史上最強のロリコンと児童エロチカの話

 
ヘンリー・ダーガー
 
 史上最強のロリコンは誰か?
 そう問われれば、僕は[ヘンリー・ダーガー]と答えよう。
 
 上で掲載したイラストは、彼自身によって描かれた長編小説[非現実の王国で]の挿絵である。
 
 彼の作品には、多くの女児の裸体が描かれている。
 それを「児童ポルノではないか?」と思われる人がいるかもしれない。
 
 しかし、ヘンリー・ダーガーの作品は、母国である米国を中心に世界中で支持を受けている。
 
 そもそも、児童ポルノとはなにか? まず、そのことから始めよう。
 
 日本を児童ポルノ輸出国と批判しているのは欧米諸国だが、そのキリスト教圏ではヌーディストという文化が認められている。
 老若男女問わず、全裸で生活することが良しとする文化のことだ。
 欧米諸国は、決して、少女の裸を禁じているわけではない。
 
 「児童ポルノ法案」を語るとき、多くの人はその概念を勘違いしているのだ。
 
 
 少女の裸体の美しさを愛することは、人間として当然のことである。
 みずみずしい生命力がもたらす、そのなめらかな素肌。
 第二次性徴をとげていくなかで、日々ふくらみを帯びてくる身体。
 
 そこに美を見出す写真や絵画を、児童エロチカと呼ぶ。
 
児童エロチカ - Wikipedia
 
 この児童エロチカという文化は、世界で認められている。
 だから、少女の裸が映しだされている「エコール」のような映画でも、規制対象とはならないのだ。
 

エコール [DVD]

エコール [DVD]

 
 
 では、児童ポルノとは何なのかというと、性行為および、それを直接的に想起させるもの、となる。
 女児の陰毛や性器を強調するものもまた、児童ポルノにあたる。
 
 このような児童ポルノに関して、欧米諸国では小説やコミックなどのフィクション作品でも強く規制しているのだ。
 
 「ドラえもん」でヒロインの入浴シーンがあったとしても、それは児童エロチカであって、児童ポルノではない。
 そこに性行為を直接的に想起できないからだ。
 欧米諸国はそのような表現に規制を求めているのではない。
 
 もちろん、文化の違いはある。
 たとえば、父と娘の入浴シーンが児童ポルノだと批判されたのは、欧米文化では、風呂に入ることに、身体を洗う以外の行為を暗喩させるとみなすからだ。
 
 
 確かに、児童エロチカは、おおっぴらに主張できる文化ではない。
 女性からすれば、少女の裸体に美を求める男性心理は許せないものだろう。
 しかし、同性愛と同じように、それらへの差別は、人権侵害ともなりうるのだ。
 そして、「エコール」のように、必然性があれば、少女の全裸映像は規制されないのだ。
 
 日本では、児童エロチカと児童ポルノの区別がついていない。
 だから、女児の性行為を描いた作品に対する規制を求める欧米諸国の声に、児童エロチカの規制でこたえてきたのである。
 見当違いもはなはだしく、文化の抹殺に等しい行為である。
 
 欧米諸国のキリスト教文化圏では「人間性の否定」という言葉に敏感だ。
 少女の裸体を規制することは、そのみずみずしい生命の美しさを規制することであり、それもたらした神の偉大さの規制になってしまうのだ。
 と、そう強弁すれば、欧米諸国の人々は納得する。
 
 ところが、今の日本では、自主規制の同人文化の影響のせいか、商業作品でも第二次性徴が始まる前の女児による、性行為を直接的に想起させる表現が相次いでいる。
 それらの作品では、性欲がそなわっていないはずの女児が快楽に酔いしれているような描写がなされているなど、きわめてリアリティが乏しい。
 それは、少女性を否定したものであり、話題性を意識して低年齢化させただけの、荒唐無稽な物語にすぎない。つまり、人間性を否定した、芸術とはなり得ないものなのだ。
 
 と、児童エロチカという概念を知っておくと、二次元とか三次元とかいう問題ではないことがわかるだろう。
 
 ただし、児童ポルノと児童エロチカの線引きは「芸術か否か?」と同じくデリケートな問題である。
 だから、本音はともかく建前では、我々は少女の裸に性欲をもよおしているのではなく、生命のみずみずしさを感じているだけなのだ、と高らかに主張すればいい。
 
 児童エロチカと認められれば、それは文化として許容される。
 1996年のストックホルムでそう決まっているのだから、欧米人が何と言おうが、日本ユニセフが何と言おうが、関係ないのである。
 
 だからこそ、冒頭の[ヘンリー・ダーガー]のイラストだって認められているのだ。
 
ヘンリー・ダーガー
 
 そのイラストが挿絵として使われている[非現実の王国で]は、世界最長の物語ということになっている。それは、1万5000ページを超える分量で書かれている。
  ヘンリー・ダーガーは、その「非現実の王国で」という作品を書くことで、生前に一銭たりとも受け取っていない。
 そもそも、それは他人に公開させるためのものではなく、自身を満足させるためだけに書かれたものだった。
 
 ヘンリーは病院の掃除人として、55年間にもわたって働き続けてきた。
 人々とは、ほとんど口をきかず、世間では、かわいそうな人だと思われていた。
 
 しかし、自室にこもると、彼は非現実の王国の創設者となった。
 その聖域に、彼は誰も寄せつけなかった。
 80歳で救貧院に入るまで、その作品は彼以外に知られることはなかった。
 
 ヘンリー・ダーガーはその作品を、みずからの死とともに焼却されることを望んでいた。
 それは、彼が生きるためにのみ、存在していたからだ。
 だが、アパートの大家は芸術に理解があり、その作品の価値を認め、死後も保存することに決めたのだ。
 こうして、ヘンリー・ダーガーの作品は、[アウトサイダー・アート]の一つとして、その死後に世界中に知られるようになったのである。
 
 彼の作品は、その膨大な長編小説よりも、そのために書かれた挿絵のほうがよく知られている。
 
 その特徴として、まず目を引くのが、女児の裸にもペニスがあること。
 
ヘンリー・ダーガー
 
 この理由として、幼少からコミュニケーションがとれなかった彼は、女性の裸体を正しく知らなかったのではないかという説がある。
 しかし、すべての女児にペニスがあるわけではないため、それは攻撃性を象徴しているという説もある。
 
 個人的には、ペニスとは無防備さの象徴ではないかと思う。
 [非現実の王国で]という作品は、ひとことで言ってしまえば、子どもたちを奴隷にしようとする大人たちの侵略に、美少女集団[ヴィヴィアン・ガールズ]が立ち向かうという筋書きである。
 
 子どもの弱さや純粋さを表現するために、女児にペニスがあったほうが、ヘンリー・ダーガーは納得できたのではないか、と思う。
 裸でいることも許される楽園のような世界に、突如として襲いかかる侵略。
 その感情を表現するために、男性であった彼は、あえて子どもたちにペニスをつけたのではないか。
 
 [カラマーゾフの兄弟]に、母の見ている前で、少年を裸にして、野犬をけしかけて逃げ惑う姿を眺めることを趣味とする将軍の話が語られている。
 このような逸話に、生理的嫌悪感を抱く人がほとんどだと思うが、これもまた、人間の欲望の果ての一つであろう。
 
 ヘンリー・ダーガーのイラストには、そんな逸話を思い起こさせるような残虐さも含まれている。
 
ヘンリー・ダーガー
 
ヘンリー・ダーガー
 
 社会経験が乏しく、満足な教育を受けることもなかった彼の描くイラストにリアリティはないが、そこには[なまの欲望]が感じられる。
 
 ヘンリー・ダーガーが生涯を通じて、女性を知らなかったことは間違いないと思われるが、そんな彼の欲望を満たしていたのが、これらのイラストなのだ。
 それは少なからずの人に不快感を及ぼすだろう。
 しかし、その一方で「人間の根源的欲望とは何か」を考えさせるきっかけになるのではないかと思う。
 
 
ヘンリー・ダーガー
 
ガシャポン コパトーン マスコットストラップ 全7種セット
 
 彼のイラストのキャラクターのほとんどは、雑誌をトレースしたものだ。
 似た構図が多く、平板な印象を受けるのは、同じ絵柄を何度も使いまわしにしているからである。
 
 コパトーン製品に使われるキャラクターなど、そこには今でもなじみのあるものもある。
 
 だが、そんなイラストの切り貼りにも関わらず、ヘンリー・ダーガーのイラストには独創性に満ちている。
 そこには、彼が[非現実の王国]を形にするために模索された表現の創意工夫があるからだ。
 
 
ヘンリー・ダーガー
 
 彼が生涯をかけて作り続けていた[非現実の王国]。
 他者に発表することなど一度も考えなかった[非現実の王国]。
 彼はそれを書くことで、生き続けてきたのだ。
 
 
 よく、芸術を批判する言葉として、マスターベーションという表現が使われる。
 自己満足という意味であろう。
 
 では、芸術とはセックスでなければならないのか、といえば、それは違うと思う。
 紙にしろ、パソコンのモニタにしろ、それは何も語らない。
 下品な話だが、うまくいったところで「そこ、いい」とか「んっ」とか喘いでくれないのである。
 創作活動とは、基本的に恐ろしく孤独なものなのだ。
 パートナーを満足させて終わるようなものではない。
 
 一人でも多くの人を感動させるためには、流行や環境に支配されない普遍的な感情を描かなければならない。
 そのために、芸術家は社会を知る必要があると言われる。
 自分が常識と思っているものでも、相手には非常識かもしれない。
 そんなかたよった常識を根底とした作品は、他の人々の心を揺らすことはないだろう。
 
 ただ、このヘンリー・ダーガーのように、恐ろしく孤独な生涯だったからこそ向き合えた[欲望]というものもある。
 芸術が人間を相手にしているものであるかぎり、ほとんど他者とは会話せずに81年の生涯を過ごしたヘンリー・ダーガーが、そのすべてを捧げた作品には、後世に語り継ぐべき資格がある。
 
 
 これらのヘンリー・ダーガーの作品は、画集で見ることができるが、一部をアニメーションにしたDVDがあるので、そちらをオススメする。
  

非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎 (trailer)
 
 ヘンリー・ダーガーのイラストには、但し書きがついており、また、一瞬をとらえたものではなく、中世の絵画のように、段階的な時間を描いたものが少なくない。
 あくまでも、その挿絵は彼の想像力を具現化した道具にすぎなかったのだろう。
 絵心の無い彼が懸命に描こうとした世界を、このDVDでは見事によみがえらせている。
 
 生涯、誰とも関わりを持たなかった孤独な男による、美少女の物語。
 それは、人間の生について、美について、欲望について、考えさせられるはずだ。