伊坂幸太郎『モダンタイムス』 (評価・B−)

 

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

 
 同作者の『魔王』の続編である。具体的にいえば、『魔王』の数十年後の物語なのだが、それがわかるのは物語の中盤以降である。
 本作は漫画雑誌『モーニング』に連載された。だから、かなり漫画読者を意識した内容といえる。特に、各章の冒頭や末尾は、読者を驚かすだけの展開が少なくない。
 
 例えば、とある登場人物の自殺。これは声を出して笑った。
 なにしろ、その妻ですら、こういうほどのキャラである。
「人間はみんな死ぬんでしょうが、うちの夫だけは違うと思ってました」
 ただ、その自殺の理由は納得できるものの、そこに「強そうに見える人間も実はもろい」といった教訓はそれほど感じない。分量は多いが、重厚な作品ではない。
 
 
 また、作者と同名の井坂好太郎という小説家が出てくる。あまり作者の分身という感じではなさそうだが、このネーミングのおかげで、次のような箇所は深読みしてしまう。
 
「俺の小説が、過去に映画化されたのは知っているだろ。その時にだ、俺は痛感したね。小説にとって大事な部分ってのは、映像化された瞬間にことごとく抜け落ちていくんだ。どういう意味かって? 映画の上映時間を二時間とするだろ。その二時間に、一つの物語を収めようとする。そうするとどうするか? まとめるんだよ。話の核となる部分を抜き取って、贅肉をそぎ落とす。そうするしかないわけだ。粗筋は残るが、基本的には、その小説の個性は消える」
 
 ただし、人間社会の「システム」の恐ろしさを描くうえでは踏み込みが甘い、というか、物足りない内容ではある。
 例えば、村上春樹の『海辺のカフカ』に出てきた、ユダヤ人虐殺を事務的に行ったアイヒマンが本作でも出てくる。本作では、アイヒマンの例をあげて、こう語られる。

「何百万のユダヤ人を良心の痛みすら感じず、工場で商品を作るみたいに、次々と殺害したっていう事実、そのことを怪物的なものって言ったんだ。その怪物的なことがどうして実行可能だったのか、といえば、それは、世の中が機械化されているからって話だ。(略)分業化が進んで、一人の人間は今、目の前にあるその作業をこなすだけになる。当然、作業工程全部を見渡すことはできない。そうなるとどうなるか分かるか? 人はただの部品になる。つまり、想像力と知覚が奪われる。自分たちのはめ込まれているシステムが複雑化して、さらにその効果が巨大になると、人からは全体を想像する力が見事に消える。仮にその、『巨大になった効果』が酷いことだとしよう。数百万の人間をガス室で殺すような行為だとしよう。その場合、細分化された仕事を任された人間から消えるのは、『良心』だ」
 
 この箇所は『モダンタイムス』というタイトルとも繋がる、きわめて重要な部分である。今作では、仕事という名目で、想像力と知覚を奪われ、良心を失くし、人間が暴力装置となる恐怖が描かれているはずだ。
 
 しかし、これに例外があるからわかりにくい。最初に主人公を痛めつける岡本猛という人物だ。彼はいわばヤクザだが、なぜか主人公は信頼できると考える。あげくのはてには、主人公の側につく。漫画的にはよくある「熱い」展開であるが、小説としてはどうか。仕事のために暴力装置となった者を信用できる主人公の心境が僕にはよくわからなかった。
 
 主人公の不倫相手のこともそうだ。どうも、彼女の不倫は大がかりなプロジェクトの一貫であったようなのだが、最後まで名前だけで実際に登場することはない。そのおかげで、主人公は不倫の罰を受けないまま、終盤は妻と仲睦まじく活躍する。
 
 そして、中盤からは『魔王』の続編であることが明らかになるのだが、それはファン以外を満足させる結果にはなっただろうか。
 
 とある単語を三つ検索すると、その事件の関係者とみなされて、謎の組織に追われるというSF的展開は面白い。ただ、その真相には『魔王』を読んだ者だけが楽しめる要素が多く、純然としたSFとして物足りない。
 
 読み終わったあとでは、「想像力」の問題なのか「良心」の問題なのかわからなくなる。どうも焦点がぼけている。ストーリーテラーとしての作者の才能だけで読ませる内容になったのではないかと感じる。
 
 上下分冊だが、漫画雑誌に連載しただけあり読みやすく、それほど時間はかからない。ただ、その分量に似合うだけの内容があったかというと疑問である。最初の暴力装置である岡本猛が味方についたせいで、テーマの迫真性がない。近未来を描くことで現在の恐怖を呼び起こすことがSFの役割とするならば、本作は物足りない内容だった。
 
 評価は、ツイッターではBとしているが、改めて感想を書く段になると、B−とした。『魔王』を読んだ者だけが読めばいいだろう。
 ただし、伊坂幸太郎の共感性の高い文章は魅力的だし、他作品を読みたいと僕は考えている。今度は、これと同時期に書かれたという『ゴールデンスランバー』を読むことにしよう。