小説『魔法少女まどか☆マギカ』上巻紹介 《一人称小説の魅力を最大限に活用した快作!》
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やっぱり、『まどマギ』は面白い!
素直にそう噛みしめることができる力作である。
アニメを見た人は、初めて視聴したときの驚きを思いだしながら、より、彼女たちの思いに近づくことができるだろう。
そして、その完成度は、ただのノベライズにはとどまらない。小説として独立したクオリティの高さがある。
アニメ版を「中学生には残酷すぎるのではないか」と思っている人も、この小説を中学生に読ませることには抵抗感しないはずだ。
小説『魔法少女まどか☆マギカ』は、中学生から老人まで楽しめる第一級のエンターテイメント作品であると断言していいだろう。
8月14日に発売されたのは、小説『魔法少女まどか☆マギカ』の初回限定版である。一般書店には置かれていない。上下巻セットで2400円とちょっと値が張る。
(僕は新宿のGAMERSで購入した。背景はGAMERS限定特典の付属ポスター3枚)
しかし、その完成度たるや、同じ上下巻セットで発売された『ハルヒ驚愕』とは、とても比較にならない。
もちろん、良い意味で、である。
実はまだ上巻しか読んでいないのだが、思わず上巻だけで感想を書いてしまっているぐらいである。
小説版は、鹿目まどかの一人称で描かれている。アニメではまどか不在の場面が少なからずあったが、小説では徹頭徹尾まどか視点である。
目次を見ただけでも、その違いは明らかだ。
第一章「夢の中で逢った、ような……」 第二章「それはとっても嬉しいなって」 第三章「わたしなんかで、良かったら」 第四章「そんなの、聞いてない」 第五章「わたしが、心を決める時」 第六章「こんなの、絶対におかしいよ」 |
第三章〜第五章のタイトルがアニメと異なるのは、まどか以外のセリフが使われていたからである。
小説版の章題は、すべて鹿目まどかの言葉から選ばれているのだ。
それでは、物語として不十分ではないか、と思われるかもしれないが、だからこそ、鹿目まどかという少女の内面に迫ることができる内容となっている。一人称小説の魅力を最大限にいかしているといえるだろう。
アニメでは語られなかった、まどかの過去も明らかになる。
例えば、美樹さやかと鹿目まどかとの出会い、とか。
↑小説『魔法少女まどか☆マギカ』の挿絵から
そして、それはアニメ版の方向性を乱すものではない。
アニメでは十分に伝えることができなかった「まどかとさやか」の関係が、それらのエピソードによって見事に補強されているのだ。
中学生にもオススメしたいというのは、そのような内面描写に優れているからだ。
僕はこの小説を読んで、アニメを見たときの興奮があざやかによみがえった。
それでは、上巻の面白さを分析する前に、少しばかり個人的体験を話すことを許してもらいたい。
◆ アニメ『まどマギ』の個人的体験
最終話が放映されて数ヶ月がたった。いろんな人がもっともらしい文章で、その面白さを分析しようとした。「○○のパロディにすぎない」と言われて、「そうかも」とうなずき、素直に面白さを口に出せないこともあった。
我々はすっかり忘れていたのだ。次回を待ち焦がれて一週間を生きていた放映時のことを。たった数ヶ月前の出来事なのに。
今年、あの3月11日の震災のあとで、少なくない人々がこう言った。
「まどかの最終回を見るまでは死ねない!」
冗談のようなその言葉には、確かに本心がのぞいていた。たかがアニメに、我々はそれほどの思いをこめていたのだ。
リアルタイムでその感動を分かち合えたことは、幸福の一言に尽きる。
僕が最初に『まどマギ』を知ったのは、第三話放送後のネット上の評判からだった。
ある者は、したり顔で「やはり、血だまりスケッチになったか」とつぶやいた。でも、僕にはそんなことはどうでもよかった。
わずか一分足らずのシーンで絶望へと叩き落されるスリリングな演出。僕はその美学に釘付けになった。
そして、スタッフの計画通り、ニコニコ動画で無料公開されていた第一話〜第三話を、いそいそと見たのである。
ただし、第四話と第五話を見たときは、次回を楽しみにしていたけれど、待ち焦がれるほどではなかった。
そんな僕の脳天をかち割るような展開が第六話で待ちかまえていた。僕はそこから、まどマギの魅力から逃れられなくなった。
おそらく、第六話までは、それなりに楽しんでいただけなのだろう。
僕をはじめ、少なからずいる美樹さやかファンというのは、おそらく、その第六話でまどマギに引きつけられた人たちではないだろうか。
そして、さんざん予想したのに関わらず、期待をはるかに上回った第十話の見事な構成。物語の持つ偉大な力を感じることができた。
上巻の巻末で、田中ロミオが次のようなコメントを寄せている。
『魔法少女まどか☆マギカ』は、一般の視聴者を感動させる以上に、志あるエンターテイメント業界人を鼓舞させた。その見えない恩恵は計り知れない。
まったくもってその通りである。
優れた物語は、多くの人に生きる活力を与える。
その素晴らしさを、まどマギは教えてくれたし、今後のクリエイタが目標としなければならない作品であろう。
そんな『まどマギ』の持つ力を、この小説版は僕に思い出させてくれた。
◆ 小説版『まどマギ』が成功した理由
まだ上巻しか読んでいないのにベタ褒めするのは勇み足だと思うが、下巻を読むとそれどころじゃなくなるだろうから今のうちに書いておく。
前のエントリで、僕は小説版『あの花』について語った。
⇒小説版『あの花』感想 《アニメ見てない人は、絶対に読むな!》
その中で僕は次のように書いている。
・アニメ脚本担当がノベライズしても面白くなるわけではない
・小説を書くのには時間がかかる
『まどマギ』のノベライズが発表されたとき、作者が虚淵玄でないことに戸惑った人は多いはずだ。
でも、虚淵玄という人は茶目っ気の多い人だ。多すぎるといっていい。
例えば、第十話での、いつの間にか横たわる巴マミとか、ほむらに悪態をついたあとであっさり敵になってしまう美樹さやかとか。その場面には、必死で生きるほむらやまどかには失礼ながら、僕は笑ってしまったものだ。
そして、脚本担当者は、原作を思い通りに改変することが許される。そのうぬぼれが、例えば『ガンダム』小説版のような駄作を生み出したのだし、『あの花』小説版のような饒舌だが充実さが感じられない内容になってしまったのである。
アニメ『まどマギ』という作品の完成度については今さら語る必要もないが、脚本担当者ではないからこそ、それを補強する言葉には細心の注意が払われている。
そのようなデリケートな作業には時間がかかるものだ。
最終話から数ヶ月後での小説発表というのは、通常の作品ならば「遅すぎる」と言っていい。
それが許されたのは、ニトロプラス出版であるからだろう。
早さよりも質を重視した結果、アニメファンを裏切らない小説になったのだ。
やはり、良い作品は一朝一夕でできるものではない。
物語を熟成する大切さを、この小説は教えてくれる。
手にするまではマイナスに感じられたそれらの要素だが、それは面白さを追求するために犠牲にされたものだったのだ。
実は僕も、これほどまでの出来とは期待していなかった。まったくもって、あのような作品を完成させたスタッフを信じなかった自分の愚かさに呆れ返る。
余計な言葉を費やすのはそろそろやめよう。これから下巻を読まなければならないのだ。
僕と同じような楽しみを味わいたいかたは、ぜひとも、この本を手にしてほしい。
小説ならではの内面描写で、鹿目まどかという少女の思いに、より近づくことができるはずだ。
※下巻を含めた感想は次のエントリにて。
⇒小説『魔法少女まどか☆マギカ』下巻紹介《終盤はアニメを先に見たほうが……》