逃亡者に残された個人の強み ― 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』(評価・A)

 

ゴールデンスランバー (新潮文庫)

ゴールデンスランバー (新潮文庫)

 

米国ケネディ大統領暗殺事件を大胆にも模倣!
首相暗殺犯に仕立てられた逃亡者に残された「人間の強み」とは?
 

 ストーリーテラーの名手といわれる作者は、本書で大胆にもケネディ大統領暗殺事件を下敷きにしている。
 しかし、事件にまつわる幾多の陰謀論を参考にしているのではない。本書で描かれるのは、ケネディ大統領事件でのオズワルドのように、首相暗殺犯に仕立てあげられた元・宅配ドライバーの逃亡劇なのだ。
 身に覚えのない罪を着せられて警察に追われる逃亡者に残されたものは何か。彼は過去の記憶を掘り起こし、かつての仲間に自分が無実であることを証明しようとする。しかし、その仲間たちには家族がいる。献身的に助けてくれる者はいない。彼は孤独に逃げ続ける。果たして、彼は生きのびることができるのか。
 こう書くと、緊張感のある物語のように思われるかもしれないが、作者得意の軽妙なやり取りは健在。学生時代の思い出や、社会人になってからのトラブル。その中に死中を脱するヒントを忍ばせる手腕は見事である。
「偉い奴らの作った大きな理不尽なものに襲われたら、俺たちにできるのは逃げることぐらいだ」
 負け惜しみのようなこのセリフが、今作では輝く。組織に追われる個人に残された「人間の強み」を通じて、不条理な現実を生きる勇気を与えてくれる物語だ。
 



 

 僕が今作を手にした理由は、同作者の『モダンタイムス』を読んだからだ。そのあとがきで、作者は「同時期に書いた『ゴールデンスランバー』も読んでほしい」と書いていたのだ。この作者のあとがきは謙虚で最低限なことしか書かない印象があったので、深く記憶に残った。
 『モダンタイムス』にしろ、その前編とされる『魔王』にしろ、僕は失敗作と見なしている。異論がある方は、当ブログの感想記事を読んでいただきたい。
 

【感想】 伊坂幸太郎『魔王』(評価・C)
【感想】 伊坂幸太郎『モダンタイムス』(評価・B−)
 

 作者は「個人」を描くことには優れているが、「組織」を描くことは苦手ではないかと感じていた。それは、作者が「組織」の「顔」を書くことに執着したせいであるかもしれない。
 今作では「大きな理不尽なもの」の顔を輪郭しかなぞっていない。黒幕らしい人物はいるのだが、その個人性に迫ろうとはしていない。ただ、その動機を「利権」としただけである。
 利権を守るために首相暗殺を思い至った黒幕は、ケネディ大統領暗殺を参考にする。犯人に仕立てられたオズワルド。連行中に彼を射殺したジャック・ルビー。その後、様々な陰謀論が出てくるが、真相は闇の中である。
 こうして、日本・仙台を舞台にした首相暗殺事件と、犯人とされた男の逃亡劇が繰りひろげられることになる。
 

 しかし、冒頭から当事者視点で語られるのではない。
 最初に、骨折入院した若者の視点で、事件発生から容疑者の投降までがひと通り描かれている。入院中の若者はテレビを通じて、その事件を分析するが、あまり賢明とは言えず、読者からすれば「それではマスコミの思う壺だろう」と感じるものばかりだ。
 例えば、息子の無実を信じる容疑者の父親を「不謹慎」だと報道するテレビを見て、若者は「あの息子にしてこの親ありだな」と呆れる。
 これらの場面は、当事者視点で語ると、まったく異なる印象を与える。いささか鈍感な若者の視点で描くことで、読者の「このままでは終わらないはずだ」と期待させる構成になっている。
 また、その若者のまわりでは、明らかに不審な行動をする人々がいる。彼らが何をしたのかは、かなり後のほうで明らかになる。
 

 当事者視点で語られるのは、第四部になってからで、それまでに第三者視点で事件の概要はあらかた読者に知られている。しかしながら、首相暗殺犯に仕立てられた元・宅配ドライバーの取るべき逃げ道を予想できる読者はいないはずだ。警察は早くから彼を犯人と特定し、仙台の街中に厳重な包囲網を敷いている。
 逃亡者である彼が頼りになる仲間たちの多くは、すでに家庭を築いている。今の生活を捨てて共に逃亡する身内は誰もいない。そんな状況で、彼は大学時代の親友の言葉にすがる。「人間の最大の武器は、習慣と信頼だ」
 大学時代の思い出、宅配ドライバーの仕事を通じて得た知識。警察から逃れるためには、それらはあまりに非力なように見える。だが、そのわずかな可能性から、次々と危機を脱するこの逃亡劇は、アクション過多な映画では味わえない爽快感がある。
 

 そんな逃亡劇の緊張感をほぐすのは、この作者ならではの軽妙なやり取りの数々である。例えば、逃亡者と女性のこんなやり取り。
 

「あ、俺、少し急いでいるんで」
「いいじゃんいいじゃん。『急ぐと失敗する』って有名な人が言ってたでしょ」
「誰が」
「この間のテレビで観た。ドミノの記録に挑戦する人が言ってた」
 

 こういうユーモアが作中の至る所に散りばめられている。そして、その少なからずが伏線となっているのだから、読書の喜びがたっぷり楽しめるというものだ。
 

 また、今作のヒロインが他者の人妻であるというのも面白いところだ。
 逃亡者の大学時代の恋人であった彼女は、首相暗殺事件のときには他の男と結婚して娘もいる。母親であるから、彼女は自由な行動はとれない。結局のところ、彼女はその逃亡劇で、彼と一度も顔を合わせないのだ。
 それでも、彼女は元彼氏だけに、警察が発表しメディアが報道する内容を信じることができない。だから、彼女は彼女なりに逃亡の手助けをしようとする。
 2人が別れた理由については、男側の視点でしか描かれていない。「板チョコを豪快に割らない性格だから」という理不尽きわまりないものだ。ただ、その逃亡劇を通じて、その理由は読者にも何となくわかるのではないか。
 

 今作でもっとも印象的なのは、逃亡者が自分の両親に、みずからの無罪を伝えるところである。こういう手があったか、と彼のアイディアに感動しつつ、真面目に読んだ甲斐があったと思ったものだ。斜め読みでは、この感動は味わえないだろう。
 

 不満点は二つだけ。
 一つはタイトルである。ビートルズの二分足らずの子守唄の曲名で、作中でも思い入れたっぷりに引用されている。だが、この逃亡劇にふさわしいタイトルかといわれれば疑問である。
 この理由はもしかしたら、映画化を拒絶するためかもしれない。ビートルズの版権は高額だ。同時期に書いた同作者の『モダンタイムス』で、架空の作家の口を借りて「自作が映画化されたときの失望」が語られている。
 しかし、映画化できたとしても、スタッフロールでこの曲から始まるメドレー(「ジ・エンド」で終わる)を流して、観客が納得できるかは疑わしいところだ。
 もう一つは、連続殺人犯の描写である。彼は物語に深く関わっているのだが、どうもその人物造型が「軽い」印象を受ける。いささかマンガ的だ。もっと別の方向性があったのではないかと考える。
 

 今作の舞台は、作者が学生時代を送った仙台である。多くの読者にとって、仙台はなじみのない街だろう。警察の包囲網がどれほど厳重かが、今作でも地名とともに出てくるが、ピンとこない読者は少なくないはずだ。
 しかし、東京ではなくて仙台を舞台にすることで、作者の反骨精神が感じられる。東京に染まることが文化人であるという傾向は、文学界でも顕著だ。その「大きなもの」と対峙するべく、作者は果敢にも『魔王』という野心作を描いたものの、失敗した。
 今作では、仙台の街で、警視庁の管轄に入った警察から逃れる元・宅配ドライバーを描いている。逃亡者の目から、その「大きく理不尽なもの」の顔を知ることはできない。でも、彼は自分のありったけの記憶から、組織に頼らず個人の力でその包囲網から逃れようとする。
 

 今作は我々と同じく「大きく理不尽なもの」に苦しむ作者の突破口であるかもしれない。「顔」を描こうとしても、すぐにぼやけてしまう「大きく理不尽なもの」から、作者は立ち向かうことをやめた。作りもの世界では勝利しても、現実では勝てないからだ。
 だから、この逃走は現実逃避ではない。今作はそんな新たな道を見つけた作者の喜びにあふれている。作者にとって大きな転機となった代表作であろう。評価はA。
 

ゴールデンスランバー (新潮文庫)

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