【感想】映画『沈黙―サイレンス―』を見るべき5つの理由
2017年1月21日に日本上映開始となった、スコセッシ監督の映画『沈黙―サイレンス―』
遠藤周作の原作小説の愛読者である僕は、公開初日に鑑賞したのだが、予想をはるかに上回る完成度の高さに絶句した。
スコセッシ監督は原作小説を徹底的に読みこみ、細部に至るまでリアリティを追求した映画に仕上げていたのだ。
原作小説は「キリスト教と日本人」というドメスティックな題材から「沈黙する神に祈る人間性とは何か?」という普遍的なテーマを描きだした傑作であるが、映画での説得力は、原作小説を初めて読んだときの感動すら上回っていた。
原作既読の人も未読の人も生涯消えることのない強烈な印象を、この映画から受けるだろう。
舞台は、キリスト教弾圧下の長崎。
悪名高き江戸時代の拷問のシーンが多いが、グロテスクな描写はない。
(ショッキングなシーンはある)
過激さよりもリアリズムを追求した映像は、時として滑稽さを感じることもある。
例えば、問題児・窪塚洋介の「テケテケ走り」や外国人宣教師アダム・ドライバーの「クロール」などだ。
しかし、それでこそ、神の救いがない展開に、精神にずしりとくる重みを伴う。
このような体験は、この映画でなければ味わえないものだろう。
欠点は、キリストの受難物語やカトリック教会の儀式について知らない人には、物語が理解できない部分があるところ。
しかし、我々日本人は「日本人の宗教観」について知っている。
だから、この映画はキリスト教徒であるよりも日本人であるほうが、より実感できるはずだ。
一人でも多くの人に見てほしいので、ネタバレをできるだけ排して、この映画の魅力を語っていこう。
【目次】
(1) 永遠の問題児・窪塚洋介だからこそ演じられた「卑怯者」キチジロー
(2) 浅野忠信やイッセー尾形の名演による「日本キリスト教不要論」の説得力
(3) 見た目小汚い庶民は信仰ゆえに気高く、その信仰ゆえにみじめに死ぬ
(4) エンディングテーマすらなくしたスコセッシ監督の意図は?
(5) ラストシーンにこめられた「沈黙」の本当の意味
(6) 【日記】1月21日23:50〜の上映を見た俺
(1) 永遠の問題児・窪塚洋介だからこそ演じられた「卑怯者」キチジロー
※画像はすべて公式予告動画より
初回上映挨拶で、キチジロー演じる窪塚洋介はあいかわらず軽率な発言をしでかした。
・窪塚洋介 日本政府を批判「弱者に目も向けない」/芸能/デイリースポーツ online
言いたいことはわかるが、安易な政府批判は反発を招く。
実に思慮の浅い発言である。
しかし、そんな永遠の問題児・窪塚洋介だからこそ、この映画のキチジローはハマり役だったのだ。
窪塚洋介が演じるキチジローは、一言でいえば「卑怯者」
いろんなシーンでちょこまかと画面に出てきて、テケテケ走りで去っていく。
外国人宣教師たちに呆れられるどころか嫌悪感までいだかれる始末だ。
こんなヤツが日本人代表を気取るのだから、我々観客は心の中で叫ぶだろう。
「ちがいます! 窪塚は例外です!」
原作小説でのポルトガル語は、この映画では英語となっているので、窪塚洋介も英語をしゃべるのだが、あまりにも日本語訛りで思わず笑ってしまう。
(これは演出の意図的なもの)
そんな窪塚演じるキチジローが、作中で何百回も叫ぶ「パードレ(宣教師の意味)」という叫びは、作中の外国人宣教師だけでなく、観客である我々の耳にも残るだろう。
ときにはうっとうしく、ときにはあわれに、キチジローは「パードレ」と叫ぶ。
その演技力の豊かさは、俳優として高い評価を受けながらも、性懲りもない問題発言を繰り返す窪塚洋介ならではの魅力にあふれたものだ。
思慮の至らぬ発言が目立つ窪塚洋介だからこそ、『沈黙』のテーマの一つ「人間の弱さ」を体現したキャラクターを演じられたのだ。
(2) 浅野忠信やイッセー尾形の名演による「日本キリスト教不要論」の説得力
『沈黙』はキリスト教迫害下の日本に外国人宣教師が潜入する歴史ドラマである。
だから、キリシタン弾圧をする幕府側は「悪役」だ。
このキャストを演じるのは、一人芝居で有名なイッセー尾形と浅野忠信。
彼らの名演が光る「日本キリスト教不要論」の説得力はハンパない。
先行上映された米国ではイッセー尾形の演技力が大きな話題となっているが、浅野忠信演じる通辞(幕府の公式翻訳者)も名演である。
特に、外国人宣教師役アダム・ドライバーの「クロール」シーンのあと。
たたみかける浅野忠信の台詞の凄味は、彼が日本トップクラスの俳優であることを教えてくれる。
江戸時代のキリシタン弾圧というのは、世界史でもきわめて目立つ宗教迫害である。
(日本でのキリスト教迫害の犠牲者は、名前が知られているだけで4045人、推定4万人。なお、天草・島原の乱で斬首された農民3万人はその数に含まれない)
もっとも信者数が多いキリスト教徒の迫害ともなれば、世界では多くの批判を招くはずだが、それを撥ねつけるほどの説得力が、浅野忠信やイッセー尾形の演じる幕府役人にはある。
彼らは偏見で「キリスト教を禁止」しているのではないのだ。
なお、映画を見て「日本キリスト教不要論」に興味を持った人は、原作小説を手にすると良い。
おおむね映画のセリフと同じである。
「沈黙する神とそれでも祈らざるをえない人間性」をテーマに小説を書き続けた遠藤周作だからこそ書くことができた「日本人の宗教観」を知ることができるはずだ。
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しかし、日本キリスト教不要論は、あくまでも江戸幕府の論理。
キリスト教は庶民の希望となっていた。
体制の維持のために、徳川幕府が犠牲にしたもの。
それを痛感させる出来事にこの映画は満ちあふれている。
(3) 見た目小汚い庶民は信仰ゆえに気高く、その信仰ゆえにみじめに死ぬ
この映画でもっとも衝撃的なシーンは、加瀬亮の退場シーンだろう。
ここから映画『沈黙』の物語は佳境に入るといっていい。
それまでの序盤の主役といえば、塚本晋也演じるモキチであろう。
モキチが受けた刑については、Youtubeに公開された公式予告動画でも出てくるのでネタバレにはならないはずだ。
イエズス会宣教師にも「これほどのキリスト教徒はいないのではないか」と賞賛された日本の農民モキチ。
見た目は小汚いかもしれないが、その瞳はなんと美しいことか。
それは、江戸時代の監視された自由なき農民生活の中で、キリスト教という救いが彼らに生きがいをもたらしたからだ。
そして、それゆえにモキチは刑に処せられる。
しかし、その殉教(キリストの教えに準じて死ぬこと)は、新約聖書のキリスト受難物語のような神々しさはない。
神は沈黙を保ち、キリシタンはみじめに死ぬ。
このみじめさをこの映画では徹底して生々しく描く。
むごいのではなく、みじめなのだ、カクレキリシタンの殉教は。
日本のカクレキリシタンは、イエズス会が属するローマ・カトリックの教えを信仰している。
ローマ・カトリックの信仰は、教会なくして成り立たない。
幕府の禁教令により、司祭は追放された。
だから、イエズス会司祭をカクレキリシタンは歓迎した。
それは、本物の司祭(パードレ=宣教師)による儀式を行えば、誰もが天国(パライソ)に行けると信じたからである。
まるで浄土真宗の宗徒が極楽浄土を夢見るような健気さで、カクレキリシタンはキリストを信仰する。
ところが、彼らはローマ・カトリックの神学を理解しようともしない。
それでも、彼らはイエズス会宣教師が驚くほど気高き信仰を持ち、幕府役人の「踏み絵」にも従おうとしないのだ。
僕は原作小説を読んでいるから、序盤の庶民のカクレキリシタン信仰を描いたくだりを楽しめたが、なかには退屈さを感じる人がいるかもしれない。
イッセー尾形や浅野忠信が出て来るようになれば、それらの描写の意味がわかるので、序盤は日本の民俗宗教について考えながら、カクレキリシタン信仰を映画で体験するといいだろう。
(4) エンディングテーマすら無くしたスコセッシ監督の意図は?
窪塚洋介に「卑怯者」キチジロー役をやらせるぐらいスコセッシ監督は「世界の巨匠」である。
彼の監督作品の中でもっとも有名なのは、マイケル・ジャクソンの「BAD」PVであるかもしれない。
・The FULL version: BAD - Michael Jackson - YouTube
ポピュラー音楽関係の作品が多いのがスコセッシ監督の特徴だ。
ザ・バンドの解散ライブ記録映画「ラスト・ワルツ」
ボブ・ディランのドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」
ローリング・ストーンズのライブ記録映画「シャイン・ア・ライト」などである。
そんなポピュラー音楽に詳しいスコセッシ監督の作品でありながら、この『沈黙―サイレンス―』という映画には、エンディングテーマがない。
では、エンドクレジットが流れているとき、BGMがなにかといえば、環境音である。
海のザッパーンという波の音や、森の鳥のさえずり。
ただ、それだけなのだ。
本編でも音楽はほとんど使われていない。
これほどBGMを使わない映画は前例がないといっていいだろう。
もし、エンディングテーマで良い曲が流れれば、思わず泣いてしまう観客がいたかもしれない。
しかし、スコセッシ監督はそれすらも望んでいない。
むしろ、エンディングテーマで余計なメッセージが加わることを拒絶しているようなのだ。
逆にいえば、本編こそがすべてという自負がある。
だから、泣きたい人にこの映画はとても薦められない。
音楽の助けがない映画。
これもまた「沈黙」なのである。
(5) ラストシーンにこめられた「沈黙」の本当の意味
原作小説『沈黙』のほとんどは口語体で書かれているが、最後の後日談だけで漢文書き下しの文語体となっている。
だから、たいていの人は適当に読み飛ばしたかもしれない。
実は僕もそうで、その後日談には深い思い入れがなかった。
しかし、映画では、後日談も映像で表現されている。
ただし、ラストシーンの最後の最後の1カットだけでは、原作小説にはない映画オリジナルのものだ。
そのカットののち、音楽の流れないエンドロールになる。
この1カットほど印象深いものはなかった。
今思い出しても、心震えるほどだ。
映画を見る前に、このブログで紹介記事を書いてみた。
(あえて挑発的なタイトルにした)
・映画『沈黙』のキャッチコピーがクソすぎる - esu-kei_text
上の記事で、タイトルの沈黙とは「神の沈黙」のことだ、と僕は断言しているが、そうではなかったのだ。
最後の最後の1カットで、観客は「沈黙」の本当の意味を知るのである。
これは、原作小説を書いた遠藤周作が望んでいた結末かどうかはわからない。
だが、この映画のエンディングに、これほどふさわしいものはなかっただろう。
世界でも類を見ないキリシタン弾圧(キリスト教完全敗北)をテーマにしたこの映画は、登場人物のほとんどが死ぬ救いのない展開である。
しかし、最後の1シーンだけでも「人間の救いとはなにか?」を考えさせる強烈な印象を与えるはずだ。
(6) 【日記】23:50〜の上映を見た俺
以下は日記、ただの余談である。
前の記事で書いたように前売り券を買うぐらい気合の入っていた僕だが、公開初日の1月21日(土)は仕事が入ったばかりか、飲み会にも参加しなければならなくなった。
そして、22日(日)も仕事だった。
このスケジュールの中で、公開初日に見ることができるのは、たった一つ。
TOHOシネマズ新宿で23:50〜の上映を見ることだけであった。
上映終了は03:00。
土曜夜3時に、僕は歌舞伎町の路上に放り出されるということである。
そして、徹夜のまま日曜日も仕事。
なんという過酷なスケジュールであろうか。
(いつもは土曜に休みがとれたのに)
↑歌舞伎町ど真ん中にあるTOHOシネマズ新宿
今回は原作を熟読した作品の映画化ということで、多少の疲れは苦にならなかったが、前情報なしで徹夜映画を見るのは厳しいかもしれない。
島本和彦の「アオイホノオ」に出てきた大阪・梅田のオールナイト上映のように、一回の料金で四回見ても許されるのならば、喜んで見るのだけれど。
あと、前売り券を買って先行予約するのは、僕には向いていない。
急な予定が入るかもしれないが、乗り気じゃない気分のときもあるからだ。
損するとわかっていても、当日1800円払って見たほうが精神的にはラクかもしれないと感じた僕であった。
まあ、新宿駅通路の映画広告を撮れたのはラッキーだった。
朝4時台でなければ人が多くて撮れない写真である。