石田衣良『秋葉原@DEEP』感想(評価・B)

 
 
優れた企画、豊富な勉強量。だが、小説としての面白さが致命的に欠けた作品
 

アキハバラ@DEEP (文春文庫)

アキハバラ@DEEP (文春文庫)

 
 
 極度などもり(吃音)の文章家「ページ」
 女性恐怖症&潔癖症のデザイナー「ボックス」
 光の点滅に目を奪われると、身体がフリーズしてしまうミュージシャン「タイコ」
 
 彼ら三人の男たちは、とあるネットコミュニティで知り合い、互いの弱点をおぎないながら仕事をしている。彼らの共通点は、アニメなどのサブカルチャーに興味があり、秋葉原という街を遊びの拠点としていることだ。
 やがて、彼らは新たに三人を加え、「アキハバラ@DEEP」という、ベンチャー企業を立ち上げる。そこで、彼らは画期的な検索システムを作り上げ、大手企業に買収を持ちかけるようになるのだが……。
 
 本作は2002年〜2004年まで連載され、2004年11月に単行本が刊行された。今から十年以上前の作品である。
 具体的に、他のサブカルチャー作品と比較すると――。
 オタク少女を主人公に、秋葉原文化を高らかに主張した漫画『らき☆すた』は、2004年から連載が開始され、2007年にアニメ化された。
 読者モデルがオタク少女だったという設定が面白いと、出版枠を勝ち取ったライトノベル俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は2008年に一巻が発売された。
 ちなみに、秋葉原歩行者天国が廃止されるきっかけとなった連続殺傷事件が起きたのは、2008年6月8日である。
 
 本作は、『ジャンクの街』から『萌えの街』へと印象を変える過渡期にあった秋葉原を描いている。
 そして、主人公が作り上げる、人工知能を備えた検索システムは、十年以上たった今でも可能性のあるコンテンツだと思える。
 読んでみて、時間を損にしたと感じることはないはずだ。
 
 だが、今作は企画としては優れているが、小説としては物足りない。
 
 筋書きはこうだ。いわゆるオタクたちが、独自の検索システムを作り上げて、ネットで評判になったものの、不当な手で大企業に奪われてしまう。彼らは協力者たちの支援を得て、我が子に等しいそのシステムを奪還しようとする。
 その展開は、勧善懲悪小説の典型であり、読後には「爽快感」がなければならないはずだ。
 しかし、今作には、そんな痛快さがない。ドラマ『半沢直樹』の原作者である池井戸潤の小説にはあるものが、この作品には、まるでないのである。
 ドラマ化・映画化もされた本作だが(僕は未見)、小説として面白さがイマイチなのは何故か。この記事では、それを分析する。
 

(1) 定刻どおりに発車する電車を乗り継ぎする読書感

 
 今作では、アキラという登場人物がシャドウボクシングをするシーンがうんざりするほどある。笑っちゃうぐらい。
 これは「その話はここまで」という合図である。誰かの話を聞いて、アキラがシャドウボクシングを始めれば、展開は次に進むのだ。
 最初は、自分の読解力が足りないのかと思ったが、執拗に繰り返されるその発車ベルは、小説としての致命的欠陥ではないかと感じるようになった。
 どんなスピードで読んでも、このシャドウボクシングの「絶対さ」には、誰もが違和感を覚えるだろう。
 
 今作を読んでいて、僕は飲み会に参加しているような気分になった。とりあえず、納得してもしなくても、場の雰囲気がそうなったら、みんなで「イエー!」と叫ばなければならない。ネット用語だと「うぇーい!」となるだろうか。
 口下手な僕は、空気を読まない男と思われたくないから、一緒に小声で「うぇーい!」をするだろう。しかし、家に帰ると、果てしない後悔にとらわれてしまう。
 今作の「アキハバラ@DEEP」の構成メンバー六人には、それぞれ「うぇーい!」する理由があるのだが、その彼らを僕は「飲み会」で隅っこの席から見ている感じなのだ。
 むろん、社会を動かすのは一人ではできない。だから、世に影響を与えているのは「うぇーい!」と叫んでる連中なのだろうが、小説というものは「うぇーい!」の雰囲気だけで話を進めてはいけないはずだ。
 

(2) 逆算で構成されたメンバーに無駄はなし

 
 今作の悪役である大企業社長は「アキハバラ@DEEP」の発明品を奪うために、かなり荒っぽいやり方をする。しかし、法的にも対抗する手段がないために、彼らは秋葉原の街を巻きこんだ一芝居を打って、それを取り戻そうと計画するのだ。
 大企業社長は、彼らの動向を表面的には察しているが、有効な手を打たない。唯一の作戦が主要メンバー二人を拉致して、自白剤での強要をせまるという、実に大味なもの。この危機を脱する場面が、この小説最大の見せ所で読みごたえがあるのは認めるが、いっぽうでこう思う。「なぜ、大企業社長は、メンバー六人の各個撃破をしなかったのか?」
 
 今作の「アキハバラ@DEEP」の六人は、裏切りとは無縁である。一人ぐらい裏切ったほうが、物語に深みが増すと思うのだが、それを許さない事情があるのだ。
 というのは、この六人には、それぞれ役割があり、それを抜きにすると、話が成り立たないからである。
 おそらく、勉強家の作者のこと、今作を書くにあたって、ベンチャー企業について数多くの資料をあさったに違いない。こうして、逆算で無駄のないメンバー構成が決まったのである。
 だが、小説家ならば、一人ぐらいは、無駄に思えるメンバーを入れるべきではなかったか、と思う。
 
 例えば、去年、ドラマで話題になった、池井戸潤の「半沢直樹」シリーズと比較してみよう。
 ドラマ前半の関西編で、半沢とともに、悪役の東田を追いつめたのは、竹下金属社長である。彼は東田への恨みから、執念で半沢を助ける数多くの情報を手に入れる。その泥くささは、銀行員である半沢とは好対照をなしていて、受け手に感情移入させることに成功した。
 ドラマ後半の東京編では、半沢と同期の銀行員が、敵が共通していることを知り、互いに戦うことを約束する。しかし、彼は最後になって、半沢の復讐戦から手をひく。いわば、半沢を裏切る形になる。
 「恨み」や「裏切り」というのは、聖書から現在に至るまで、小説では欠かせないものである。池井戸潤の作品が、世代をこえて支持されるのは、ビジネスの最前線を描きながらも、そのような人間性を重視しているからだ。
 ところが、この「アキハバラ@DEEP」では、その人間性が恐ろしく希薄である。
 
 作者側からは、こういう反論があるかもしれない。
 「オタクには失うものがない。失うものがないから、強い」
 しかし、ネット世論を見渡してみると、失うものがない人間は一貫性がないように思える。
 それに、オタクたちは、札束には動じなくても、趣味に弱いものだ。
 彼らを心理的に追いつめることは、決して難しいものではないし、そこから克服する過程は描かなければならなかったはずなのだ。
 
 また、中盤以降、「アキハバラ@DEEP」のメンバーは、敵である大企業の社員たちと手を組むようになる。この大企業は、今風にいえばブラック企業で、多数のアルバイトや派遣社員が出世の希望もないまま酷使されている。
 ところが、ここにも平凡な人間が出てこない。一芸にひいでたものでないと、今作では名前さえも与えられないのだ。ザコがいないのである。
 
 小説には平凡な人物が欠かせないと思う。何一つとりえがないと、読者に油断させるキャラクターである。
 しかし、彼らにだって強さがある。誰かを信じる強さ。誰かを恨む強さ。そういうキャラクターがいたほうが、読者は感情移入できるのだ。
 
 だから、今作は、飲み会で味わうような疎外感があるのである。
 彼らは「うぇーい!」と盛り上がっている。それが、新たなものを作り出す。結構な話である。しかし、彼らには必ずや危機がおとずれる。仲の良かった連中でバンドを組んでも、有名になるにつれて、人間関係に亀裂が走るようになる。
 その「危機と克服」が、この作品には希薄なのだ。僕が物足りないのはそこである。
 

(3) 孤独を描かない小説に価値はあるのか?

 
 集団に視点を置くならば、小説というメディアは必要ない。ドキュメンタリーで十分である。人間行動を知るのには、作り話を捏造せずとも、歴史を語るだけで良いからだ。
 だから、小説では個人に視点を置かなければならない。一人称であれ、三人称であれ。
 そこには「孤独な決断」がなければならない。
 
 さて、今作ではどうか。「アキハバラ@DEEP」の代表は、極度のどもりの「ページ」という男である。
 数ヶ月かけて作り上げた検索システムを大企業に奪われた「アキハバラ@DEEP」は、しばらくの間、その活動を半休止状態とする。
 そして、ページは、ここぞとばかり読書にはげむようになる。その中で、僕が注目したのが、次の箇所である。
 

 ページは読んでいた若い作家の恋愛小説から目をあげた。アナログですっきりと割り切れない感情を、可能な限りの正確さであつかった文章を読むのが好きなのだ。

 
 あえて太字にしたが、それは、この文章が、それほどたいしたものでないことの強調である。
 実は、この場面は、ページという男に感情移入ができる最大の見せどころなのである。
 目標を失った彼らが、何をするようになったか。そして、それをするのはなぜか。日常で、彼らが生きる支えとしたのはなにか。
 そのとき、ページは、若い作家の恋愛小説を読んだ。ところが、その理由付けが、たった一文、とっておいたかの文章なのである。あまりにお粗末ではないか。
 
 先日読んで、評価Sとした泉和良の『spica』と比較してみよう。
 孤独な夜、主人公は「数独」(ナンプレ)パズルに夢中になる。その描写は見事な説得力に満ちていて、僕はそれ以来、ナンプレを積極的にするようになった。
 ところが、本作を読んで、読者がページと同じように恋愛小説を読む気になるだろうか。
 
 これもまた、話の展開にはムダな要素であるかもしれないが、読者はそこに登場人物の日常を見出すのだ。このような重要なところを、ありふれた一文ですませたことが、僕にイマイチと言わしめる要因である。
 
 誰も裏切らないという既定路線の物語を読んでいる気分になるのは、彼らの孤独を描いていないからだ。これならば、小説という形よりも、企画書という形で読みたいと思う。
 

(4) 潔癖症やテロについての安易な表現

 
 勧善懲悪小説であるはずなのに、読後感に爽快さがなかった。
 その要因は、ところどころに目立つ安易な表現にあるかもしれない。
 
 デザイナーの「ボックス」という男は、女性恐怖症かつ潔癖症である。
 そのきっかけとなったのは、集団強姦事件に加わっていたからだという。
 彼自身は手を出さなかったが、強姦する集団を止めることはなかった。
 そのせいで、女性恐怖症かつ潔癖症になったらしい。聞くだけで胸糞悪くなる話だ。
 
 今年の正月、川崎の逃亡犯が話題になった。彼の嫌疑は、強盗と強姦である。
 彼は主張した。「強姦は見てただけで、俺はやっていない。お金はとったけど」
 しかし、ネット世論は、そんな彼の主張を嘲笑した。その場にいた時点で、強姦犯ではないか。
 だから、この小説のボックスも強姦犯なのだ。それを他人事のように話すボックスに気分を悪くして、本を閉じる人は少なくないだろう。
 
 或いは、こういう強姦事件というのは、僕が知らないだけで、日常茶飯事なのかもしれないとすら考えてしまう。
 登場人物の動機づけとしては、あまりにも軽率だし、それを語る言葉に重みがないのだ。
 この作者も、そういう強姦は何度もやっているのかと勘ぐるぐらいである。未成年の飲酒や喫煙と同程度にしか思っていないのではないか。
 しかし、その被害者は「ボックス」以上に傷を負っているはずだ。
 こんな説明を聞いたあとで、彼の女性恐怖症や潔癖症の描写を見せられても、自業自得としか思えない。アキラのシャドウボクシングと同じく、一種の様式美として楽しむしかない。
 
 もうひとつ、「テロ」という表現も疑問をいだいた。
 大企業から自分たちの発明品を取り戻すべく「アキハバラ@DEEP」は「明るく楽しいテロ」をしようと呼びかける。
 どうも、彼らはテロを「小規模な戦争」程度に思っているかもしれない。だが、現在での「テロ」という言葉には、無関係の民間人を巻き込むという負の要素が強い。それならば、民間人への殺傷は許されない(はずの)「戦争」という形容のほうが適当だと思う。
 
 そして、彼らは「テロ」を偽装するために、過激派イスラム教徒を気取った映像まで作ってしまう。なぜ、テロでイスラム教徒が出てくるのか。意味がわからない。
 これは、2001年9月11日の米国同時多発テロがきっかけなのだろう。その後の、米国の世論誘導により「テロリストはイスラム教徒過激派」という印象操作がされた。
 一般人ならともかく、作家たるものが、その誘導に引っかかってどうする!
 なぜ、イスラム教徒やコーランを侮辱するようなことを、小説の道具として利用する必要がある?
 
 だいたい、テロといえば、それ以前に世界的に話題になったのが、オウム真理教によるサリン事件である。だから、日本人のカルト集団を気取ればいいのである。それができないのは、サリン被害者の反発を恐れたせいだろうか? でも、イスラム教徒だって、アラブ人だって、東京にはいっぱいいるではないか。
 
 それに、アラブ世界に、民間人無差別殺傷自爆テロを教えたのは、日本人である。
 具体的には、新左翼赤軍派が起こした、テルアビブ空港連続殺傷事件である。
 この唯一の生き残り、岡本公三は、アラブ世界の英雄となっている。中東では、もっともよく名前の知られた日本人の一人であり、中東諸国が親日であるのは、このテロが少なからずの要因となっている。
 僕は新左翼が大嫌いだし、民間人を無差別殺傷して英雄となっている事実は、到底受け入れることはできない。
 
 ちなみに、この新左翼の連中は、キューバ革命社会主義国家となったキューバに向かった。そこで、カストロに会ったが「あなたたちは、あなたちの国を良くしなさい」と体よく追い払われている。カストロの盟友であったゲバラも、その戦術書で「テロはすべきではない」と再三にわたって描いている。
 社会主義国キューバは数多くの人権侵害をしてきたし、他の国では信じられない早さで死刑執行をしてきたが、空港で銃をぶっ放して、民間人を殺すことを英雄と持ち上げる風潮は許さないはずだ。
 
 そして、「テロ」には常に実行犯がいる。今のテロ実行犯の少なからずは、夫を亡くした妻であると聞く。恨みでしか生きられない彼女たちに、テロ組織は、最期の華々しい舞台を用意しているわけだ。唾棄すべきことに。
 だいたい、自爆テロの原型となったのは「神風特攻隊」だと思う。彼らがどのような気持ちで特攻したかは、日本人なら誰もが考えたはずだ。
 自爆テロが勝利を生むことはない。ただの足止めである。そんなものに、若い命が散らされてしまったのだ。世界的にも類を見ない、この作戦を実行するに至ったシステムはなにか。そのことについては、我々は何度議論しても足りないほどである。
 
 だから、「神風特攻隊」や「新左翼」を産んだ日本の小説家が、安易に「テロ」という言葉を使うことに疑問をいだくのだ。
 秋葉原については、相当に勉強して書かれた力作であると思うが、もう少し「テロの歴史」について、作者は学ぶべきではなかったか。
 
 そして、その言葉の軽さが、今作の面白さを致命的に損ねているのだ。
 

(5) 読む価値はあるが、企画書を読むとわりきって読め

 
 評価をBとしたのは、小説以外での情報量の豊富さである。
 
 例えば、とある教授の口を借りて、秋葉原の街をこのように語っている。
 

「近年、東京の大学では郊外移転が流行りのようだが、どの学校も秋葉原から遠く離れて理工学部の水準が保てるのか、わたしにはおおいに疑問だな。技術は技術を求めて集まってくるものだ」

 
 さすがにこれは言いすぎではないかと思うのだが、「ジャンクの街」としての秋葉原の可能性を、うまく物語としてまとめている。読む楽しさはあると思う。
 とりあえず、ドラマ化・映画化もされた話題作なので、興味がある人は読めばいいのではないか。