死刑囚と向き合った僧侶の「現場の声」 ― 堀川惠子『教誨師』(評価・A+)

 

教誨師

教誨師

 

死刑囚と面会し、その処刑に立ち会う宗教者、教誨師
その慎重な物言いから見える、死刑制度の「救い」のなさ。
 

 教誨師(きょうかいし)とは、受刑者と対話し、教えを説く宗教者のことである。現在、全国の拘置所・刑務所・少年院には様々な宗派の1800人の教誨師が活動しているという。
 本書の語り手である渡邉普相は、50年にわたって死刑囚の教誨師をつとめた。教誨師は死刑囚と自由に面会することを許された唯一の民間人であり、執行現場にも立ち会う。その存在が世に知られていないのは、法務省の通達で守秘義務が厳しく徹底されているからだ。
 本書は渡邉が「自分の死後に発表すること」を条件に語った教誨師経験をまとめたものだ。死刑囚の遺族や被害者遺族を考慮して、1970年代までの事件犯罪者に限られている等、本書で彼が本心をさらけ出しているとは言いがたい。
 それでも、本書が魅力的なのは、「宗教」と「死刑」について、これほど向き合った本はないからだ。
 本書でもっとも有名な死刑囚は大久保清であろうか。1971年に連続婦女殺人事件を起こした大久保は、その5年後に処刑された。彼は「自分は宗教を信じない」とかたくなに教誨師との面会を拒絶した。それでも、大久保の処刑を知った渡邉は執行場に向かう。彼は言う。
「宗教者抜きで人殺しをしてはいけない。殺される本人だけじゃない。殺す方の看守たちのためにも」
 渡邉は死刑を「人殺し」と断言する。今では宗教者の多くが死刑廃絶を訴えるようになり、教誨師法務省の手先だと批判されている。それでも、渡邉は死刑囚の教誨師をつとめつづけた。
 「死刑」という制度を考えるうえで、容認派も反対派も耳をそむけてはならない現場の声が、本書にはある。
 



 

 ぬかりない。
 本書を読んで僕が強く感じたのは、語り手と聞き手の職業意識の高さである。
 50年にわたり死刑囚と面会し続けた教誨師である渡邉は、教誨師連盟の理事長をつとめたことがある。いわば、1800人の教誨師の上層部の人間である。
 もし、自分の本がきっかけで、他の教誨師が告白録を出したらどうなるか。渡邉はそのことを深く憂慮したにちがいない。「死後、出版すること」を条件にしたのも、生前に自分の周囲が慌ただしくなることを怖れていたのではなく、追随者を招きたくなかったからであろう。教誨師という仕事の内容は、軽はずみに語ってよいものではない。
 また、聞き手である本書の著者が信頼たる相手であったことも大きい。著者は「収容中に小説家デビューした死刑囚」として知られる永山則夫について、ノンフィクション作品を書いただけでなく、NHKドキュメンタリーを制作した実績あるジャーナリストである。
 両者は綿密な打ち合わせをして、世に出すべき情報を線引きした。それは、第三者にとって物足りない内容ではある。
 それでも、教誨師みずからが経験を語った書籍が出たのは画期的なものである。教誨師自身が経験を語った本となると、1973年の『教誨百年』という非売品書籍以降、出版されていない。
 それほど、死刑執行を取り巻くベールは厚い。
 

 本書の語り手である教誨師・渡邉普相は、浄土真宗の住職でもある。
 浄土真宗教誨活動に熱心であった。それは「悪人正機」という教えがあるからだ。
 親鸞は説く。
「親が特に病気の子を心配するように、また医者が病状の重い患者から優先的に治療するように、阿弥陀仏も悪人を救うのである」
 この教えはキリスト教にも通じる。「(心の)貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである」と説くキリスト教もまた、教誨活動を積極的に行っていた。
 

 教誨師の歴史には、少なくない汚点がある。
 もともと、教誨師の活動は宗教者の善意で行われていた。それが一変したのは、1939(昭和14)年のことで、教誨師は国家公務員に登用されることになった。その意図は、政治・思想犯対策である。彼らは宗教の名のもとに「転向」を促す役割を負っていた。ある歴史家は「無慚(むざん)という他ない」と、当時の教誨師を鋭く批判する。
 敗戦後、GHQによる占領下で、教誨師は国家公務員ではなくなる。しかし、この占領期には、真偽を疑わざるをえないような死刑判決が少なくなかった。のちに冤罪であることが確定して釈放された免田栄は、ある仏教教誨師について、こう記している。
 


 自分は冤罪だからと再審を請求しようとする収容者に対しても、「これは前世の因縁です。たとえ無実の罪であっても、先祖の悪業の因縁で、無実の罪で苦しむことになっている。その因縁を甘んじて受け入れることが、仏の意図に沿うことになる」と、再審の請求を思いとどまらせるような説教をする僧侶がいる。こんな世の因果をふりかざして、再審請求をさまたげる僧侶が少なくない。
 

 なお、免田の再審請求が動きだすきっかけを作ったのはキリスト教教誨師である。「前世の因縁」と脅す教誨師もいれば、民間人である立場をいかした教誨師もいたのだ。
 

 さて、渡邉は50年間、東京拘置所教誨師をつとめた。死刑囚は刑務所ではなく、拘置所に収容される。この理由は「刑務所は刑を服役するところである」という法律による。死刑囚は刑を執行すれば収容の必要はない。だから、判決が出て刑が確定するまでの未決囚と同じく、拘置所に収容されるのだ。ただし、拘置所と刑務所が隣接しているところも多い。
 

 渡邉が教誨活動をはじめた1959年、東京拘置所は現在の池袋サンシャインシティの場所にあった。今では商業地としてにぎわっているが、敗戦後のGHQ占領期には「巣鴨プリズン」として知られていた。A級戦犯7人を含め60人の死刑囚を処刑している。
 ところが、巣鴨プリズンが日本政府に返還されたとき、一つの問題が起きた。絞首台が使えなくなったのだ。
 そこで、東京拘置所の死刑囚の執行は宮城で行った。「仙台送り」として、東京拘置所では話題になったという。
 のち、小菅刑務所に処刑場が作られ、東京拘置所も小菅に移転する。それまでは、渡邉は死刑執行には立ち会うことなく、教誨師として死刑囚と面会するだけであった。
 

 1960年代、浄土真宗では、渡邉ともう一人の僧侶が教誨面接を行っていた。それぞれ週二回、午前九時半頃から昼食を挟んで夕方までぶっつづけの面接である。時間はひとりあたり30分と決まっていたが、予定通りに進むことはなく、平均して日に6、7人と面接するのがやっとだったという。
 面接を通じて、渡邉が気づいたのは、死刑囚の「被害者意識」である。彼らは罪を犯しながら、被害感情にとらわれているのだ。犯行の動機を社会に求めてみずからの罪に向き合おうとしない。もともと、死刑囚の犯罪は「殺す」よりも「逃げる」目的で人を殺めている犯罪が少なくない。
 渡邉は面接を通じて、死刑囚の被害者意識を取り払おうと試みた。しかし、それは己の罪と向き合うことになる。死刑囚からすれば「社会のせい」にしたほうが苦しまずにすむ。
 それでも、死刑囚が教誨面接を受けた理由はなにか。
 一つは、渡邉の説く教えにひかれて、仏教を知りたいと考えた者。例えば「三鷹事件」で有名な竹内景助である。三鷹駅で1949年に起きた、この列車転覆事件は竹内の単独犯ではありえないと、現在でも物議をかもしている事件である。竹内はこう証言する。
「(共産)党に死刑にされたようなもんです。しかし、考えてみればだまされた自分も悪い。その点ではもうジタバタはしないつもりです」
 竹内は知識欲旺盛で、浄土真宗の経典を読み込み、写経もうまかった。雑誌に寄稿したり、本も出版していた竹内は、教誨師の渡邉にお金を預けたらしい。その理由は、面会時に彼の妻と共に来る共産党員がいるからだ。共産党系の弁護士も竹内は信用しなかった。
 結局、竹内は獄中で病死するが(法務大臣の誰も彼の死刑執行に署名しなかった)、渡邉の預かったお金と遺品は、彼の妻とともにやってきた支援団体の事務局長が引き取った。その行方がどうなったのかは、渡邉は知らない。
 

 しかし、ほとんどの死刑囚が教誨面接をするのは「気晴らし」であり、「差し入れ」のお菓子であった。
 「ホテル日本閣殺人事件」の犯人、小林カウは当時めずらしい女性死刑囚であった。土産物屋店主から、ホテル経営を夢見て、経営者と肉体関係を結び、その妻だけならず、経営者も愛人に殺させた小林カウの犯行は、吉永小百合主演で映画化すらされている。
 小林カウは「自分は創価学会に入っていたが、ここにはないので、最低でも3つは試したい」と、3つの宗派の教誨師との面接を願い出て受理された。小林は渡邉が気に入ったものの、もう一人の教誨師の差し入れのお菓子が多いために、グズグズと半年間も一本化をためらったらしい。
 

 このような教誨面接に、若き渡邉は満足していたのではない。これでは「茶飲み漫談ではないか」と、先輩の教誨師に噛みつくことがあった。話を聞くだけなら民間のボランティアでもできる。自分は死刑囚の機嫌をとりにやってきているのではないと。
 

 渡邉が死刑執行に立ち会ったのは、1967年が最初である。その死刑囚は教誨面接に熱心で、渡邉のために『仏説阿弥陀経』の写経を遺したという。
 それから、当時の法務大臣は一ヶ月で27枚の死刑執行命令書にサインをした。日本の法律では、法務大臣の署名後の五日以内に刑を執行しなければならない。
 そのほとんどが、渡邉が担当する浄土真宗教誨面接を受けている者ばかりだった。たちまち「浄土真宗教誨を受けたら殺される」という噂が広まり、いつもは参加者であふれる集合教誨も、出席者が数人になってしまったという。
 

 本書では、語り手の渡邉も、聞き手の筆者も明言していないが、読者としては想像することがある。法務大臣の死刑執行のサインは、多分に政治的理由にもとづくように思えるが、その判断材料として「聞き分けよい死刑囚が選ばれる」ということがあるまいか。
 処刑は、死刑囚に考えるいとまを与えぬよう、スムーズに行われる。教誨師は執行から絶命確認までの約十分間、読経をすることが求められる。このとき、死刑を執行する立場で考えるならば「手間のかからない死刑囚」を望むのではあるまいか。その「聞き分け」を良くすることが、渡邉ら宗教家の教誨活動に求められているのではないか。
 死刑執行が人間の手で行われるかぎり「聞き分けのよい死刑囚」が選ばれやすいというのは、読者の僕の推測にすぎない。
 ただ、1967年の死刑ラッシュでは、教誨師のために写経を遺すような者から処刑されたのは事実である。
 

 処刑に立ち会った渡邉は、死刑執行を「人殺しの場」と明言する。
 そもそも、渡邉に言わせると、現在の「ロング・ドロップ方式」では「落ちた時に(首の)筋が切れる」という。「打ち首したのと同じなんです。(皮でつながっているから)外から見たら全然わからないですけどね」
 この「ロング・ドロップ方式」は、イギリスの方式を取り入れたものだ。法医学の権威と知られる古畑種基は「首を吊られた瞬間に頭部に行く動脈血が停止して人事不省に陥るため、苦痛を伴わないのが医学会の常識である」と1952年に語った。今もなお、これが定説として、絞首刑施行の根拠となっている。
 イギリスではすでに死刑制度を廃止している。それでも、日本は「ロング・ドロップ方式」をかたくなに執行し続けているのだ。
 

 それでも、渡邉が教誨活動を続けたのはなぜか。前述した大久保清の処刑に立ち会おうとした彼の言葉にあると僕は考える。
 1971年、二ヶ月足らずの間に若い女性ばかり8人が殺された「大久保事件」についてはWikipediaを参考に。
 

■ 大久保清 - Wikipedia
 

 Wikipediaでは「死刑執行に対し恐れおののく姿が関連の書籍によって克明に紹介された」と書かれているが、執行現場に立ち会った渡邉の証言は異なる。
 以下、本書より引用。
 


 渡邉が見た大久保は終始、静かだった。ただ、「落ち着き払った」という表現は当てはまらない。焦点の合わない虚ろな暗い顔は、人間の感情の起伏を遙か越えたところにある、あらゆるものへの無関心ぶりを見せつけているようであった。
 控え室で最後のタバコを勧めると、大久保は軽く一息吸い込んだ。その指は、震えていなかった。刑務官に反抗したり暴れたりすることなく、無論、引きずられて連行された事実もない。大久保の死刑執行も、一連の儀式の中で滞りなく終わった。
 

 大久保は渡邉の浄土真宗だけでなく、あらゆる教誨師との面接を断った。「自分は宗教は信じない」という理由である。東京拘置所では、凶悪犯とは思えぬほど落ち着いた態度で、積極的に運動に出ては汗を流し、独房で読書をしたり手記を書くなどマイペースで過ごしたという。
 その処刑の日を渡邉が知ったのは、拘置所の幹部にこう頼んでいたからである。
「宗教者ぬきで人殺しをしたらいけませんよ」
 渡邉は空振りでもいいからと東京拘置所に向かう。執行前、刑務官は「最後ぐらいは坊さんに立ち会ってもらったらどうか」「お経をあげてもらうだけでも、どうだ?」と大久保にたずねた。大久保は答えた。「そこまで言われるなら、お願いします」
 大久保は自分の処刑に恐怖して、宗教者の立ち会いを求めたのではないと僕は考える。刑務官の質問の裏にある「断りきれないもの」を感じ取ったのではないか。
 渡邉は言う。「宗教者抜きで人殺しをしてはいけない。殺される本人だけじゃない。殺す方の看守たちのためにも」
 渡邉は写経も「生きる者のために書く」と明言している。執行現場での読経も、処刑者が成仏できるよう唱えているのではないのだ。
 

 死刑囚は拘置所内の独房で、ほとんど一人で生きる。そのため、教誨師は全身全霊をもって面接しなければならないと渡邉は言う。死刑囚は五感を研ぎ澄まし、宗教者を通じて世界を見ているからだ。
 50年にもわたった渡邉の教誨師活動だったが、その転機は彼自身から出た。
 渡邉はアルコール依存症となったのだ。
 「大変な仕事だから、ストレスがたまるのは仕方ない」という周囲の言葉に、渡邉は頑として首を振る。「ストレスのためじゃない。酒がおいしいから、依存症になっただけだ」
 こうして精神病院で治療を受けるようになった渡邉は、自分と同じ患者たちを観察する。彼らが好んで話をするのは、カウンセラーではなく、掃除婦のおばちゃんであることが多かった。
 その光景を見ながら渡邉は考える。外部との接触が絶たれた死刑囚と面接する自分の役割について。人間らしく生きるためには、掃除婦のおばちゃんのような存在が必要なことを。
 やがて、病棟内でも渡邉は人生相談を打ち明けられる立場となった。ある患者は言う。
「自分がこんな状態になったのは、祖先の墓参りをしていないからでしょうか」
 渡邉は答える。
「あんた、自分が死んで魂になってから、自分の子や孫を苦しむようなことをわざわざするか? しないでしょう? 死者の霊が祟るなんて考え方は日本の神話や迷信からきていることで、仏教ではそんなことを一言も言っておりません。今、起きていることはすべて自分に原因がある。他人のせいにして、自分から逃げてはいけませんぞ」
 そう言い含めると、みな悪霊から解放されて安心したかのように「確かにそうですね」とため息をつき、今度は長い身の上話を始めたという。
 

 そして、病院から東京拘置所に通うようになった渡邉は、そのことを死刑囚にも打ち明けるようになる。
「実はわっし、今、アル中で病院に入っとるんじゃ。酒がやめられんでね。たびたび面接も休んでしもうて、申し訳ないことですな」
 すると、死刑囚はうれしそうにこう返すのだ。
「先生、わかるよ。覚せい剤も酒と同じだ。でも、私は独居房ですっかり薬が抜けましたよ。フラッシュバックで大変な時もあったけれど、もう平気。まずは身体から薬を抜く、それしかない。自分で止めるしかないですよ」
 こうして、死刑囚は渡邉に刑務官に言えないことを話すようになる。毎回「エロ話」で盛り上がることもあったという。
 かつて、渡邉は死刑囚の身分帳をあらかじめ読み、面接にのぞんでいた。しかし、アルコール依存症で病院にかかってからはそれをやめ、相手の言葉に耳を傾けるようになった。死刑囚に宗教者ができる「救い」はなにか。必死でそれを探したものの、酒量ばかりが増えた渡邉の答えがそれだった。
 偏見を持たず、ひとりの人間として向き合い、会話を重ねる。教誨師にできることはそれだけだと。
 

 今では、死刑に反対の態度をとる宗教者は少なくない。渡邉たち教誨師は「法務省の手先」だと批判されている。その渡邉は本書でこう語る。
 


「犯罪というのは、被害者の家庭も崩す、自分(※加害者)の家庭も崩す、いいことなんか何もない、ええ、本人が執行されても、幸せになった人間は、誰ひとりいません。誰も幸せになってない。だから、そういう犯罪を防ぐ、減らす運動を、本当は考えないといけない……それが、今の私の考えですよ」
 

 本書はきわめて慎重に言葉を選んでいる。
 語り手である渡邉の発言もそうだし、聞き手である著者の言い回しもそうだ。
 だから、本書を通じて「物足りない」という感想を抱く人は多いだろう。手っ取り早く読める本ではない。
 しかし、そうした配慮がなければ、教誨師の証言が世にでることはなかっただろう。
 それだけ、我が国の「死刑」をとりまく現状は、覆いに隠されている。
 

 死刑囚と面会し、その執行現場に立ち会う教誨師の「現場の声」
 僕はその節間に、死刑を行うことが人間であることの欠陥を知った。
 死刑執行は「人殺し」にすぎない。その現場を考えることを放棄して「被害者のためにも死刑が当然だ」と語ってよいものか。本当に死刑は「極刑」なのか。
 我々が目をそむける「宗教」と「死刑」について、真摯に向き合える本である。評価はA+。
 

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