「これぐらい、戦争なら当たり前」と言う人たち


【関連ニュース】
YouTubeに「子犬を崖に投げ殺す」米兵らしき映像 - 残酷さに批判相次ぐ


 先日、キューバ革命の司令官として活躍したチェ・ゲバラの「革命戦争回顧録 (中公文庫)」を読み終えた。
 本書には「殺された子犬」というエッセイがある。軍事作戦遂行中に、兵士の一人がつれた子犬が吠え始め、敵に存在を知られる可能性が出てきた。指揮官であったゲバラは子犬を殺すことを命じる。そして、その夜、他の子犬を見たとき、殺した犬と同じ瞳の色を見て、ゲバラは動揺した、という数ページの短編である。
 キューバ革命後、ゲバラは戦犯裁判の責任者となり、550人の死刑を執行した。
 550人を処刑した人間が、一匹の子犬を殺したことを感傷的に書く。このことに偽善を感じる人はいるだろう。しかし、550人の処刑をキューバ国民は支持した。それほどまでに、革命戦争に乗じて、街では多くの犯罪が行われていたということだ。


 「秩序を失った軍隊の残虐な行為」は決して正当化されるものではない。今回の「子犬を崖から投げ落とす」動画を見て「これぐらいは戦争では当たり前」と、したり顔をしている人間に、僕は恐怖を抱く。
 もし、戦時下になったとき、そのような人間は「混乱に乗じて」積極的に犯罪行為に手を貸すだろう。そのような人間は、決して許してはならない。



 ベトナム戦争の凄惨さを伝える言葉の一つに「ブービー・トラップ」というものがある。仕掛け爆弾のことをさす。

wikipedia:ブービートラップ

 火力で圧倒的に優勢な米国に対し、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)ブービー・トラップを多用した。撤退した陣地に散乱した武器には必ず仕掛けていた。
 米国兵の死体にもトラップを仕掛けた。米国兵が仲間を助けようとすると、それが引き金になって爆発するのだ。
 なかには、生死をさまよう重傷者にも仕掛けられていた。一刻一秒を争う状況なのに、爆弾を除去が確認できなければ、治療することができなかった。
 多くの米国兵は、このブービートラップのために、精神を害したという。


 なぜ、ベトコンはこんな非人間的な戦術を多用したのか。一つは、相手が白人や黒人であったことだろう。つまり、自分たちとは違う人種なのだから、人間扱いしなくて良いと考えたのだ。
 しかし、このような残虐きわまる戦術を使わざるをえない理由もあった。そうしないと勝てないからだ。
 ベトコン兵は、白にぎり飯だけで戦った。米国兵は軍から支給された、バランスのとれた軍用食をとっていた。制空権は米国にあり、空襲作戦が常に行われていた。武器の数も質も圧倒的に劣るベトコンが取らざるをえなかった手段、それがブービートラップであり、竹やりであったのだ。


 ベトナム戦争の有名な写真のひとつに、ゲリラ兵を射殺したものがある。これを見て、国際世論は米国に非難の声を上げた。米国軍からすれば予想外の反応だったと思う。なぜなら、非正規兵(軍服ではない兵士)の公開処刑は、当時の国際法(ハーグ陸戦条約)では合法だったのである(1977年に改正された)
 ゲリラ戦術は正規兵と非正規兵との区別をなくした。15年戦争時の日本軍も「便衣兵」と呼んだ非正規兵に多大な犠牲をこうむり、そのうらみが南京事件南京大虐殺)につながったといわれる。
 イラクでも、目だった報道はされていないが、民間人との見分けがつかない非正規兵たちに米国兵は苦しめられているのかもしれない。


 だが、それでも「人間として許されない行為」というものはある。


 1959年1月3日、革命軍司令官の一人、チェ・ゲバラキューバの首都ハバナに入った。ハバナの治安は乱れていた。キューバ中部の大都市サンタクララゲバラ軍が制圧したのは、その数日前である12月30日である。
 まだ、政府軍に余力はあったのに、大統領バチスタは12月31日に、辞任宣言をして米国に亡命した。理由は、米国が革命軍の完勝を恐れたからである。これ以上、戦争を長引かせると、フィデル・カストロ率いる革命軍の人気は、絶対的なものになる。そうさせないために、無理やり戦争を終わらせたのだ。
 そのため、首都ハバナ市民に革命の終結の実感はなかった。戦時の混乱のために略奪などの犯罪行為がはこびっている。ストライキと称して、労働者は動かない。
 1月4日、ゲバラは大統領官邸を奪取した。そして、武装兵士を街にくりだし、挑発や犯罪をする市民を捕らえ、労働者を無理やり働かせた。
 この武断さによって、首都ハバナの治安は回復する。それを確認して、革命軍総司令官のフィデル・カストロは首都入りした。そして、ゲバラを戦犯犯罪の裁判責任者に命じた。
 その結果、550人の死刑が執行される。米国をはじめ国際世論は、これを批判したが、キューバ国民はこれを支持した。それほど、戦時下のキューバでは「戦争の混乱に乗じた」犯罪が起こっていたのだ。


 「秩序を失った軍隊の悲惨な行為」は、いかなり理由があっても正当化されるものではない。武器を手にした人々が興奮する様子は、60年代後半の「新左翼」の若者を追っていけばわかる。だから、僕は武器を手にせざるをえなかったアルゼンチン人医師ゲバラの言葉に思いを寄せてしまうのである。ゲバラがどれだけ戦争が苦手であるかは著作を読むとわかる。もちろん、彼には司令官には欠かせない冷徹さはあったが、軍事行動中でも愛読書を手放すことはなかった。


 現在、キューバは経済的に遅れている。長らく、安全な国と呼ばれていたが、最近では観光客の携帯電話やデジタルカメラをねらった犯罪が多いと聞く。いくら、理想を並べたところで、経済的に貧しい人たちは不幸なのだ。カストロによるキューバ革命は、経済的には完全に失敗した。人々は、もう、共産主義に幻想を抱かなくなった。
 とはいえ、キューバ革命が魅力がうすれるわけではない。そして、その司令官の一人であるゲバラが、一匹の子犬を殺したことをエッセイで感情的に描いたことは、後世に語り継ぐべき歴史である。


 戦争は許されざる人類の罪悪である。しかし、戦争でなければ「持たざる者」は「持てる者」にはかなわない。
 南米やアフリカでは、今でも、他殺率が自殺率を上回る国がある。



 戦争は憎むべきだが、それよりも憎むべきは「戦争の混乱に乗じて卑劣な行為をする」人々だ。
「戦争だから当たり前」という言葉こそ、もっとも許してはならない言葉なのである。