性転換ハルヒにおけるエンドレスエイト的手法とか
先日の記事での僕の予想は見事に外れた。
2009年度版「涼宮ハルヒの憂鬱」第25話「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」について、僕は2006年度版のまま放映したら「浮いてしまう」と考えていたのだが、3年前のアニメ版を旧EDの「ハレ晴れユカイ」とともに、そのまま再放送されたのである。
その結果、「(三年前の)一期は良かった」「(2009年度版には関わっていない)山本寛さん、ハルヒ制作スタッフに戻ってくれ!」という後ろ向きな発言が、ファンの間で相次いでいる。
SOS団の自主制作映画という体裁を取っている「朝比奈ミクルの冒険」は、2006年度版では、第一話として放映された。
原作を読んでいない人間は、それを見て、面食らったことだろう。
調子っぱずれな主題歌と、アラだらけの映画を、わざわざアニメ化して、最初に放映したのだから。
この実験的試みを「8話連続エンドレスエイト」と比較する者がいるが、その動機は完全に異なる。
涼宮ハルヒシリーズという人気ラノベをアニメ化する際、様々な方法があったはずだ。
どのように、ハルヒの世界観をアニメで伝えるべきか?
その方向性を決めるために、あえて、SOS団自主制作映画のアニメ化に挑戦したのだと思われる。
結果として、キョンを語り部にした、ハルヒアニメ独特の作風が生まれたのだ。
視聴者には不親切な内容であっただろうが、制作スタッフの野心がうかがえる試みであった。
「エンドレスエイト」に関しては、先日の記事で書いたように、「消失」(四巻)のアニメ化を先送りするためには8回放送するしかなかった、という大人の事情のせいにすぎない。
次につながったわけでないし、新しい作風を何一つ発見することはできなかった。
さて、先日の記事で、「消失」が終われば、残りのアニメ化は絶対にない、と断言している僕だが、それ以降の原作に魅力がないわけではないと思っている。
例えば、以前に書いた下の記事をご覧いただきたい。
⇒【全冊レビュー】涼宮ハルヒの憤慨 (紹介者:涼宮ハルヒ)
これは、シリーズ八巻目の「憤慨」を、ハルヒ自身が紹介するという、二次創作のようなもの。
ハルヒ視点だから、その後ろでキョンがいろいろやっていたことを知らず、ハルヒは「役立たずキョン」と一蹴している。
この「憤慨」は、高校の部活動らしいエピソードになっているので、ハルヒが紹介しても問題がない内容になっている。
もちろん、ファンの誰もが駄作と認める、七巻目の「陰謀」もレビューしている。
⇒【全冊レビュー】涼宮ハルヒの陰謀 (紹介者:鶴屋さん)
こちらは鶴屋さんに任せてみた。
鶴屋さんは、SOS団のことをほとんど知らないわけだから、「陰謀」の内容をほとんど語ることはできない。
でも、鶴屋さんの美化フィルターを通さないと、レビューなんかやってられないのが「陰謀」という本なのだ。
シリーズでもっとも人気のある、四巻目の「消失」は朝比奈みくるに紹介させてみた。
⇒【全冊レビュー】涼宮ハルヒの消失 (紹介者:朝比奈みくる)
「消失」の内容は、みくるにとって、もっとも語りたくない内容なので、ものすごく歯切れの悪い紹介になっている。
みくるの身からすれば、「消失」以降のキョンの優しさは、辛いだろうなあ、と思う。
と、「消失」後のアニメ化がないと断言しているのは、それ以降の作品集とエピソードを読み砕いた上での感想であることをご承知いただきたい。
ところで、「エンドレスエイト」のループ手法を見ながら、僕はあることを思い出した。
このブログで連載していた「涼宮ハルヒコの憂鬱」のことである。
⇒涼宮ハルヒコの憂鬱 【目次】
この作品は、いわゆる「ハルヒ性転換小説」のひとつということになっている。
去年の2月に、ニコニコ動画で、ハルヒシリーズのキャラの性別を転換させた作品がアップロードされ、たちまち人気を博した。
⇒ハ/ル/ヒたちを性転換させてみた - ニコニコ動画
それまで、登場人物のキャラを性転換させる「TS」というジャンルは、女性ファンの間ではさかんだったが、表に出ることはなかった。
しかし、その動画のクオリティは、女性のみならず男性ファンの創作意欲をも駆り立てたのである。
それら「キョン子シリーズ」は、今でも、新たな同人誌が発表されているぐらいだ。
そのほとんどは当然のことながら二次創作である。
しかし、僕が書いたものは、厳密にいえば、二次創作ではない。
似て非なる内容だからである。
僕の書いた「涼宮ハルヒコの憂鬱」は、目次をご覧になればわかるとおり、最初は「ハルヒ」と同じように進行する。
サンタクロースのエピソードから始まり、ハルヒコ君の素っ頓狂な自己紹介があり、そして、キョン子を巻きこんでのSOS団設立。
それはあたかも、男女を逆にしただけの、まったく同じ物語のように映るかもしれない。
ただし、細部はいろいろ異なる。例えば、キョン子ちゃんはハルヒコ君をこう分析する。
勉強ができて、スポーツもできて、ルックスも悪くない。
それなのに、涼宮ハルヒコは、宇宙人とか超能力者とかそういうわけのわからない類(たぐい)のものを信じていて、
それがいつまでたっても自分の前に現れないことにいらだっているらしい。
バカな男だ。
一流大学を目指して勉学にはげみ、県大会優勝を目指して部活動に精を出す。
それこそが、高校生活という枠内でできる最善の努力ではないか。
まあ、帰宅部で成績が良くない私が言っても説得力がないのだが。
長門くんがいつも読んでいるSF小説についても、キョン子ちゃんは女子高生らしくバッサリと切り捨てる。
SF小説。
それは、私にとって無縁の物語であり、今後もできることなら無関係でいたい世界の物語である。
そんな荒唐無稽な話を読むのは、だいたい、理系タイプに多い。
私は数学を天敵とする、れっきとした文系人間である。
SFからもっとも遠い次元に存在する人間といっていい。
そんな本がギッシリ詰まった棚を見ていると、長門ユウキが涼宮ハルヒコを受け入れた理由が見えてくる。
彼も宇宙人を信じたいのだろう。
あんな冷静な顔をしながら、奇想天外なロマンに憧れているのだ。
あの眼鏡の奥では、宇宙船がドンパチをくりひろげているのだ。
もちろん、これを書いている僕がSF小説を嫌っているのではない。
僕はカート・ヴォネガットなどのSF小説を愛読している男である。
ただ、キョン子ちゃんが、世のほとんどの女性と同じく、SF小説の存在価値を知らないだけなのだ。
と、こんなふうに、団員が増えるにしたがって、「ハルヒ」との剥離が目立つようになる。
そして、SOS団が五人がそろったとき、まったく別の物語が始まる。
長門くんは電波な会話をすることはなく、朝比奈先輩は宗教勧誘じみた長い説明をすることもなく、古泉ちゃんが別空間へとキョン子をいざなうこともないのである。
これは、執筆当初から意図的なものだった。
僕が「涼宮ハルヒコの憂鬱」で書き始めたのは、「ハルヒ」を読んで満たされなかった人たちを楽しませる、別のSOS団を、主要人物を性転換させることで作ることができると思ったからだ。
だから、「ハルヒ」では不足していた友情成分を、僕の「ハルヒコ」では重視して書いている。
僕の「涼宮ハルヒコの憂鬱」では、第三章にて「ハルヒ」の「消失」で書かれた、主人公のキョン子の内面的成長を描いている。
第四章では、「ハルヒ」では「憤慨」になるまで書かれなかった、SOS団の部活動らしさを描いている。
こうして、「ハルヒ」とは性別だけでなく性質も異なる、アナザーSOS団を表現してみたのだ。
ところが、多くの人が求めている「ハルヒ性転換」は、僕のようなアナザーSOS団ではなかった。
それは、「ハルヒコWiki」をご覧になればわかる。
⇒涼宮ハルヒコの憂鬱(仮)@まとめwiki
そこでは、性別を転換させただけで、原作の雰囲気をきわめて大事にした「ハルヒコ」の物語が掲載されている。
僕の書いた「ハルヒ性転換」はそうではない。
そもそも、「ハルヒ」を読まなくても楽しめるように、登場人物をイチから紹介しているからだ。
しかし、最初は、あたかも「ハルヒ」と同じように語られているため、読み飛ばしてしまう原作ファンが多かったみたいだ。
実のところは「ハルヒ」では語らなければならないことを、あえて書いていなかったりして、別の世界観であることを暗示しているのだが、ほとんどの人が、ハルヒをもとにしたのだから「セカイ系」の物語だと信じきって読んでいた。
だから、別のエピソードが語られるようになり、ハルヒコ君に特殊能力がないことがわかると「ついていけない」と読むのをやめてしまったわけである。
この連載は、多くのコメントやメールをいただいたが、「ハルヒ」を読んでいない人のほうが、高評価を与えてくださった。
(今は管理のわずらわしさから、非公開にしてるけど)
「ハルヒ」の知識がないほうが、すんなりと楽しめる内容かもしれない。
と、一年前に書いた自作について長々と語ったのは、「エンドレスエイト」だって、八回もやるんだったら、出発点は同じでも、それぞれ異なる到達点があっても良かったのではないか、ということを言いたかったからだ。
ループ構造は、ノベルADVを中心に、ゲームでは効果的に使われている。
「ハルヒ」のゲームだって「戸惑」でループは使われている。
フリーゲームだと「ひとかた」が有名だ。
⇒和風伝奇ノベル「ひとかた」downloadページ - Vector
その「ひとかた」では、主人公が何度も勝ち目のない相手に挑まなければならない、という悲愴感がうまく描かれていた。
「エンドレスエイト」では、視聴者がループに耐えきれなくなっても、登場人物はさしたる努力をしようとしない。
フリーゲームですら、そんな工夫のないループ構造は許されないと思う。
まあ、原作に関しても、「消失」以降で、ハルヒが自分の潜在能力に気づかないのが、あまりにも不自然だと考えている。
観察眼の優れた彼女が、その可能性に気づいてもおかしくないし、それをもとに新たな物語が生まれるはずなのだが。
ハルヒの身になってほしい。
自分が精一杯ふるまっているから、多くの団員がついてきてくれてると信じているのに、実は残りの部員は、自分の潜在能力の後始末に追われているだけの関係なのだ。
「分裂」(九巻)で登場した佐々木が、次の「驚愕」(発行延期中)でハルヒにその潜在能力を教えると思っているが、どうも、今の原作者の体たらくを見ると、それをうまく描ききることができないのではないかと不安になってしまう。
谷川流という作家について、僕は「涼宮ハルヒ」というモンスターのような女の子を生み出したことについては、素晴らしい功績だと思っている。
ところが「消失」を書くことで、その怪物性は奪われてしまった。それから、長門がメインヒロインになり、慌てて、みくる中心のストーリーを作って失敗した。そして分冊となった「分裂」のエピソードは三年たっても続きが出る予定がない。
これでは、原作者を批判したくなるのも仕方ないことではないか。
と、またまたハルヒのことを書き連ねているのは、このブログが「ハルヒ」がきっかけで始まったからである。
最初の記事を読めばわかると思うが、このブログは、ハルヒシリーズの感想を書くために作られたのだ。
ということで、ハルヒの2009年度版アニメに不満を抱いている方は、うちの「涼宮ハルヒコの憂鬱」でも読んでみてください。
いい退屈しのぎにはなると思います。
⇒涼宮ハルヒコの憂鬱 【目次】