村上春樹『海辺のカフカ』 (評価・A)

 

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

 
 本を読んだときに、気に入った箇所があったとき、あなたはどうするだろうか。
 線を引く人は多いだろう。古本屋では、そんな線引きされた古書があふれている。
 僕は付箋を貼るようにしている。半透明の付箋は、100円ショップでも売っている。半透明だと文字が隠れることはない。古本で売るときは剥がせば良い。他人に借りた本でも、気兼ねなく貼れるところが良い。
 
 さて、この村上春樹の『海辺のカフカ』を読み始めて、僕が貼った付箋は100を超えた。読む時間もかかった。1月28日(火)と29日(水)は、僕にとっては連休で、映画3本を見たりしたが、同時に本作も読んでいた。それからも読み続け、下巻を読了したのは2月1日(土)だった。今年、もっとも時間をかけて読んだ小説だが、実りある時間をすごせた。
 
 
 村上春樹の長編の中で、本作は唯一未読だった。その理由のひとつは、タイトルにも使われているカフカの作品を、あまり読んでいないからだ。『変身』しか読んでいない。だから、かつての僕は、フランツ・カフカの他作品を読んでから、本作に取り組もうと考えていたが、読まずじまいで月日が流れたのだ。
 
 しかし、カフカの作品に精通したところで、本作に出てくる作品をすべて理解できるわけではない。ソフォクレスの『オイディプス王』のようなギリシャ悲劇も、カフカ作品と同じぐらい重要な位置づけで出てくるし、『源氏物語』といった古典、江戸時代の『雨月物語』、そして、シューベルトなどのクラシックも出てくる。ともすれば圧倒される情報量であるが、それぞれの作品について登場人物の口を借りて、その魅力を語っているのが良い。とりあえず、カフカの『流刑地にて』は読まなければなるまい、と感じた。
 
 本作で、個人的にもっとも感情移入したのは、大島さんの台詞である。特に、高知の山に向かうドライブで、シューベルトについて語った箇所は印象深い。
 
 大島さんは言う。
「ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける」
「ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだ」
 
 村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』は、たしか「完璧な文章など存在しない」という一文から始まったと記憶している。完璧か完全か、その両者は意味合いが異なるだろうが、それを読んでから抱いていたものが、大島さんの言葉で氷解していくのを僕は感じた。
 
 例えば、最近読んだ『ビブリア古書堂の事件手帖』は完成度の高い作品であるが、それゆえに僕は「作られた世界」という負の印象を抱いた。「フィクションなんだから、伏線がすべて解消されるべき」という意見はもっともかもしれない。しかし、そのような物語は「世界を表現できているのか」という不満があった。読後感がサッパリしたほうが良い人もいるだろう。ただ、サッパリした本ばかりでは、我々は読書を通じて生きる支えを持つことができないのではないか。
 
 『海辺のカフカ』の話の筋書きはよくわからない展開である。「入り口の石」が果たす役割は、なんとなくわかるけど、ミステリー小説の種明かしのように「歯車がピシャリと噛み合う」ような鮮やかさはない。読んだあとでも、いろんな映像が澱(おり)のように残っている。頬杖をついて絵を見る15歳の少女の眼差しとか。
 
 そのわけのわからなさは、例えば、夏目漱石全集で、わざわざ『抗夫』をとりあげていることからもうかがえる。この短編は、漱石の中でも、きわめて評価が低い作品なのだが、主人公のカフカ少年は、わざわざそれを取り上げて、こんなことを言う。
 
「本を読み終わってなんだか不思議な気持ちがしました。この小説はいったいなにを言いたいんだろうって。でもなんていうのかな、そういう『なにを言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残ってるんだ。うまく説明できないけど」
 
 では、今作は現実が不条理であることを教えるためだけに書かれたものなのか? それについては、僕の好きな大島さんのセリフを引用することにしよう。
 
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から生まれる」
「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないのか――もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない」
 
 昔でいうところのイデオロギー、つまり、左翼や右翼という型枠よりも、恐れ憎むべきは想像力の欠如である、と大島さんは語っている。
 
 しかし、大島さんというキャラクターだけが光っているのではない。今作の魅力のひとつは、下巻の主役とも言うべき、文字の読み書きができないナカノさんと、トラック運転手であるホシノ青年であろう。
 これまでの春樹作品とは一線を画すブルーカラーの二人の活躍は、カフカ少年と佐伯さんの超展開で頭を痛める読者を和ませる。
(個人的にもっとも面白かったのは、マツダのレンタカー店員とのやり取りのシーン)
 
 ホシノ青年は、タバコも吸うし、パチンコもする、これまでの春樹作品の「都会的に洗練された」登場人物とは大きく外れている。しかし、そんなホシノ青年は、やがて、ベートーヴェンの「大公トリオ」に魅せられるようになる。クラシックには縁のない生活を送っていたホシノ青年が、ナカノさんの道連れをする間に、そういう音楽を求めるようになったのだ。
 結局、このホシノ青年は物語の決着をつけてしまう重要人物となる。それは作者が当初から予定していたことだろうか。おそらく、初期構想ではホシノ青年は、ナカノさんを四国に導くだけの役割ではなかったか、と僕は推測しているのだが。
 
 不満点もある。四国出身である僕には納得できない点が多かったのだ。
 例えば、高松市在住の佐伯さんは、地元の音楽大学に進むのだが、四国に音楽大学なんてものはないはずだ。芸術を学ぶならば、少なくとも関西に出なければならないはずである。
 そういう文化的不毛さが四国にはある。僕の故郷である徳島県には、大塚製薬グループによる大塚美術館があったりするのだけれど、文化と名のつくほとんどの施設は役人に管理されていて、天下りの格好の場になっている。そこには想像力がない。あるいは、文化展示に想像力があっても、それを伝える教師に想像力が圧倒的に足りない。頭のいい奴らは、勉強して都会の大学に行けばいい、というスタンスである。こうして、進学した田舎者は、都会の若者と出会い、みずからの文化土壌の無さと向き合い絶望するのだ。そういう田舎の悲劇は、この作品では希薄である。
 
 しかし、その点を差し引いても、村上春樹作品の中では傑作のひとつであろう。『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』の三作に比べれば、感動やわかりやすさはないかもしれないが、付箋を百枚ぐらい貼りたくなるぐらいの実り多き小説である。評価はAとしたが、また、忘れた頃に読み返したい作品だ。