マイケル・ジャクソンへの誤解をといてみる

 
 生前のマイケル・ジャクソンに関心を抱かなかった僕だが、その死後、あまりにも多くの嘘がまかり通っていることを知った。
 これまで、僕はマイケル・ジャクソンのことについて、ほとんど頭を費やさなかった。人間の思考には限界がある。だから、何となく、マイケル・ジャクソンについては周囲に流布する情報の、よりわかりやすいものを信じてきた。
 その結果が「黒人であることをやめたくて肌を漂白したが、整形のしすぎて顔面崩壊した」という例のイメージである。
 
 マイケル・ジャクソンの外観については、すでにWikipediaで掲載されていたし、マイケル自身も何度もコメントしていた。
 しかし、それらはマイケル・ジャクソンの社会性の高いメッセージ・ソングと同じく、人々にとっては耳ざわりの良いものではなかった。ゆえに、彼のことに興味がない人には、その事実は伝わらなかったのである。
 マイケル自身の「醜い姿を自分を信じているファンには見せたくない」という過剰な美意識も要因のひとつだと思われるが、ここでは動画をまじえながら、僕なりの言葉でマイケル・ジャクソンに対しての誤解をといてみよう。
 
 

 
 まず、マイケルが患っていた尋常性白斑について、検証動画があったので紹介しよう。
 
 尋常性白斑は、肌の色素が抜ける病気であり、そのまだら模様は見る者にとっては不快感を招くものだ。
 パフォーマーとしてのマイケルが、これをファンの前で必死で隠そうとしたのは当然のことだろう。
 
 
 しかし、これらの肌の色素がなくなったことに、白人になりたいという願望を見出すのは、彼の曲を知らない人のみが許されることだ。
 マイケル自身が書いた曲の歌詞を見れば、誇り高き黒人であり続けようとした彼のことがわかるはずだ。
 「Brack or White PV―無言で繰りひろげられる人種差別への怒り」という記事で書いたように、マイケルは黒人差別にまつわる曲を数多く発表した。
 ただ、それらをメディアは積極的に知らせることはなかった。
 

 
 死の二日前のリハーサル映像で流れた「They Don't Really Care About Us」もその一つ。
 このPVは「暴力的表現」という理由で放映が見送られた未発表バージョンである。
 
 歌詞の中で、公民権運動のために生涯を捧げた黒人牧師キングの名が出てくる。
 この曲はキング牧師が暗殺され、「誰も俺たちをかまっちゃいない」状況で生きてはならない社会を痛烈に批判した歌詞なのである。
 

 
 死の寸前のリハーサル映像では、間奏の「ポォッ!」のあとでキング牧師の演説が流れる。米国の人は、その表現形式で、マイケルが伝えようとしたものを瞬時に理解できただろう。
 ミュージカル形式のステージで、それらのメッセージを歌うマイケルはカッコいい。しかし、これらの社会性は、すべてのマイケルファンには受け入れがたいものだった。
 「ヒストリー」以降にマイケル単独の作詞作曲が少なくなったのも、このような曲しか書けなくなったせいではないかと思う。彼の歌詞はあまりにもシンプルであり強烈だ。そして、それゆえに、彼の新曲が広く放送されない結果を招いたのだ。
 ドラッグやセックスをテーマにした曲のほうが、彼の曲に比べてはるかに安全とされたからだ。
 
 このように、マイケルが怒れる黒人の一人としてステージに立ち続けたことは、違う言語を話す日本人とはいえ、理解しなければならないはずだ。
 
 
 整形手術については、鼻と顎については事実で、三回行ったとされる(そのうち一つは事故のため)
 これは批判するほどのものではないと思う。女性アーティストが整形手術やレーザー治療などのために、半年ほど姿を隠すなんてことは、日本の芸能界にもありふれたことだ。
 彼の容貌に大きな影響を及ぼしたのは、むしろ、死のときに50kgしかなかったという体重だろう。40代をすぎてもなお、二十歳のようなスマートなパフォーマンスを見せたかった彼は、その限界ラインの体重を保とうとしたのである。
 それは、死の寸前のリハーサル映像を見ればわかる。今となっては、衣服の下の手足の細さを想像して、痛々しく感じるほどなのだが、その細さが華麗さとなり、バックダンサーにも劣らぬ存在感を出すことができたのだ。
 おそらく、彼にとっては、ステージでの自分がすべてであり、そのために生活を犠牲にしていたのだろう。やせこけた頬はメイクで隠すことができる。しかし、肉のついた手足は立ち振る舞いでは隠すことができない。
 
 僕がマイケル・ジャクソンを好きになれなかったのは、30代には30代の、40代には40代の音楽があると思っているからだ。僕が好きなボブ・ディランルー・リードは、自分の世代に応じてスタイルを変えながら、自分の代表曲を歌い続けてきた。マイケルだって、二十歳の自分にこだわることはなかっただろうに、と思う。
 
 しかし、死の二日前のリハーサル映像を見ると、そこまでして見せようとしたものがわかる。おそらく、彼は同世代のファンに若返ってもらいたかったのだろう。昔と変わらぬマイケル・ジャクソンを見て、自分を信じていたファンに活力を与えたかったのだろう。
 そして、それがマイケル・ジャクソンの持つ魔法だと彼は信じていたわけだ。
 
 
 薬物中毒については、火傷の事故が大きく関係しているのではないかと言われている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090717-00000066-jij-ent
 
 それから頭髪はすべて剃ったのか、ウィッグを部分的に使用していたかはわからないが、それは傷跡のみならず、鎮痛剤服用による中毒をもたらした。
 彼はバッシングによる精神的苦痛すらも、鎮痛剤で何とかしようとしたのかもしれない。
 
 マイケル・ジャクソンはドラッグを礼賛するような歌はうたっていない。
 ショート・フィルムならびにゲーム化もされた「Moon Walker」は子どもをドラッグ中毒にする悪の組織と戦うマイケルという構図だ。
 
 ドラッグというテーマは、マイケルの歌の世界とは大きく反するものだった。
 しかし、全身性エリテマトーデスという病魔におかされていたことももあり、鎮痛剤の服用は許容量をはるかにこえたものになったらしい。
 
 
 性的虐待については、無罪を勝ち取るために多額の弁護料を払ってもみ消したと信じている人が一般的かもしれない。二度との結婚生活が長く続かなかった彼に、大人の女性に興味なかったと考えている人がいるのは仕方ないだろう。
 ただ、尋常性白斑だけではなく、全身性エリテマトーデスなどの病魔におかされていた彼との生活は尋常ではないものだっただろう。執拗なメディアに激昂して、自分の子どもをベランダから見せた行為は決してほめられるべきものではないが、それだけで幼児虐待に結びつけるのはおかしいのではないか。
 そもそも、性的虐待を訴えた少年の証言による、尋常性白斑のまだら模様と、実際のまだら模様とは異なるものだった。これらの物的証拠があるのにかかわらず、人々はマイケルのゴシップを鵜呑みにしてしまった。
 
 死の二日目のリハーサル映像を見れば、マイケル・ジャクソンがステージに立つために、どれほどの身を捧げていたかがわかる。そして、そこでは人種差別批判を高らかに歌っていた。
 そんな彼が、少年に性的虐待をしたとは、どうも思えないのだ。むしろ、彼の性的観念は、もっと潔癖なものではないだろうか。
 マイケルの証言を改めてふりかえってみると「生理的嫌悪感」を強く感じる。
 彼は良い意味でも悪い意味でも純粋な人だったのだろう。苛められても無反応になることができない子どものように。
 メディアからすれば、マイケル・ジャクソンはイジめがいがあった。彼はあらゆる富と名声を手にしていると思われていた。だから、それらのいじめは許されると思ったのだ。どれだけ彼が傷つき、それを見返すために最高のパフォーマンスをしようと生命を削り続けたことも知らずに。
 
 
 その集大成であった「This is it」と名づけられた最後のロンドン公演は、残念ながらリハーサル映像で遺しただけに終わった。
 
 マイケル・ジャクソンの死後に明らかにされた事実は、僕に多くの教訓をもたらした。まさしく「無知は偏見である」とのマイケルのメッセージの通り、みずからを恥じる思いになったものだ。
 ただ、それで、偽りのマイケル・ジャクソン像を流布し続けたメディアを批判するのもどうかと思う。それほど社会は簡単には変わらない。まずは、そのとき感じたものを知人に話したり、ブログに書くことから始めてみるべきではないか。それが、もっと僕より大きな影響力を持つ人たちの心を動かすことができると信じて。
 そんなことを考えながら、今日もマイケル・ジャクソンの曲を聴いている。彼のシャウトに心を震わせながら。