よつばとえいえん

 
 先日、二年半ぶりに発売された『よつばと!』最新刊13巻を読んだ。
 

 
 刊行ペースは遅いが、雰囲気を乱さないように徹底されているのが、この作品の特徴である。
 十年以上前に始まった作品だが、我々は年をとっても、よつばは年をとらないのだ。
 
 この13巻の見どころは、子供特有の「ぐずり」の場面だろう。
 
 今年の正月休みでも「帰らないでー」と駄々をこねる子供たちが全国にあふれていたと思う。
 しかし、当の子供たちは、やがて自分たちがぐずっていたことも忘れるようになる。
 
 はたして、よつばが「ばーちゃん」との別れでどんな言動をとったのか。
 連載スケジュールから解放された『よつばと!』ならではの、演出の巧みさが光るシーンである。
 
 さて、この場面で、よつばが「えいえん」という言葉を口にしている。
 具体的には、第89話の11ページ目。
 

 
 思い返せば、我々も子供の頃は「えいえん」を信じ、「えいえん」を恐れたものだった。
 遠足の前日はなかなか眠れなかったし、旅行のときは永遠に帰らないでと願ったものだ。
 子供だけではない、ほとばしる情熱で恋愛をしている人は互いに永遠の約束を交わす。
 大人になるということは「永遠」を信じなくなることかもしれない。
 
 話を少し変える。
 この年末に、年甲斐もなくサリンジャーが読みたくなって、新宿に繰りだしたとき「永遠」という文字を目にした。
 それは黄色い背景に黒い文字で書かれた、キリスト教看板である。
 

 
※参考画像(Hyenasclubsより借用)
 
 キリスト教徒にはおなじみの聖書の警句が書かれていて、録音された牧師の説教が延々と流される、クリスマス前後から年末まで続く、繁華街の風物詩だ。
 僕が見たときは、メガネ白人が看板を持っていた。
 この寒空の下、けっこうなことである。
 
 これらの行動がキリスト教普及に役立っているかどうかはさておき、このキリスト看板で引用される「永遠」の語句が出てくる聖書の一節は、次のとおり。
 

信じる者は永遠の命を得ている
 ――新約聖書ヨハネによる福音書」6章47節

 
 ここでいう「永遠の命」というのは「不老不死」とはちょっと違う。
 
 そもそも、旧約聖書には死者の世界というのが存在しない。
 一神教だから死者の神がいないからである。
 だから、かつてのユダヤ教正統派サドカイ派)は魂は肉体とともに滅ぶとした。
 しかし、民衆の支持を得ていたファリサイ派は魂が不滅であると説いた。
 いわば、民衆の願望によって、魂は不滅でなければならなかったとされたのだ。
 
 もし、魂が不滅であるならば、死後、魂はどうなるのか?
 その疑問から提案されたのが「陰府」である。
 地中深くに死後の魂が眠っている世界があるというのだ。
 この概念は旧約聖書の初期作品群には書かれていない。
 中東やエジプト、そしてギリシャの神々の影響を受けて、ひょっこりと生まれた概念である。
 
 そこから、キリスト教では「最後の審判」という概念が生まれる。
 キリストが降臨して、すべての魂が裁かれるというものだ。
 そのとき、選ばれたものが「神の国」だか「天の国」だかに行くことができる。
 
 これが【キリスト降臨のときに選ばれし者は天国に行って永遠の命を得ることができる】という考えである。
 キリスト教は「信じれば天国に行ける」という宗教と思っている人も多いだろうが、そう甘いものではない。
 最後の審判であるキリスト降臨がなければ、人間は天国(神の国)に行くことはできないのだ。
 
 このような神学を打ち立てたのが、新約聖書の多数の手紙が収録されている伝道者パウロである。
 このパウロ書簡とされているものの中に、非常に有名な一節がある。
 

わたしたちは「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました
  ――テサロニケの信徒への手紙二 3章10節

 
 「働かざる者食うべからず」の警句は新約聖書が由来である。
 それが生まれた経緯がなかなか面白い。
 
 この「テサロニケの信徒への手紙二」は、その前に書かれた「テサロニケ信徒への手紙一」を補足する目的で書かれている。
 というのは、手紙一でパウロは高らかにこう書いているからだ。
 

主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません
  ――テサロニケの信徒への手紙一 4章15節

 
 パウロはキリスト降臨(裁きの日)が自分の生きているうちに来ると確信していた。
 しかし、パウロは謙虚にも、その日が来ても死者の魂を優先するから、我々は焦ってはならないと説いたのである。
 なお、パウロローマ皇帝ネロのキリスト教迫害で殺されたといわれている。
 紀元65年頃であり、今から約2000年前の話だ。
 
 ともあれ、パウロは積極的に「裁きの日は近い」と民衆に説き回った。
 今の言葉でいうと「まもなく世界の終わりが来るが、神に選ばれた者は永遠の命が得ることができる」となるだろうか。
 こうして、パウロが作った教会が信者数を増やしていくが、困ったことが起きた。
 
 キリスト降臨が近いのならば、無理して働かなくてもいいじゃないか、という怠惰な人たちである。
 20世紀末には、ノストラダムスの大予言という、根拠のない終末論が流行したが、そのときも「世界が終わるのならば、真面目に生きるだけ無駄だ」と公言する者たちがいた。
 そんな怠惰な信者ばかりが増えてしまえば、教会の経済はやっていけない。
 初期キリスト教会には国家の後ろ盾がないから、その共有財産は信者自身が稼がないといけないのだ。
 
 だから「働かざる者食うべからず」という警句が生まれた。
 世界の終わりは来る、でもいつ来るかはわからない。
 だから、そのとき救われるのを信じながら、日々働いてがんばろう。
 世界の終わりを待ちわびるだけの怠け者には、食べ物をわけてやる必要はない。
 イエス・キリストは誰にもわけてやれといったが、そんなことをしたら士気が下がるから仕方ないのだ。
 というふうにして、キリスト教徒は2000年、キリスト降臨という名の世界の終わりを待ち望んでいる。
 
 ちなみに、この警句が書かれた「テサロニケ信徒への手紙二」はパウロ自身の手ではなく、後世の偽作であるという説が根強い。
 「働かざる者食うべからず」と怠惰な信者に説教する根拠として、パウロの権威を利用したという説である。
 その真偽の分析はマニアックな内容なので省略するが、ともかく、世界の終わりを待ち望むだけの信徒が増えたことに、初期キリスト教会が危機感を覚えたのは事実であろう。
 
 話を「よつばと!」に戻す。
 我々は子供のころ、永遠を信じるのと同じように、世界の終わりを恐れていたものだ。
 これは、宗教観に関係なく、人間ならば誰もが持っているものだと思う。
 心理学だと「集合的無意識」となるだろうか。
 同じように、我々は安易に神にすがりついたものだ。
「おやつを我慢しますから、お母さんに怒られないようにしてください」
 子供の考える世界とはそのようなものである。
 
 古代のユダヤ人が願った「永遠の命」はどうであろう。
 ユダヤ人の支配者は次々と変わった。
 アッシリアバビロニアペルシャマケドニア、エジプト、シリア、そしてローマ帝国である。
 支配者が代わるごとに、彼らは略奪されるだけでなく、自分たちが守ってきた先祖代々の風習を禁止される恐怖におびえた。
 自分の文化を守ることが、人間にとっての正義であるからだ。
 だが、自分たちはあまりにも無力で、神に祈ることしかできない。
 その背景から、キリスト教がいう「最後の審判」とか「主の日」とか「キリスト降臨」という概念が生まれた。
 つまり、時代に左右されない絶対正義を信じたかったのである。
 
 「よつばと!」はのらりくらりと新たな物語を紡いでいく。
 たぶん、未完成であることが、もっとも大事なものであるかもしれない。
 「小岩井よつば」という少女には、もともとモデルがいたかもしれないが、連載から十年たったとなれば参考にすることはできない。
 それでも、漫画の中のよつばは少しばかり成長しながらも、我々に永遠の日常を見せてくれる。
 
 永遠を望む背景には終末観がある。
 思春期に誰もが「世界の終わり」を妄想しただろうが、それもみずからの「永遠」を願っていたからだ。
 仏教にも末法思想がある。鎌倉時代には、現在につながる新たな仏教が日本でも生まれた。
 今回はキリスト教を中心に語ったが、同じような内容は日本仏教でも語れるのかもしれない。