「稀代の変人作家」として生きた、永井荷風のこと
永井荷風という小説家のことを、現代人はどれだけ知っているだろうか。
「叙情文学」や「散歩文学」と、彼の作品は評される。小説よりも日記のほうが傑作だといわれている。
森鴎外(*)の弟子を自任し、谷崎潤一郎を見出し、慶応大学教授として多くの人材を育成しつつも、遊女やストリップ嬢をこよなく愛し、二度の離婚を経て、独身で死をむかえた永井荷風は、その生き様こそが「作家」であったのかもしれない。
映像による物語と、文字による物語が、完全に分業化されている現在では、永井荷風の叙情描写というものは、決して読みやすいものではない。現代人は展開の妙に期待する。小説の構造を研究するのには熱心でも、詩的表現に心を奪われる人は少なくなっている。
しかし、永井荷風の作品には、かつて存在した「東京」がある。東京は大正12年の関東大震災と、昭和20年の東京大空襲によって、二度廃墟となっている。それ以前の東京の面影を探すことは、今日ではひどく困難なことだ。
かつての東京を知っておけば、今の東京を無条件で受け入れることはなくなるだろう。それは「シナリオの書き方」よりも、ずっと現代で生きる上で大事なことだと思うのだが、どうだろうか。
永井荷風は間違いなく反戦論者だったと思われるが、それを社会的に公言することはなかった。戦時下で彼はせっせと、江戸時代の戯作に影響された作品を書き続けた。敗戦後、永井荷風の新作は、大衆に受け入れられた。なぜなら、そこに、戦時下の影響が微塵もなかったからである。
それほどまでに、永井荷風は変人であった。
日本の小説家は、様々な形で死をむかえた。
有名なのが、自殺した芥川龍之介・川端康成・太宰治、そして割腹した三島由紀夫だろう。
それに比べれば、永井荷風の最期は、衝撃的なものではない。しかし、天命をまっとうできなかった彼らよりも、はるかに芸術的美学を貫き通した死に様であった。
横浜文学学校の藤野氏による『カツレツ荷風の歩いた道』という力作がある。そこでは、永井荷風は79歳の死の前日まで訪れた、行きつけの和食店「大黒屋」の女将さんの証言が収められている。
女将さんによれば、死の前日、荷風は「うつむき加減で犬のように『ふぅーふぅー』と大きな息をしていた」とある。それでも、店員に気づいた荷風は息を整えて、いつものように、こう注文した。
「カツレツ丼とお新香と銚子一本」
メニューでは「カツ丼」であるが、荷風は必ず「カツレツ丼」と言った。
医者である藤野氏によれば、荷風の死因が出血性胃潰瘍であることから、この段階で体の血液量は一般老人の半分以下であったらしい。以下、『カツレツ荷風の歩いた道』より引用。
「しかしこの機に及んでもなお、消化の悪いカツ丼を薬とでも信じているかのように全部平らげている。あっぱれと言わざるを得ない」
独居老人であった荷風の居は、新聞によれば「ゴミだめのよう」であり、「汚い万年床に倒れていた」とある。永井荷風は79歳になっても浅草通いをやめず、養子と喧嘩しつづけ、孤独に死ぬ道を選んだ。
荷風は稀代の変人であった。そう後世から評されるのを望んでいるかのように、荷風は生きたのだ。
遠藤周作は、そんな荷風の生き様を批判する。東京で江戸の香りを探し求める荷風の文学を、若い人がもっとも見習ってはならない作家だと戒める。周作も荷風と同じようにフランス留学しているが、荷風の『ふらんす物語』を文学的眼鏡で矯正された描写にすぎないと書く。
みずからの美学に耽溺し、日記を芸術作品とするべく、そのように荷風は生きた。79歳になったときでも、日記には「正午浅草」と何十回も記されている。命を削ってまで、荷風は浅草に通いつめた。死の前日にも、行きつけの大黒屋で、カツ丼を完食した。
永井荷風の有名な写真のひとつが、浅草ロック座でのストリップ嬢に囲まれたものだ。
このとき、荷風は72歳。文化勲章を受賞した年に、わざわざこんな写真を撮っているのである。
現代人が永井荷風から学ぶことはあるだろうか。荷風の作品を読む必要はあるだろうか。
詩情豊かな荷風の描写は、現代人にはほとんど読み飛ばされるだろう。しかし、そうすれば、荷風作品の魅力に気づくことはできまい。その情景描写の中に、登場人物の心境の変化を重ねているから、それなしに物語の展開を語ることはできないからだ。
ただ、なかには、老人の永井荷風が若い裸の女に囲まれて、鼻の下を伸ばしている写真を見て「なぜ、この人はこのように生きたのか」と考える人もいるかもしれない。荷風を支えていたものはなにか。荷風が失ったと嘆いているものはなにか。
その疑問から、永井荷風を読み始めるべきだと思う。
性が切り売りされた現代の東京に立って目まいしそうなときは、江戸の性風俗を知るのも生きる手段の一つではある。そのようなとき、永井荷風の文学はその指標となるだろう。
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