Seraphic Blue -Director's Cut-


ロマンティック・グロテスク・シミュレーション・SFファンタジー・アドベンチャー・超大作RPG!!



公開先 BlueField - side:maglog
起動に必要なソフト RPGツクール2000ランタイムパッケージ


Seraphic Blue(セラフィック・ブルー


 この作者は、これまでに「SACRED BLUE(セイクリッド・ブルー)」「Stardust Blue(スターダスト・ブルー)」という二つの長編RPGを完成させており、この「セラフィック・ブルー」は「SB三部作」の完結編と呼ぶことができる。


 僕は「セイクリッド・ブルー」は未プレイだが、「スターダスト・ブルー」はプレイした。


 「スターダスト・ブルー」はRPGツクール2000黎明期において「これほどのシステムがツクール製で構築可能なのか」と人々を驚かせ、RPGツクール2000の可能性を「今の風を感じて」(旧コンパク総合人気一位)と共に知らしめることになった功労者である。


 例えば、「LIFE FRAGMENT」や「小さな見聞録」などのゲームデザインは、自分の構想するストーリーをうまくRPG化したい、と考えていた人にとって、大いなる指標になったのではないか、と思う。RPGツクール2000という作成ツールにとって、「スターダスト・ブルー」という作品を在野に(コンパク受賞作以外で)持ったということは、とても幸せなことだったのではないか。


 しかし、「セラフィック・ブルー」の完成がせまってきたとき、作者は「セイクリッド・ブルー」「スターダスト・ブルー」の公開を終了させてしまう。次が作者の弁。

配布終了の理由としては、当方が自省として当該作品を再評価した結果、それらが総じて未熟であり、その様な作品の配布を継続する事は羞恥に値すると判断したからです。


 今にして思えば、新作を完成させるべく注ぎ込んでいる神経を、旧作にわずらわされることに耐えられなくなったからだろう。製作中の新作「セラフィック・ブルー」の完成度を上げるためには、旧作を棄てることも辞さない、という強い気持ちの現れであったのであろう。


 こうして完成されたのが、プレイ時間50時間以上にも及ぶ超大作RPG「セラフィック・ブルー」である。

Director's Cut


 さて、今回紹介する「Director's Cut」は、初回公開から約二年後、作者がイベントやゲームデザインを見直し、新たに改良をほどこした、ニューバージョンである。


 もともとは「Seraphic Blue Ver2.0 -Sophistication of Blue-」というタイトルであったらしい。ソフィスティケートとは、洗練化された、という意味合いであろう。本質そのものは変わりないが、プレイヤーへの見せ方やゲームバランスをより良くするべく、発展されたバージョンと考えて良いだろう。


 僕は「Director's Cut」バージョンを最初にプレイした。その後、オリジナルバージョンを少しばかりプレイしてみたが、すぐにやめた。本質的な面白さは「Director's Cut」バージョンの方がわかりやすいと思ったからである。


 作者としても「Director's Cut」の方が「セラフィック・ブルーというストーリーを伝えるにふさわしい」と考えているのではなかろうか。これからプレイする人や、以前挫折をした人も、気にせず「Director's Cut」から「セラフィック・ブルー」に触れてみるのが良いのだろう。

ロマンティズム


 これは「スターダスト・ブルー」の話だが、あるサイトにて作者がインタビューを受けたことがある。


 その中で印象深かった箇所を引用する。

Q:ゲームを作る人へ何かアドバイスをお願いします

A:よく言われる事ですが、まずは『ラスト』、『世界観』、『主題』から決めてください。
 この三者があやふやだと、ストーリーが破綻する危険性が非常に高くなります。
 如何なる世界で、如何なる主題が語られ、如何なる結末を迎えるか。
 それらはあたかもマラソンにおけるコースとゴールの如く、すべからくして何よりも優先されて決められなくてはいけない事だと、私としては思います。

 「スターダスト・ブルー」はラストが印象的な作品であった。それは一枚の美しい絵の如く、記憶の中に残っている。


 その最後のイメージに向かって、どのような物語をたどっていくか。登場人物はラストシーンで、どのような表情を浮かべるか。大作でありながらも、作者は常にこのことを意識して、イベントを構築していたに違いない。


 例えば、今回の「セラフィック・ブルー」のセーブ画面。これを見て、あなたはどう想像するだろうか。



 天使の羽根が舞い降りる、ふわり、ふわり。なんて、詩的なことを思い浮かべる人もいるだろう。


 しかし、ある人は「むっ、天界で戦争が起こっているのか?」と天をにらむかもしれない。羽根が舞い降りるには、相応の理由がある。抜け毛じゃないんだから、ただ飛んでいるだけで、羽根がこんなにこぼれるはずがない。ということは、何かしら激しい動作を行っているのかもしれない。それは例えば、天使たちが身をていして戦っていることを意味しているのかもしれない。悪魔相手に? それとも、天使たち同士で?


 「セラフィック・ブルー」のオープニングは美しい。20分以上にもおよぶその長いシーンは「プレイヤーの自由度を奪うことはRPGの信念に反する」という批判を生んだ。しかし、それぞれの詩的な言葉に身をゆだねてみると、想像力が喚起されるはずだ。


 また、序盤10時間は、ほとんど伏線を張りめぐらすことが中心で、プレイヤーは主人公とともに「いったい、これはどういうことなのだろう?」と頭を抱えながら進むことになる。しかし、その先には、「セラフィック・ブルー」という物語が放つイメージが待っている。それは絶望に満ちた、ハッピーエンドから遠いものではあるけれど。

グロテスク


 この作品では、グロテスクな表現がある。しかも、執拗に執拗に繰り返される。それは、あるキャラクターの人格を破綻されるために行われる舞台効果ではあるが、プレイしている人も耐えられなくなる可能性がある。
 「15歳未満禁止」とすべきではないか、と思う。若い子たちのこの作品における感想を読むと「ちょっと危険だな」と思う。


 個人的なには、かなり「わりきって」プレイした。ホラー映画を好む人のことを考えるように「こういうのを求める人間性っていうのはあるのかな」と考えながらプレイした。



 この作品のグロテスクな内容は、市販作品ならば、公開があやぶまれるものだろう。少なくとも年齢制限は設けられるはずだ。だが、この作品はフリーソフトである。フリーソフトの前提条件は「自己責任」。フリーソフトだからこそ、作者は心置きなくグロテスクな要素を含めることができたわけだ。


 個人的には、サリンジャーカート・ヴォネガットという作家が、戦争を経験しているのに関わらず、戦場の直接描写をかたくなに避けていることが、戦争の恐ろしさを何よりも語っていると思うので、戦争の悲惨さを知らせるためにグロテスクな要素は含める必要は全くないという立場である。


 だが、この作品の、病的で狂人的で執拗なほどにくりかえされるグロテスクな表現は、それはそれで作者の意図どおりではないかと思っている。

シミュレーション


 この作品の戦闘は、作者自身が語る通り、難易度が高い。序盤はともかく、そのうちボスは当然のことながら、一般モンスター相手にも苦戦するようになる。


 この作品のダンジョンの設計は意地が悪く、特に序盤は、ひたすら「急がば回れ」「急がば回れ」。障害物さえ乗り越えれば、あっという間にたどり着ける距離なのに、いつもいつでも回りこまないといけない。さらに、取得アイテムを取ろうとすれば、もっと回りこむ必要がある。本当にうんざりする。


 この作品には、はっきりいって、ダンジョン探索の楽しみのカケラもない。


 しかし、作者の意図ははっきりしている。回りこむ、というダンジョンの設計上、プレイヤーがどれだけの歩数で目的地にたどり着くかが計算しやすいのだ。この作品はランダムエンカウント、つまり、シンボルにふれて戦闘が始まるのではなく、歩数による計算でバトルに突入するわけなので、


宝箱を取った場合→90歩
宝箱を取らない場合→50歩


 というふうに、ゲームバランスの調整がわかりやすいのだ。


 そのため、エンカウント率は低いものの、ほぼすべてのプレイヤーが同じ地点で敵と遭遇することになる。出現率を減らしたければ、アイテムを無視して前に進めば良いが、それでは強力なボスに立ち向かえない。


 この作品には「サプリメント」というシステムがあって、HP・TPをある程度ストックできる機能がある。このおかげで、制限はあるものの、基本的にはHP全快の状態で、敵と戦うことができる。



 この「サプリメント」が切れたときが、本当の勝負である。何しろ、ゲームバランスは「HP全快」が前提条件として与えられているとしか思えない激しいもので、回復を怠けたばかりに、一人死に二人死に、気づけば全滅という悲惨な結果に終わることも多い。


 このような高い難度のバトルを勝ち抜くために、僕は次の目標を定めた。


・宝箱はすべて取る
・戦闘では逃げない
・常にパーティーを全回復して挑む


 当たり前のことを列記しているだけのように思われるかもしれないが、これを保ちつづけることは、なかなかの集中力を要する。しかし、地道な努力は、適正なレベルと、戦術を組み立てる余裕がある資金とアイテムをもたらす。そして、いかに効率よく敵を倒すかという創意工夫につながる。


 さて、この作品の戦闘システムはなかなか奥深い。



 一見すると、RPGツクール2000のデフォルト戦闘に近いものだと思われるかもしれないが、似て非なるものである。


 まず、ドラクエのような完全ターン制ではなく、FFのようなウェイトターン制である。


 キャラの素早さや技に応じて、それ相応のウェイトが課せられ、それがゼロ(厳密にはもっとも低い値)になると攻撃できるというシステムである。


 強い技にはそれだけ次の行動までの時間がかかる。だから、相手の行動順位も意識しつつ攻撃しなければならない。「パス」をすれば、敵の攻撃を待ってから行動することもできるし、一気にたたみかけることもできる。


 そして、この作品の最大の特徴(と過言して良いと思う)のが、敵のステータスをいつでも見ることができること。



 HP残量や各種ステータスだけでなく、どの属性に弱いか、なども見ることができる。これはウェイトターンを必要としないため、何度でも確認することは可能。おまけに、これはあらゆるボスも例外ではない。(ラストボスでさえも)


 思えば、ドラクエなどでは、一部のボスキャラは「自動回復」するという、実にひどい設定があった。FFなどでも「実は炎属性が弱い」「実は睡眠がきく」など、知る人ぞ知る、攻略方法があった。たいていのRPGでは、データを隠すことにより、戦闘の難易度を調整していたのではないかと思う。


 その点、この作品はいさぎよい。弱点の属性はすべてわかるし、たいていのボスに状態不利スキルがきかないことは、試す前からわかっている。


 僕は「ファイヤーエンブレム」(FC)というシミュレーションRPGをプレイしたことを思い出した。ファイヤーエンブレムでは、敵のHPも、与えるダメージもすべて、プレイヤーに明らかにされている。だからこそ、どのような順番で敵を倒すべきか思考することができた。ガムシャラに攻撃するだけでなく、効率良い倒し方を見つけることに専念することができた。


 この作品の戦闘が、シミュレーションRPGに近いというのは、このような数字の透明性にあるものだ。もちろん、ダメージ量はRPGらしく一定ではないものの、明確な意思を持って特技を出すことができる。


 そして、普通の攻略サイトにあるような「ここの敵には火属性が有効なので、装備を改めましょう」とか「実は睡眠が有効です。補助魔法の○○を活躍させましょう」という助言は一切必要ない。そんなことはすでにわかっているのだから。問題はその情報を手に、いかにこちらの装備を整え、どのような特技をどの順番で出すかを創意工夫するかにかかっている。


 だから、バトルは歯ごたえのある高い難易度をほこるが、攻略サイトを見る必要は、ほとんどない。全滅したときは、自分の戦術が甘かったか、気がゆるんでいたせいである。原因はすべて自分の中にある。


 また、独自の成長システムはなく、各個人のレベルによる基本値と、装備によってそれぞれのステータスは決定するので「変な成長のさせ方をしてしまった。最初からやり直しだ!」と困ることはない。装備さえ変えれば、何とかなる。「逃げる」さえ多用しなければ、レベルが足りない、ということは断じてない。自分の理想とする戦術をかなえるだけの装備が足りないときだけ、資金集めの戦闘をすれば良いだろう。


 ただし、終盤の敵は、あまりにも強く、また、一見して理不尽な攻撃をしかける。一つの操作ミスが全滅を招くことは中盤以降はボスキャラ以外でもよくある話だが、何が何だかわからないうちに全滅を繰り返すことが終盤にはよく起こる。こちらが主導権をにぎるために考え抜いた装備でなければ倒せない強さになっているのだ。そのため、終盤のボスは「行動パターンを確認するため」に、一度は勝ちようのない戦闘を挑まなければならないわけだが、後述するように、ボス戦に至るまでのイベントシーンが長い場合は、戦いを何度も仕掛けることが嫌になる。ボス戦直前に「一度だけメニューを開く」ぐらいのサービスはしてもらいたかった。


 そんなわけで、正直に白状すると、終盤で僕は攻略サイトに頼った。謎解きの6桁のパスワードと、終盤の二つのボスがどうしても倒せる気配がしなかったからである。謎解きの6桁のパスワードはともかく(あれはわかりにくいと思う)バトル関係で攻略サイトに頼ったのは情けない、と自省している。

アドベンチャーRPG


 アドベンチャーRPG、という言葉にどれだけの認知度があるのか曖昧である。


 試しにwikipediaで調べてみたのだが、該当結果無しであった。一部の人間が勝手に作った造語なのかもしれない。


 そんな誤解も承知で話を続けるならば、ツクール作品で「アドベンチャーRPG」といえば、「今の風を感じて」などで知られるアルファナッツの作品群ではなかろうか。


 「アドベンチャーゲーム」といえば、ゲームブックを由来に持つ。だから、コマンド選択式のアドベンチャーゲームよりも、いわゆる「ノベルアドベンチャー」の方が、それに近いのかもしれない。コマンド選択式がアドベンチャーとするならば、アンディー・メンテの金字塔「ライジング・スター」シリーズの方が、よっぽどか「アドベンチャーRPG」だが、アンディー・メンテの作品は「ノンフィールドRPG」と表現した方が的確な気がする。


 やはり、何が「アドベンチャーRPG」と言わしめるかを考えるならば、「マップを歩く自由度があるかないか」に尽きるのではないだろうか。RPGといえば、どうしてもドラゴンクエストのように「フィールドマップを自由に動き回る」ことができるが、ある限定された場所にしかいけないRPGを「アドベンチャーRPG」としてしまうのではないか。


 ある作者が語るように「RPGというシステム自体が舞台装置の一環」である。RPGという形式は、活字だけによる小説よりも、もっと具体的に物語を奏でることができる。いわば「ドラマ/演劇」を表現することが可能なのであり、その良き見本が前述した「今の風を感じて」だと思う。立ち位置一つとってしても、それぞれの登場人物の心境を物語っている演出力の見事さは、プレイするたびに恐れ入る。


 さて、この「セラフィック・ブルー」、FFなどでおなじみの飛空挺も登場し、フィールドマップをくまなく探索することができる。だから、普通に考えれば、舞台装置としてRPGという形式を取っているような「アドベンチャーRPG」とは異なるはずである。


 ところが、この作品は、実に40以上ものエピソードにわけられていて、たいていが、一つの町、一つのダンジョンで終わる。なかには、戦闘が一度もなく、イベントのみで終わるエピソードもある。フィールドマップの中を歩き回れるといえ、行き先は一つしかない。サブイベントやおまけイベントも皆無に近い状態で、はっきりいって、自由度はほとんどない。


 町についてもそう。何しろ、町の人々が足ぶみすることがない。その町の世界観を補足する役目しか、彼らには与えられてない。町の中を探索して集められるアイテムもごくわずか。そして、売られているアイテムにいたっては、進行度に応じて変わるだけで、どの町でも売られているものは同じ。


 前作「スターダスト・ブルー」をプレイした人なら驚くだろう。「スターダスト・ブルー」には、町の人々すべてに名前がつけられ、それぞれの町に名所や名物料理があり、それらは「小さな見聞録」に記録される。ところが、今作の町の人々はほとんど機械のようなものである。


 また、前作はサブイベントも豊富だった。「LIFE FLAGMENT」という、本筋とは関係ないイベントがあり、そこで地味なキャラクタが活躍するという微笑ましいエピソードもあった。


 ところが、今回はプレイ時間50時間以上に及ぶボリュームでありながらも、そんな要素がまったくない。本筋から関係ないことでプレイヤーの気をそらせることを、作者がかたくなに拒んでいるようだ。自由度こそがRPGの魅力であるとするならば、細かいエピソードで行く場所も限定されていて、ミニゲームなどの要素もないこの「セラフィク・ブルー」は、RPG要素はきわめて低いと断言せざるをえない。


 しかし、このような遊び心を無くしたことは、「本筋」のストーリーをより確実なものにすることに成功したと言えるだろう。前作の「隠しダンジョン」を楽しんだファンは、今作でもそのような「おまけ要素」を期待し、そのような感想をしたが、それに対する作者の答えがこれである。


「あれ以上、彼女らが戦うはずがない」


 クリアした人なら、その言葉は説得力あるものとして思うだろう。必死で、精神が壊れるような思いをして、戦ってきた彼女たちを、「おまけ要素」とか何とかいって、再び死地に赴かせるなど、そんなことできるはずがない。


 RPG要素は希薄だが、ストーリーの必然性は驚くべきほど整合されているのが、この「セラフィック・ブルー」なのである。

個人的感想


 さて、概略を説明するのに、あまりにも長くなった。ここからは、未プレイ者の参考になるように、既クリア者の共感を呼ぶように、個人的感想を書いてみよう。


 この作品の世界観が明らかになるのは、中盤、プレイ時間にして、15時間を過ぎた頃ぐらいだと思うが、それまでは、「どのような絵が待っているのだろうか」といろいろ推測しながら楽しんでみた。


 例えば、年表。



 例えば、人物・用語辞典。



 これらの中にも、実は真相への鍵がひそまれていたりする。


 伏線が明らかにされたときは爽快で、それぞれの意味深な行動が何であるかがわかり、なるほどな、と関心することしきり。「世界観」が何であることすらも、15時間以上明らかにせず、しかも矛盾することなく進行させることができたのはこの作者の力量にあると思う。


 そして、最大の謎は、終盤も終盤になって、真相が語られるわけだが「これも伏線だったのか」と過去のイベントの不審点に気づかない自分を呪ったぐらいである。


 しかし、真相を知れば知ったで「何も知らないころは良かったな」と思う。第三章あたりになると、第一章が恋しくて恋しくてたまらなくなる。戦う相手の背景も知らず、自分に課せられた宿命も知らず、ただ「そこ」にたどり着くために戦っていた日々が、幸せだったと思うようになる。だが、ストーリーは進む。強くなる敵陣営から逃れることは許されないままで。


 作品をプレイする上で、気に入ったキャラは「戦う牧師」こと「ニクソン」。あまり感情移入することができない登場人物の中で、ニクソンがこの物語でたどった道は、非常にうまく書けていたと思う。自分だけかと思っていたが、クリア後にファンサイトを見ると、やはり一番人気は、この「ニクソン」であった。ニクソンの信仰心がどのような遍歴をとげていったのかは、この作品の方向性がどのようなものであったかを知る、一つの手がかりである。


 また、世界観を演出するための、独自の用語も興味深い。

 エピソード5のユヴェス海上都市での博物館めぐりは、五本の指に入る良イベントだと思っているし、エピソード10で語られる「ガイア理論」も興味深い。図式を用いてわかりやすく説明してくれているのは、非常に良かった。そして、その「ガイア理論」の応用が新たな種を生み出すことについては「なるほど!」とひざをうって納得したものだ。まったくベネディクタ・キャサリン両女史は偉大である。


 そして、略文字だらけの独自な用語も楽しい。このようなテストの例題も思い浮かぶ。

Q:ガイアプロビデンスの不安定性及び不確定性に起因する、
  魂係累に歪みが生じる症状を答えよ。

A:ディスピス(DSPIS)


Q:ディスピスに対する制度の脆弱性と危険性を浮きぼりにし、
その後のDLG法改正のきっかけとなった事件を答えよ。

A:ウィッグタウン事件


 特に、ディスピスとDLG法は、この作品を理解するうえでは必要不可欠な用語である。こういう世界観を知ることは、筆者にとっては、戦闘と同じぐらいプレイする楽しみであった。


 ただし、好みに合わなかったところも多い。


 まずは、プレイして一時間以内にたどり着く、主人公レイクの本性。


「おらおらァ! 死ねやバケモンが!」
「しけた声出してんじゃねー! もっと叫べェ!!」
「堪んねェ…! ゾクゾクするぜ…!」
「死んじまえ。何もかも死んじまえ」


 黒き翼を持つ怪物、イーヴルを狩るのは、レイクにとっては人助けのためだけではない。
 みずからの不幸な生い立ちへの憎しみをぶつけるように、イーヴルを惨殺し、笑みを浮かべるレイク。


 だが、あえて言おう。レイクはまだマシだと。


 この作品のキーワードの一つに「インフレ」がある。そのインフレの予兆をうかがわせるのが、例えば、下の画面である。



 経験値とお金の桁が六ケタまで用意されている。つまり、一回の戦闘で10万単位の経験値が手に入る可能性があることを示している。


「それはさすがにないだろ。隠しボスとか、エキストラエネミーのためだろ?」


 と考える人は、この作品の恐ろしさを知らない。最後のダンジョンまでたどり着くと「ちぇっ、こいつらだと10万すらもらえないのかよ」とガッカリするぐらいになる。


 これと同じ「インフレ」が、人間性にも起こる。


 それはもう、イーヴル相手に憂さ晴らしをしていたレイクが可愛く見えるぐらいである。


 レイクもレイクでなかなかひどい男だが、何しろその他の連中が、奇人・変人・狂人ときた。苛々させる言葉のオンパレードである。


 例えば「生まれて来て、ごめんなさい」なんて自虐的な台詞が頻繁に出てくる。増田こうすけの「ギャグマンガ日和」かよ、と。


 さらに、中盤以降になると、売り言葉に買い言葉というべきか、会話のひどさがどんどんエスカレートしていき、どちらも罵詈雑言のぶつけ合いである。文字速度もうまく調整していて、他人を怒らせるには、相手を挑発させるには、どんな言葉をかけるべきかの見本にしていいぐらいである。


 中盤以降のボス戦前後は、主人公の売り言葉に買い言葉が、もはや一つの芸にすら達していて、嫌悪感を通りこして、笑ってしまうぐらいになる。


 だが、そのせいで、世界観がうすっぺらくなりすぎていないか? 正直いって、ボスキャラのうちで、まともな会話をしたのは彼女(最後から三番目)ぐらいではなかったか?


 例えば、第二次世界大戦ヒトラーに匹敵する人物が、この「セラフィック・ブルー」でも登場するが、その人物がびっくりするぐらいの小人物であきれてしまう。


 何はともあれ、一代で組織を築きあげ、世界に名をとどろかせる男なのである。しかし、この作品で描かれている人間性では、いくらお金を持っていようが、彼についていく人は少ないと考える。人を使う才能がない人間には、いくら財力があったとしても、しかるべき成果を残すことは不可能だ。また、彼が政治的配慮をまったくといっていいほど見せないのも理解に苦しむ。支配後のことをどれだけ考えていると言うのだろうか。彼は小人物としてではなく、もっと偉大かつ憎むべき存在として描いてほしかった。


 一方、そんな敵キャラと同じ次元で会話をする主人公も、パーティーのリーダーとしての資格があるのかうかがわしい。後ろでだまって聞いてるニクソン一同がどう思っているのか気になって仕方ない。ていうか、ニクソン一同、おとなしすぎだろう。誰か一人ぐらい反抗すべきだったはずだ。「ダメだ。私には、もうこの雰囲気、ついていけません! 世界を救いたいのはやまやまですが……」なんてドロップアウトしても、良かったのではないか。


 生命を賭してまで望む「願い」の衝突。その多彩さが人間群像を形成すると考えている筆者からすれば、この作品で物足りなかったのは、そういうところ。熱き魂を持つ敵ボスと戦いたかったなあ、と思う。