのは彼である(ライオネル・リッチーとの共作)
そして、この「Black or White」が収録された「デンジャラス」からは、社会的メッセージをも織り込むようになる。
これは、ある種の人からすれば、危機感を抱くべきことだった。何しろ、子どもたちはマイケルのすることをすべてマネする。彼を神格化し、コンサートに行けば、卒倒するかのように興奮している。そんなマイケルが社会派ソングを歌うことは、必ずしも好ましいものではなかった。
そして、一番の問題が、マイケル・ジャクソンがとびきり純粋だったことである。この「Black or White」の後半部分の独演から明らかになるように、彼の怒りは言葉にすらならない本能によるものだった。それに子どもが触れることは、良識ある大人にとっては警戒すべきだと感じてもおかしくない。
思えば、マイケルへの批判が出てきたのは「デンジャラス」以降であった。少年性的虐待裁判をきっかけに、マイケル・ジャクソンというブランドは傷つけられるようになった。「Black or White」のメッセージが人々に届かなかったのか、それとも、その激しい怒りが人々に反感を抱かれたのか、それはわからない。
彼は幼少からステージに立ち、そして、父親から虐待を受けていた(とされる)。その失われた空白の幼少時代を取り戻すべく、彼は子どもたちとふれあう時間を過ごしていた。
この「Black or White」でも出演しているマコーレー・カルキンは、彼とベッドで一緒に寝たと証言したが、それは複数の子たちと一緒だったという。そこで、マイケルは子どもたちに絵本を読んで聞かせたりしたらしい。おそらく、もっとも熱心に読んでいたのは、マイケル自身であったのかもしれない。
しかし、その少年のひとりの親により、マイケルは性的虐待で訴えられた。それが全面勝訴となったのは、前述した「尋常性白斑」によってである。彼の性器の斑点と、訴えた少年が証言したそれとは異なっていた。マイケル・ジャクソンは無実を主張するために裸にならなければならなかったのだ。
さらに、数度の整形がもたらした弊害。性的虐待裁判をきっかけとして、メディアはかつてのスーパースターをこきおろす記事を発信することに熱中した。
ただし、マイケル・ジャクソンは、どんなゴシップが広まろうが、ステージの上では完璧な姿をファンに見せた。2001年も2003年も、ファンは彼の姿を見て歓喜した。「マイケル健在なり!」と。
そして、死の一日前、そのリハーサルを見た興行主の代表は「まるで二十歳のようだ」と語った。それほどまで、彼は自身を切りつめて全てを表現しようとしたのだ。「これが最後のロンドン公演だ」とも言った。彼は自分の身体の限界と戦いながら、スーパースターとしての自分を、一人でも多くの目に焼きつかせようと決意していた(⇒該当記事)
それなのに、あの日、彼の心臓は止まった。約束された「最後のロンドン公演」は果たされないまま。
マイケル・ジャクソンは不当に貶められたスーパースターかもしれない。しかし、ファンでない僕には、彼の悪評を流し続けたメディアを憎むことはできない。
ただ、この「Black or White」のPVはぜひともフルバージョン見てほしい。そして、マイケルが曲に託せなかったメッセージを肌で感じてもらいたい。
彼のことを罵っていた者だって、その偏見を無知であったことを認めることはできる。僕だって、このPVをもっと早く見ておけば、マイケルに対するゴシップを鵜呑みにすることはなかったはずだ。この訃報で衝撃を受けている間に、せめて、一人でも多くの人に、このマイケルの想いを知ってほしいと思う。
(再生画面の右下のアイコンをクリックすればコメントをOFFにできます)
【関連ページ】
・Wikipedia - マイケル・ジャクソンの外観
・Wikipedia - マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑
・Wikipedia - マイケル・ジャクソン裁判
【関連記事】
・マイケル・ジャクソンが出演したゲームPart2「スペースチャンネル5」 - esu-kei_text