ハッピー・ホリデー!(テロ対策)
メリー・クリスマス!
ということで、カトリック成城教会のクリスマスツリーの写真である。
ちなみに、この写真は12月22日の仕事帰りに撮ったもので、僕はキリスト教徒じゃないし、今日のクリスマス・イブに教会に行ったわけではない。
それにしても「イスラム教徒に配慮して、メリー・クリスマスじゃなくてハッピー・ホリデーにしましょう」なんて「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」じゃあるまいし、と思う。
「キリスト教徒憎けりゃクリスマスまで憎い」とか言われても、クリスマスは元々キリスト教は関係ない行事ではないか。
クリスマスは冬至に近い。
(今年の冬至は12月21日)
冬至は一年でもっとも夜が長い日である。
だから、冬至の長い夜が明けると、かつての人々は「今日が太陽の誕生日!」と祝っていたのである。
それをキリスト教徒が「ふむ、太陽の誕生日こそイエス・キリストの誕生日にふさわしい」と勝手にこじつけただけなのだ。
なお、日本では冬至にカボチャの煮物を食べるという風習がある。
カボチャといえば、ハロウィン。
つまり、クリスマスをハロウィンふうに祝えば、日本らしいと言えるのではないか。
いや、まあ、同じようなものになってるけど。
そんなことを考えながら、いつものコンビニに行くと、男性店員がサンタの格好をしていて、女性店員がトナカイのぬいぐるみを着ていた。
「逆だろ!」と叫びそうになった僕の心は汚れているのだろう。
日本で最初にミニスカサンタをした女性は誰なのだろうか?
誰が爺さんサンタという固定観念を解き放つ、ミニスカサンタを発明したのであろうか?
ネットで調べれば、いろいろと出てきそうだけど、面倒なので調べない。
世の中には知らないほうが幸せなことが多い。
ミニスカサンタの発祥もその一つではないだろうか。
この記事はいつもの喫茶店で書いている。
ひそかに(実にひそかに)僕のお気に入りの女性店員は今日もいた。
クリスマスイブにもシフトに入っているのである。
これが意味することは一つ。
やったぜ!(特に何かするわけでもないが、とりあえず喜んでみる)
ところで、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という譬えを我ながらよく思い浮かんだものだと満足しながら、念のためにネット検索してみたら、僕が思っていた使い方とは異なるらしい。
【坊主憎けりゃ袈裟まで憎い - 故事ことわざ辞典】から引用すると、
僧侶が「憎い」対象となっているのは、江戸時代の寺請制度が背景にあるとされている。(中略)本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなったことから、僧侶を憎む人々も多かったといわれる。
かなり同情的な意味合いで使われているらしい。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはいえ、彼が連れている犬まで憎むことはないだろう」というふうに。
これをクリスマスに適用すると「キリスト教徒が憎いからクリスマスも憎いというが、彼の犬まで憎むことはないだろうに」となって、僕の意図とズレてしまう。
僕がこの譬えを使ったのは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという想像力豊かな連中に配慮して、メリー・クリスマスという表現を自己規制することはないだろう(だいたい、クリスマスはキリスト教とは関係ない祭りだったし)」という意味合いだったのだけれど。
もともと、宗教とは矛盾の嵐である。
聖書もそうだしコーランもそうだ。
それを現実に適応させるのが宗教家の使命なのだが、過激な連中はそこから自分に都合の良い部分を切り貼りして「これぞ神の教え」と言いふらしている。
もちろん、宗教とは文化であって、かつては豚を食べなかった日本人が、イスラム教徒に「豚骨ラーメンうめえぞ」というのはどうかと思うが、クリスマスぐらいは宗教ノーサイドで祝えばいいんじゃないか。
ところで、先日、会社で世話になった人が亡くなった。
僕は沈鬱な表情をして、お線香をあげに行ったのだが、遺族の方々は思ったより陽気だった。
11ヶ月の闘病生活の末に亡くなったその人の遺体は痩せこけていて、僕には痛々しいものだったが、看病した遺族の人はその経緯をずっと見てきたのだ。
天寿をまっとうしたとはいえない年齢だが、良い病院に入院し、遺族の方々はできるかぎりの看病をした。
金がなくて入院できずに死んだ、という悲しい死ではなかったのだ。
遺族は、三ヶ月前から助かる見込みがないことを医者から聞かされていたらしく、最後の三日間は覚悟を決めていたという。
僕なんかは突然知らされて「まさか」と思ったものだが、遺族の人々はすでに死の準備を終えていたのだ。
その結果が、遺族の人々の表情から見えた「解放感」である。
人事を尽くして天命を待ち、その天命が死であった。
生者はそれを受け入れなければならないだけだ。
だから、僕は「お悔やみ申し上げます」とともに「お疲れ様でした」と声をかけた。
世の中には、無念の死は数多くある。
交通事故の犠牲者の遺族は、やりきれない思いを抱えて生きなければならない。
ともあれ、死は絶対的なものだ。
僕も死ぬし、あなたも死ぬ。
それでも世界は続く。
残された人は、葬式の準備のあわただしさの中で、ゆっくりと日常を取り戻していく。
まったく、世界というのはどういうものなのだろうか。
「世界の終わり」というロマンティックな響きは、いったいどこからきたのか。
ただひとつ、僕が死ねば、僕の物語が終わるということだけだ。
だからこそ、生きているうちに、気が確かなうちに、残せるものは残していきたい。
この文章を読む人が一人もいなくてもいい。
そんなことを考えながら、クリスマスの夜を過ごす僕であった。