【感想2】映画『沈黙』がアカデミー賞候補から外れた理由
1月24日、第89回アカデミー賞のノミネート作が発表されたが、『沈黙―サイレンス―』は「撮影賞」1部門という残念な結果に終わった。
・第89回アカデミー賞ノミネート発表!「ラ・ラ・ランド」が最多14ノミネート : 映画ニュース - 映画.com
スコセッシ監督はこれまで監督賞に9回候補にあがったアカデミー賞の常連。2014年の監督作品『ウルフ・オブ・ウォールストリート』では、作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞・脚色賞の6部門にノミネートされた。今回の1部門はさみしいかぎりである。
なぜ、『沈黙―サイレンス―』はアカデミー賞から黙殺されたのか。その理由を探るべく、1月29日に二度目の鑑賞をした。
一度目の感想では絶賛したので、二度目の感想は少し批判的に書いてみよう。
【目次】
(1) BGMを排した演出によるわかりにくさ
(2) ノーベル文学賞に至らなかった原作小説
(3) キャスティングは話題性が乏しかったか?
(4) パードレ=司祭をカクレキリシタンが守った理由
(5) 唯一アカデミー賞にノミネートされた「撮影賞」
(6) 109シネマズ川崎20:10〜
(7) 二度目の『沈黙―サイレンス―』鑑賞後に聴いた曲
(1) BGMを排した演出によるわかりにくさ
スコセッシ映画で多くの音楽監督を担当しているのが、ザ・バンドの元リーダーであるロビー・ロバートソン。
この『沈黙ーサイレンスー』でも、彼の名前がクレジットされていたが、はたしてどれほどの仕事があったのだろうか。
本映画は、オープニングテーマどころかエンディングテーマもない。BGMはマカオや長崎の街の音をのぞけば、ほんのわずかだ。
これは遠藤周作の原作小説に即して映画化した結果だといえる。『沈黙』のテーマの一つに、キリシタンの殉教(棄教せずに死ぬこと)に対して、自然が何の反応も示さなかったことがあげられる。だから、死の瞬間に特別な演出は為されてはならないのだ。それでは神が沈黙していることにならない。
このおかげで観客がわかりにくい場面が多い。その代表例が小松菜奈が演じる村娘(洗礼名モニカ)の最期のシーン。
本映画でのヒロインといっていい、小松菜奈演じる村娘については、その死に至るまでの心情が比較的わかりやすく描かれている。ただし、連行されるときにロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)に駆け寄った動機が映像では表現されていないため、その最期の場面に納得できなかった人がいるかもしれない。
想像力を働かせれば、彼女が恐れていたのは死ではなく、死後のことであったことがわかるはず。だから、彼女は抵抗することなく死んだ。おそらく、彼女は満面の笑みを浮かべたまま死んだのではないか。
本映画はキリシタン弾圧を題材にしているだけに、登場人物のほとんどが死ぬ。そのときにBGMは流れず、効果音もない。しかも火葬するまで描かれる。キリスト教徒は「復活」に備えるために土葬するのが一般的だが、江戸幕府はそれすらも許さなかった。
このような映画を見せられては気が滅入る人が大半ではないか。「救いがない」ことがテーマであるために、その展開にスリルを求めることはできない。キリシタンの殉教のみじめさを痛感させられるだけである。
このようなリアリティはエンターテイメントとは正反対に位置する。特に我々は漫画のデフォルメ表現に慣れている。感動を演出するのがフィクションであり映画の役割であるはずだ。
もちろん、気が滅入る演出は『沈黙』という物語を映画化するうえでは避けられなかったこと。スコセッシ監督の意図は十分すぎるほど、観客に伝わることには成功した。
しかし、原作小説の『沈黙』自体が賛否両論分かれる問題作だった。アカデミー賞候補から外れても当然といえるぐらいに
(2) ノーベル文学賞に至らなかった原作小説
Wikipediaを引用すると「(遠藤周作は)ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ(た)」(出典)とある。
遠藤周作は12歳で洗礼を受けたカトリック作家だが、『沈黙』以降の小説にはキリスト教関係者からの批判が続出していた。
特に『沈黙』は史実をもとにしたフィクションである。同じような事件が歴史で起きたとはいえ、登場人物たちの思想的対決は、ほぼ遠藤周作の創作だ。ただし、一度目の感想で書いたが、これは作品のテーマに現代性を持たせるためには必要だったものである。
もし、史実を知りたければ、新井白石の『西洋紀聞』を読んでみるといい。外国人宣教師と将軍ご意見番だった学者との、本物の思想的対決が書かれている。
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だが、この書に「沈黙する神に祈る人間の弱さ」を見いだすことはできまい。
遠藤周作は小説家の視点で、江戸初期のキリシタン弾圧を調べた。なぜ「踏み絵」が有効だったのか。なぜ長崎・五島列島のカクレキリシタン信仰はカトリックから外れてしまったのか。そこから『沈黙』という物語が生まれ、それが米国映画の巨匠の一人スコセッシを感動させたのだ。
映画は原作小説へのスコセッシ監督の愛情がひしひしと伝わってくる内容だ。スコセッシ自身が小説『沈黙』を読んだときの感動を、いかにして映像化するかを考え抜いた結果生まれた作品であることが、原作小説を愛読した者には伝わるだろう。
ただし「沈黙する神」というテーマは反発を招きやすい。
昨年2016年の米国大統領選挙の結果は、かつての大国アメリカ合衆国が持つ度量の大きさが消えてしまったことを意味すると思う。
米国の映画関係者にとって「日本で行われた過酷なキリスト教弾圧をリアリズムを追求した映像で見せることにより、祈りに沈黙でしか答えない神を信仰する意味を問う」本作は、アカデミー賞候補には値せず、とみなされたのだろう。
(3) キャスティングは話題性が乏しかったか?
スコセッシ監督といえば、2002年の『ギャング・オブ・ニューヨーク』から2014年の「ウォールストリート」までレオナルド・ディカプリオを主演に採用することが多かった。ディカプリオが『タイタニック』の印象を払拭したのはスコセッシ監督のおかげだといっていい。
この『沈黙』でディカプリオを主演にしなかったのは、彼が俳優引退宣言をしたせいもあるだろうが(すぐに撤回)、スコセッシ監督の思い描くロドリゴ像にはそぐわなかったというのが一番の理由だろう。
主人公ロドリゴを演じたのは、アンドリュー・ガーフィールド。映画を観た者には、この配役が成功したと感じるだろう。当初は「線の細さ」が気になったものだが、モキチ(塚本晋也)に対する「踏んでもいい」という言葉、キチジロー(窪塚洋介)への嫌悪感、川の中にキリストを見つけたときの狂った笑いなど、パードレ・ロドリゴを見事に演じていた。
日本人の配役では、当初、渡辺謙が通辞役に決まっていた。渡辺謙といえば米国映画界でもっとも有名な日本人俳優。しかし、スケジュールの都合により渡辺謙は辞退。そこで白羽の矢が立ったのが浅野忠信だった。
浅野忠信の通辞役の演技力に関しては、小松菜奈演じる村娘の死のあと、うずくまるロドリゴに対する台詞の凄味だけでもわかる。
果たして、渡辺謙ならばどう演じていたか想像してしまうが、浅野忠信がミス・キャスティングであったとは、とても感じられない。
その他、日本人俳優に関しては文句のつけようがない。イッセー尾形、塚本晋也、そして窪塚洋介。よくぞここまでのキャスティングを実現できたものだと感嘆したいぐらいだ。
特に、イッセー尾形の百面相とも言うべき演技力の豊かさ。これを見るだけでも映画館に行く価値があると断言できる。
しかし、ただでさえ積極的に見ようとは感じられない題材をテーマにした『沈黙』という映画を考えるうえで、これがベストの配役だったのだろうか。
アカデミー賞を狙うのであれば、小松菜奈以上のヒロインを用意すべきではなかったのか。
それをしなかったことに、僕はスコセッシ監督の誠実さと原作小説への敬愛さを感じる。そもそも、アカデミー賞に評価されることが、映画の質を高めるわけではないのだから。
(4) パードレ=司祭をカクレキリシタンが守った理由
映画で日本人が何度も口にする「パードレ」。これはポルトガル語での宣教師を意味する。漢字で書くと「伴天連」となる。
ただし、作中では「司祭」という意味合いで呼ばれることが多い。おそらく、史実のカクレキリシタンもそうであっただろう。
司祭とは宗教儀式をつかさどる者である。カクレキリシタンにとって、司祭は自分をパライソ(天国)へと導いてくれる存在であった。だから、命がけでカクレキリシタンはパードレを守ったのだ。
これは日本人の宗教観を理解していないとわかりにくい。日本人が宗教を意識するのは「葬式」のときである。例えば、日米戦争時に、米軍は「日本軍は生きている兵隊を冷遇するが、死んだ兵隊は手厚く葬る」と分析している(→関連記事)
カクレキリシタンにとって、パードレが唱えるラテン語の祈りは、真言宗徒のサンスクリットのマントラと同じであった。だから、カクレキリシタンは必死でその祈りを覚えようとした。
キチジローの故郷である長崎・五島列島では、20世紀の終わりまでカクレキリシタンの信仰が残っていた。以前、ブログに書いたので興味がある方は読んでみるといい。
・450年続いた日本独自の民俗宗教 ― 宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』(評価・A) - esu-kei_text
そこでも書いたが、カクレキリシタンにとって、もっとも重要な儀式が「二重葬」であった。江戸時代は寺請制度により、葬式は仏教式で行わなければならないと決まっていた。しかし、それでは先祖と同じパライソに行くことはできない。そこで彼らが生み出したのが「二重葬」である。
カクレキリシタンにとって「踏み絵」が恐ろしかったのは、その罰当たりな行為のせいで、死後パライソに行く権利を失ってしまうと考えたからだ。
だから、本物のパードレであるロドリゴが「踏んでもいい」と言葉をかけたことは、モキチたちカクレキリシタンにとっては救いとなった。パライソへの行き方を知っている権威あるパードレが言うならば、間違いはないと。
ところが、それは役人の意図に反することだった。だから踏み絵だけでモキチを許すことはなかったのだ。
パードレ自身の踏み絵については、役人側はそれ以上の注文をすることはなかった。「踏んでもいい」と口にできる権威がある者はパードレにはいないからだ。主であるキリストをのぞいては。
このような日本人の宗教観ゆえに生まれた「踏み絵」を、映画を観た人がどれだけ理解できたかはわからない。米国人ならなおさらのことであろう。
いっぽう、日本人は新約聖書の内容をほとんど知らない。
キリストの伝道が苦難に満ちたことも、故郷ナザレですら迫害されたことも、ユダ・イスカリオテの裏切りを知りながらゲッセマネで必死で祈ったことも、長期にわたる苦痛の末に十字架上で息を引き取ったことも、日本人のほとんどが知らない。
この「キリストの受難」の物語が、どれほどの外国人宣教師に勇気を与えたことだろう。彼らはキリストのようになりたいと喜んで殉教した。しかし、それは多くの対立をもたらすことになる。その代表例が日本の戦国末期から江戸時代につづくキリスト教弾圧だった。
迫害されるとわかっているのに日本に向かった宣教師の勇気は蛮勇ではないか? この心情を理解するためには、新約福音書のあらすじぐらいは知っておかないといけないはずだ。
個人的に、キリストの受難物語は、映画内でも宗教画で説明したほうが良かったと感じる。日本語訳も問題で「Jesus」「Lord」をどちらも「主」と訳している。聖書の論理に基づけば間違ってないのだが、キリスト教にくわしくない日本人にとっては、ロドリゴの蛮勇の思想的背景に気づかせることに失敗したといえるだろう。
(5) 唯一アカデミー賞にノミネートされた「撮影賞」
この映画『沈黙』のカメラワークは半端なく広い。例えば、ロドリゴたちが潜伏していた炭焼き小屋から出て日光浴をするシーンでは、山脈をまるごと撮影している。BGMがないぶん、鳥のさえずりや波の音などの自然音が強調されて耳に届くため、本当に「キリシタン弾圧が行われていた長崎」を目撃している気分にひたれる。
二度目の鑑賞だった僕には、まるでライトノベルの「俺が過去にタイムスリップしたら」のような臨場感が味わえた。
「これぞハリウッド映画」と誰もが感嘆できるのは、このカメラワークの広さだろう。日本映画だと、ここまで空間の広い映像を撮影することはできないはずだ。
アカデミー賞では、期待された作品賞や監督賞ではなく、撮影賞のみにノミネートされた。それは、思想的に賛否両論が激しく分かれるシナリオは抜きにして、映像美の豊かさが賞賛されたからなのだ。
僕はその映像に浸りながら、自分が江戸初期のキリシタン弾圧の世界にタイムスリップしたら何ができたか考えてみた。
きっと何もできないだろう。
というのは、人を動かす知性というのは、時代を問わないからだ。我々は江戸時代の日本人よりも、多くの知識がある。地動説などの天文学、ウィルスなどの生理学、相対性理論などの物理学などである。しかし、それらの知識で江戸時代の学者を屈服させることができるか。
その具体例が新井白石が外国人宣教師の尋問をまとめた『西洋紀聞』である。我々は新井白石を相手に「この人の学識の高さは日本の宝である」と感嘆させることができるだろうか。
そんな妄想を抱くほど、『沈黙―サイレンス―』の映像は素晴らしい。音による演出が抑えられている分、その美しさがきわだっているといえるだろう。映画館で体験しないともったいないといえるほどに。
(6) 109シネマズ川崎20:10〜
以下はいつもの余談である。
今回は川崎で仕事があって、その帰りに見ることにした。
20時以降のレイトショーなので割引価格1300円。スマホで予約してクレジット決済。僕も本気になればそれぐらいのことはできるのだ。
席はG-1。最後列の端。定員72名の小劇場なので、スクリーンが遠く感じることはなかった。
ただし、二つ隣の席、つまりG-3に座った男がポップコーンをムシャムシャ食べている音がうるさかった。彼は映画館に行くとポップコーンを食べないと死んでしまう病気にかかっているのだろう。愚かなことに。
まあ、そんな音も映画予告のうっとうしさに比べれば微々たるものであった。
『沈黙』本編が始まったのは、20:24ごろ。開場は15分前、つまり19:55からで、僕は20:00には着席していた。結局、20分以上も映画予告編をひたすら見続けたことになる。
僕は『沈黙』を見に来た。そこで使われるBGMは数曲程度。ところが、20分以上に及ぶ映画予告の派手なBGMは僕の耳を粉砕したといっていい。まあ、隣の隣でポップコーンを食べていた男は、本編が始まる前にほとんど食べ終えたみたいで、『沈黙―サイレンス―』鑑賞のさまたげにならなかったことは良かったけれど。
映画の見せ場盛りだくさんの予告編は、緩急はつけているもの、とどのつまりはポップソングにおけるサビである。サビばかり聴いて満足するのは十代の若者ぐらいなものだ。疲れるし、ウンザリしてくる。
いつもの「映画泥棒」の映像が流れるまではすべて余興なのだから、無視すればいいのだが、映画経験の浅い僕はついつい見てしまう。もしかすると、自分が気に入る映画が見つかるかもしれないと。
でも、僕の心をとらえるものがない。今回のアカデミー賞本命の「ラ・ラ・ランド」ぐらいは見ておかないといけないかもしれないが、映画を見て楽しい気分を味わいたいとも思わないし。ああいう映画は一人で見るものじゃないだろう。
たぶん、今度僕が見るのは伊藤計劃の『虐殺器官』だと思う。でも、予告が流されないということは、期待できない出来かもしれない。あの小説をどのように映画化できたか興味あるのだけれど。
そのせいか、開場時間の20:10すぎてからも、ぽつぽつと劇場に入る人がいた。せっかく最後列の端という席を確保したのだから、僕もゆっくりと入場するぐらいの余裕を持ち合わせたいものだ。
最終的に観客数は26人ぐらいだったと思う。ただし、全員がこの映画のチケットを買ったかどうかは定かではない。この109シネマズ川崎は他の映画館と同じく、シアター総合入口でチケットをチェックしているだけだから、該当チケットを持ってなくても空いている席に座ることは理論的に可能だ。
なぜ、チケット購入された席の番号が光るなどの仕組みがないのだろうか。本編開始スレスレに来た人は、チケットを持たずに空いた席に座っているかもしれないではないか。そんな不届き者を映画館は許しているとしたら腹が立つ。それもコミで1800円(通常料金)だというのか。
長すぎる映画予告の垂れ流しといい、不正観客を許すシステムといい、映画本編が始まる前にイライラしてしまった僕であった。
(7) 二度目の『沈黙―サイレンス―』のあとで聴いた曲
余談続き。
『沈黙―サイレンス―』にはエンディングテーマはない。環境音が流れるスタッフロールを見終えて外に出る。二度目の鑑賞でも、やはり僕は圧倒されてしまった。
その感情を整理するべく、スマホに入っている曲から僕が選んだのがドアーズの「When the Music's Over(音楽が終わったら)」
ドアーズといえば、コッポラの『Apocalypse Now(地獄の黙示録)』で使われた「ジ・エンド」が有名だが、個人的には好きではない。歌詞は良いが、演奏がダルい。テンションがもたない。
二枚目ラストの「When the Music's Over(音楽が終わったら)」のほうが、僕はずっと好きである。ただし、このとき僕が聴いたのはライブ盤「アブソルートリー・ライヴ」のほう。
この曲はオルガンで弾くベース音だけが鳴り響く箇所があるのだが、このライブでは観客が騒ぎまくっているおかげで、静寂を演出することができない。たまりかねてジム・モリソンは「シャラップ!」と叫ぶ。そのあとの「ロックンロールのコンサートなんだぞ、静かにしろよ!」という台詞が僕は気に入ったものだった。
映画『沈黙―サイレンス―』を見たあとで、ジム・モリソンの「シャラップ!」を聴くと思わず笑った。うん、世の中にはうるさいものが多すぎる。20分以上の映画の予告とか、隣の隣の席のポップコーンを食べる音とか。こうして、僕は現実世界の川崎駅に戻ることができたのである。
もし、映画『沈黙―サイレンス―』の鑑賞後、感情の整理がつかない人は、ドアーズの『アブソルートリー・ライヴ』を聴くことをオススメしたい。
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