村上春樹「1Q84」 ― 説得力なく描かれたリトル・ピープルとは何か?

 

 僕にとって、村上春樹の本を読むことは、お気に入りのレストランに行くようなものである。一つひとつの味をかみしめながら、じっくり食べる。素材を生かしたその文体は、新刊「1Q84」で更に磨きがかかっているようだ。文章力・構成力ともに、彼の作品で最高級の絶品だ。
 
 しかし、村上春樹の本は、気まぐれな「不特定多数」に向けられたものではない。味付けが気に入らない人がいても当然だろう。中には、自分のライフスタイルを否定されたような苛立ちを感じる人がいるかもしれない。
 彼の物語のポリシーは、喫茶店にたとえると「十人中十人が満足するコーヒーよりも、十人中一人か二人が『これだ!』と思えるコーヒーを出すこと」だと言う。
 不特定多数が満足するコーヒーを用意したところで、チェーン店に客を奪われてしまうのが必定である。今回の「1Q84」が内容がほとんど知られていないにも関わらず、たちまち初版が売り切れたのは、「村上春樹レストラン」を渇望していた多くの熱狂的ファンを生みだすことに成功したからだ。その誰もが最後まで読了し、満足したわけではない。
 
 注意しなければならないのが、彼の作品が日本一売れるからといって、日本の多数派を擁護しているわけではないということだ。そのような論評には何ら意味がない。
 たとえば、彼は自身の高校時代について、次のような回想をしている。あるとき、生徒主体で、制服通学を続けるべきか、私服に自由化すべきか議論があった。彼は「これで制服を着ることはなくなるだろう」とたかをくくっていた。しかし、圧倒的多数で、制服通学が存続されることになったのだ。彼は愕然としながらも、こう思った。「この国は信用できない」と。
 最近、ふたたび制服通学に戻す高校が増えてきたとニュースで聞いている。それは、おそらく日本人の国民性によるものだろう。しかし、彼はそんな様式美を愛そうとはしていない。一定の理解は努めているものの、彼の小説の中心人物は「制服通学を選択する」性格ではない。私服だとオシャレに気をつかうから制服のほうがいい、と考えることは、彼が小説の中で書いてきたライフスタイルとは大きく反するものである。
 だから、日本人の多くが、村上春樹の小説を受け入れないと思うのは、むしろ当然である。僕は彼に「国民作家」という冠をつけたくはない。彼が多くの日本人のライフスタイルに影響を及ばしたのは事実だとしても、それは以前として少数派であり、そこから日本人の国民性を知ることはできないと思う。
 
 
 さて、この本のタイトルは、オーソン・ウェルズのSF小説「1984年」をもじったものだ。「1984年」は1948年に執筆された。つまり、予測できない未来を描いた作品であった。「1984年」は当時のソ連のスターリズムを思わせる全体主義の中、すべての人が管理されて生活している近未来社会を警告したSF小説なのだ。
 
 では、「1Q84」は何かを警告しているのだろうか。「1984年」に出てきた指導者ビッグ・ブラザーと対比するように、今作ではリトル・ピープルなるものが登場する。それは、ある女子高生が小説の中に託した想像の産物であったはずだった。しかし、彼女はリトル・ピープルが実在するという。そのリトル・ピープルという存在が、「天吾」と「青豆」という男女の生活に関わっていく。
 はたして、リトル・ピープルというものを知った二人が、どのような未来を目指すのか。それは決して、主人公たちがリトル・ピープルを打破し、かつての生活を取り戻す、という内容ではない。だから、読後感が納得できない人もいるかもしれない。カタルシスはこの本では得られない。
 
 虚構の物語として、リトル・ピープルにどれだけ説得力を持たせることができるか。そのことに、作者はあまり努力を注いでいないように思われる。ただ、まるっきり形而上の存在ではなく、それぞれの登場人物に影響力を及ぼしているだけに、読んだあとでも「リトル・ピープルとは何ぞや?」と首をかしげる人が出てくるだろう。むしろ、その「引っかかり」が作者の狙いではないかと思われる。
 
 今作を読んで、僕はカート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」を思いだした。「カンカン」とか「カラーズ」などという、「猫のゆりかご」に出てくる謎の宗教用語で、この「1Q84」を分析してみるとわかりやすい気がする。ただし、残念なことに、今の僕には、「リトル・ピープル」を未読の人にもわかりやすく伝えることができない。それを「運命」や「宿命」という言葉で片付けるならば、今作の登場人物が受けた犯罪行為も受容するしかないからである。
 
 作品の中では、60年代の全共闘運動に敗れた新左翼組織、有機農業の栽培で富をえるコミューン、そしてカルト教団が確かな筆力で描かれている。それらは現代社会の警告ではなく、むしろ、今の社会にあり続けているものを暗示しているように感じる。彼らの地元住民との摩擦は、全国のニュースでは報じられず、多くの人々がリトル・ピープルを知らぬまま、その禁欲的な生活を好意的に見ている。ある者は、彼らの犯罪行為を知り、怒りにかられるものの、社会はそれを取り締まることはない。だから、彼らは警察などの公権力に頼らず、己の身体で何かをするしかないのだ。
 
 80年代を舞台としているが、決して、この2009年から30年近く前の出来事をつづっているのではないだろう。携帯電話とインターネットがないことをのぞけば、今日のライフスタイルと変わりない内容が描かれている。しかし、それがために「現代の物語」としての説得力は欠けている。また、麻布や六本木という舞台は、すべての人に実感をともなうことは難しいだろう。
 今の若者たちには、村上春樹が書けないものを持ち合わせている。それは誇っていいことである。もし、小説を求める人の多くの動機が「共感」ならば、この本を読んで納得できない人のために、新たな物語を提示することもできるだろう。そう、あなたなりの「1984年」が描けるはずである。
 
 ただ、僕は今作を噛みしめながら読んだために、新たな物語でそれを打ち消そうとは思わない。しばらく、リトル・ピープルに思いをはせながら生きていこうと考えている。
 
 
 最後に、個人的見解を。
 もっとも面白かったのが「ネズミが菜食主義者の猫と会う」話。はたして、どのような展開が描かれているのかは、読んでみてのお楽しみだ。
 ビールを半分残したら、いさぎよく捨てる、という主人公の行動には驚いた人もいるかもしれない。ビール党で知られる彼だが、自己管理のために、一缶をすべて飲みほす必要はないという重要なメッセージを送っているのだ。それが文明社会というものなのだろう。
 今作でも、村上春樹作品でおなじみの「セックス」が「儀式」めいたものとして描かれる場面がある。これは、彼が浮気をする弁解みたいなもんじゃないかといぶかしんでしまう。「どうして、女子高生と寝たの?」「いや、あれは儀式なんだ、不可抗力なんだ」という夫婦喧嘩が思い浮かぶ。
 BOOK2の第9章以降の内容は、僕は納得できなかった。それは、僕がリトル・ピープルに実感を抱けなかったせいかもしれない。ただ、「青豆」と「天吾」の物語は、しばらく僕の頭の中で生きつづけていることになるだろう。記憶がうすれた頃に、再度、この「1Q84」を精読したいと考えている。
 
 今作の完成度は抜群に高いが、村上春樹の本の魅力を知りたい人は、今作よりも「世界の終りとハートボイルド・ワンダーランド」のほうが楽しめるのではないかというのが僕の感想だ。