文学作品の二次創作の限界 ― 中島京子『女中譚』(評価・C)

 

女中譚 (朝日文庫)

女中譚 (朝日文庫)

 

「女中」が主人公の文学作品を書き替えた二次創作中編集。
直木賞受賞作『小さいおうち』成功の叩き台となった失敗作。
 

 読まなければよかった。それがこの『女中譚』を読んだ正直な感想である。
 映画化もされた『小さいおうち』で直木賞を受賞した中島京子のデビュー作は『FUTON』という。その内容は、田山花袋の『蒲団』を妻の視点から書き替えたものである。いわば、文学作品の二次創作なのだ。
 この『女中譚』に収録された中編三作も二次創作であり、元ネタがある。
 『ヒモの手紙』は、林芙美子の「女中の手紙」から。
 『すみの話』は、吉屋信子の「たまの話」から。
 『文士のはなし』は、永井荷風の「女中のはなし」から。
 いずれの元ネタも僕は未読だが、文庫本の巻末には江南亜美子(批評家)の丁寧な解説があり、どのように書き替えられたのかがわかる。
 生命力あふれる女中タキが描かれる『小さいおうち』と異なり、本書の女中はかわいそうな存在である。従来の「薄幸な女中」という印象を踏襲している。舞台となる昭和初期の東京描写も「軍靴の足音が聞こえてくる」教科書通りの内容である。
 おそらく、今作を書きながら抱いた違和感が、『小さいおうち』という飛躍につながったと考える。この『女中譚』は『小さいおうち』成功の叩き台となった失敗作といえよう。
 



 

 今作は中編三作を収録しているが、語り手は同一である。
 彼女の「すみ」という名は、永井荷風の『墨東綺譚』(*機種依存文字のために一部当て字)からとっている。作者は荷風の他作品『女中のはなし』も「すみ」のものとし、そこから女中小説の構想を得たのであろう。
 しかし、永井荷風作品には致命的欠点がある。遠藤周作の言葉を借りれば「自分の理想化した風景を描写することに固執している。文学作品としては優れているが、決して真似をしちゃいけない」
 『墨東綺譚』で、主人公がせっせと玉ノ井の私娼窟に通うのは「かつての東京」がそこにあると見たからだ。『小さいおうち』で描かれたように、昭和初期の東京は米国文化を積極的に取り入れ、昭和15年の五輪開催誘致に成功した活気にあふれていた(後に五輪開催は返上するが)
 そんな「東京モダン」から背を向けたがゆえに『墨東綺譚』には文学的美しさが宿っているが、それをもとに二次創作をしたところで、実在の東京から遠ざかるだけである
 文学作品の二次創作を生業としていた作者だが、『女中譚』を書くことで、その限界を痛感したのではないか。この反省が『小さいおうち』の飛躍につながったと考える。
 

 本書は秋葉原メイド喫茶から始まる。そこに通う90歳の老女「すみ」は、誰彼なしに自分のことを語り続ける。昔はね、メイドといったら亀戸(かめいど)のことだったよ。メイドとノイ(玉ノ井)といや、私娼窟のことさ。あたし? あたしはね、メイドやノイに売り飛ばされた、かわいそうな女じゃないよ。そういう女をいっぱいしてるし、あたしだって淫売したことあるけどね。あたしは女中だったんだよ。あんたたちメイドと同じさ。いいところにも行ったよ。ドイツ帰りのお嬢様のところとか、あと、文士さんのところとか。永井荷風って知ってるかい? 知らないだろうねえ。昔は有名だったんだよ。あのひと、カッコつけてるわりに気の小さいところがあってさ。まあ、その話よりもまずは……。
 

 秋葉原メイド喫茶のバイトをしている娘に、戦前の東京にあふれていた女中について、すれた老女が語る。数年前ならば面白そうな試みと感じる人もいただろうが、今ではどうか。
 そう、2008年6月8日の連続殺傷事件、それが一般人のアキバへの憧れを打ち砕いてしまった。
 今作でもその事件が出てくる。そして、その日を境に老女は自分の「女中譚」を語るのをやめる。
 

 独立した生命力が宿っていた『小さいおうち』に比べ、文学作品の二次創作(よりによって永井荷風!)である『女中譚』に、そのような輝きはない。
 創作を志す者には両者を比較することで参考になるだろうが、読書を純粋に楽しみたい者にはオススメできない一冊である。評価はC。
 

女中譚 (朝日文庫)

女中譚 (朝日文庫)