悪くない出来だが、踏みこみが甘すぎる劇場アニメ『虐殺器官』初見感想

 

 
 踏みこみの甘い原作重視の内容に、声優目当ての若者は唖然とするばかり。
 悪くない映画だがスゴい作品ではない。
 Supercellのキャラクターデザインは良いがエンディングテーマは最悪。
 
 本作は伊藤計劃(けいかく)が2007年に発表したSF小説の劇場アニメ作品である。
 僕は公開初日2月3日の20:40上映を、仕事の合間をぬって鑑賞した。
 期待外れではなかったが、衝撃的な印象を残すものではなかった。
 原作を未読の方は、映画館に行く前に小説を読むことを強くオススメする。
 原作小説を読んでいる人は、原作のシーンを思い出しながら楽しめるはずだ。
 
 15禁ということで残酷描写は多いが、FPS(一人称視点シューティング)のようなゲーム作品に比べると、自由度がない分、魅力が足らない。
 映画ならではの「面白さ」が感じられなかった。
 さらに、原作通りの台詞の数々に、たいていの観客はついていけなかったと思われる。
 twitterやLINEなどの短文で情報交換するのが日常である若者は、思考を途中で放棄しただろう。そんな若者に「長文を理解できない愚か者」と罵ったところで、何の意味もない。
 2時間弱の内容であるのに関わらず、原作既読の僕にはいささか退屈に感じた。声優目当てで鑑賞に来た若者は、徒労感しか抱かなかったのではないか。
 制作者の原作愛は感じたが、それ以上のものはなかった。先の『沈黙―サイレンス―』でのスコセッシ監督は、原作者遠藤周作の原作意図を理解しつつ、より踏みこんだ映像表現に成功した。この映画では「伊藤計劃がスゴい」という周知の事実が再確認されたものの「監督もスゴい」と思わせるものがなかった。
 アニメ化不可能といわれた原作を二時間弱の劇場版にまとめあげたスタッフの手腕は見事であり「おつかれさま」と声をかけたいが、さりとて「小説読まずに映画を見ろ」とは言いたくない映画である。
 以下、くわしい感想。
 
 【目次】
(1) 映画ならではの三人称視点などの工夫がない
(2) 原作愛が招いた踏みこみの甘さ
(3) ヒロインを巡る人間ドラマに帰結するのは論外
(4) 最悪のエンディングテーマ
(5) 公開初日19:40〜上映を見た俺
 
 

(1) 映画ならではの三人称視点などの工夫がない

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 
 伊藤計劃の原作小説は2014年に読んで、このブログで感想記事を書いている。
狂気は言葉で引き出すことができるのか? ― 伊藤計劃『虐殺器官』(評価・A+) - esu-kei_text
 
 この記事で書いたが、原作小説を読んだときにもっとも楽しめたのが「インド編」。映画でも見せ場になっている。
 主人公である米国特務兵はインドを拠点とするテロリスト組織の壊滅を命じられる。その組織は少年兵が多いため、みずからの良心に惑わされぬよう、しゅじんこうたち特務兵は感情にマスキング処理をほどこされる。いわば、命令に忠実な殺戮マシーンと化すわけだ。
 そして、主人公たちは少年兵中心の組織を壊滅していく。幹部の性的相手をしていた少女が健気にも裸のままで銃で応戦しても、一撃で殺す。
 それを没主体の一人称で描ききっているところが、小説『虐殺器官』の魅力の一つだ。
 
 さて、映画ではどう表現されていたかというと、少年少女が殺されるシーンはぼかされて描かれていた。マスキングされた主人公視点を忠実に再現すればそうなるだろう。
 しかし、おかげで主人公の殺戮マシーン化が観客にうまく伝わらなかったと感じた。
 ここは三人称視点への切り替えも行うべきではなかったか。主人公にとってはノイズでしかないわめき声も、三人称視点に移せば痛切なものとなる。。
 このシーン、まるでFPS(一人称視点シューティング)を再現したもののように感じた。ならば、ゲームでプレイすれば済む話。わざわざ、映画館で見るものではない。
 あれが「15禁として見せられる映画表現の限界」だと言うのならば、映画に価値などないではないか。
 
 先に見た『沈黙ーサイレンスー』を例にあげると、加瀬亮の処刑に、小松菜奈が泣き叫ぶシーン。その悲痛の叫び声が観客の心をえぐり、強烈な印象を残すことに成功した。
 この『虐殺器官』ではどうか? 映像は表現規制があるから仕方ないかもしれないが、阿鼻叫喚絵図を音声で聞かせるべく最大の努力をしたといえるだろうか。「うわぁぁあ」と叫んだ少年兵は一人しかいなかったと思う。
 また、主人公の特務兵のプロフェッショナルさを、未熟な少年兵の視点で見せるべきだったと感じる。一撃必殺できなかった少女兵を義務的にトドメをさす冷酷さとか。
 さらに、原作小説では、組織幹部の性的相手をつとめる十代前半の少女が、その地位を守るべく裸体で応戦する一方で、その幹部が急いで逃げ出そうとする光景も描かれていたはずだが、映画を見た者にそこまで想像できるほど明確には表現されていなかった。若者を死に追いやるテロリスト組織幹部の卑劣さというものが観客に伝われなければ、怒りの感情はもたらされない。
 特殊な訓練と心理療法がほどこされた主人公の特務兵は、フラット(平坦)な感情で任務を遂行するが、見ている観客もフラットになってしまえば失敗ではないか。
 
 原作小説で感じられた凄味が、この映画にはなかった。それは、原作小説での執拗なまでの没主体描写が、映画では時間的制約のためか執拗さがゴッソリ抜け落ちたためである。ならば、三人称視点をいれるべきだった。『虐殺器官』というタイトルの映画を観客は見に来ているのだから、吐き気をもよおすぐらいの描写は欲しかったと感じる。
 

(2) 原作愛が招いた踏みこみの甘さ?

 

 
 若くして夭折した伊藤計劃のスゴさを知らしめるうえで、この映画は成功したといえる。ただし、「伊藤計劃がスゴい」であって「映画がスゴい」と思わせなければ、成功した映画とはいえないはずだ。
 
 原作小説は2007年に発表された、この映画はもともと2015年に公開されるはずだったが、制作会社の倒産などの事情があり、2017年2月3日公開となった。期せずして原作小説から十年目の映画化となったのである。
 原作小説が持つ近未来性は、この映画でも十分に表現されている。情報管理が徹底した先進国と、テロが絶えない後進国とに2分化された世界は、この2017年に生きている者ならば思い描きやすい未来像だろう。
 映像的な見どころは、序盤のテロリストのアジトの乗りこむシーン。先進国の管理技術を中途半端に採用した後進国では偽造IDでの侵入も米国特務兵には容易。そのアジト内では処刑が日常的に行われているということも映像では表現されていて、見ごたえがある。
 続いてチェコプラハが舞台となる。「虐殺の仕掛け人」とされる「ジョン・ポール」というフザけた名前を持つ男の居場所をつきつめるために主人公はプラハに潜入した場面だ。
 プラハといえば、1989年のベルベット革命が有名で、その後、大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルは劇作家でもある。チェコスロヴァキアの平和的な分裂など、ボヘミアンの故郷であるチェコには芸術の匂いが濃い。また、作中でも取り上げられているように、フランツ・カフカの生地でもある。
 そのプラハの町並みが映像で表現されているのもまた、この映画の見どころの一つであろう。
 しかし、インド編とヴィクトリア湖畔編は、映像的に物足りなかった。例えば、ヴィクトリア湖畔は「人工筋肉」の素材を養殖しているのだが、台詞だけにとどまり、原作未読の観客の想像力を喚起させることはなかったと感じた。
 
 そもそも原作小説『残虐器官』は執拗ながらもフラットな一人称で残虐性を描いたことが評価されているのだが、映画では「フラット」さが強調されて「執拗さ」が置いてけぼりにされている。だから「虐殺」を題材にしているのに関わらず、苦痛なく映画を見ることができるのである。タイトルのわりには、いささか健全すぎる。
 それは原作を尊重するあまり、踏みこみが足りなかったせいではないか。原作者は物故しているとはいえ、制作陣は「もし、伊藤計劃ならば、どう映画表現したのか?」を必死で考えるべきではなかったか。「あの天才・伊藤計劃の小説をなんと映画化しました。すごいでしょ」だけでは、映画料金を損したとは感じなかったけれど、拍手を送るほどではない。
 声優目当てで映画を見た若者たちに、強烈な印象を残すことができたかは疑問である。
 なんだか、僕が必死でしゃべっているのを「あ、そうだね」と上の空であいづちをうっているような、そんな冷淡さを劇場で感じた。別に「偏差値40に向けた映画を作れ」というつもりはないが、原作未読の者にも感情移入させるだけの工夫が必要だったと僕には思えるのだ。
 

(3) ヒロインを巡る人間ドラマに帰結するのは論外

 
 本作のヒロインであるルツィアについては、映画でも魅力的に描かれている。しかし、そのヒロインを巡る人間ドラマに物語が埋没してしまうのはどうか。悪役が私怨にこだわるのは良いが、主人公が私怨にこだわるのは問題があるのではないか。
 原作小説の場合、ヒロインに感情移入していく主人公を、一人称視点ながらも冷徹に描いているところがあった。虐殺という背景があるからこそ、ヒロインをめぐるメロドラマが滑稽なのだが、その滑稽さが滑稽と感じられない映画だと感じた。
 映画を見た者は「ルツィアを悲劇の女」と読み取ることはできただろうか。「ファム・ファタール(宿命の女)」という説明は抜きにして、観客は憎悪の対象をルツィアに向けてしまう危険性はないだろうか。今作での憎悪の対象はテロリスト幹部であったり、その精神をコントロールする「ジョン・ポール」に向かうべきだが。
 だから、ルツィアに魅せられていく主人公の感覚を、異常なものとして描かなければならない。最終的なルツィアの結末において、主人公の思考は異常をきたしているのだが、その異常性を音なり映像なりで表現すべきではなかったか。
 なにしろ、虐殺に比べれば愛はもっとも身近な感情である。愛が悪であることが異常なのだが、戦場では愛のために味方を犠牲にしようと考えるのが悪なのだ。このあたりが、原作未読の観客には伝わらなかったと思われる。
 
 結局、多くの若者にとって、この映画でもっとも印象的なシーンは「主人公がアメフト見ながらピザ食ってた場面」となるかもしれない。それでは、とても『虐殺器官』の映画化に成功したとはいえないだろう。

 

(4) 最悪のエンディングテーマ

 
 さて、映画本編については「工夫が足りない」と感じたものの、失望させることはなかった。あの原作小説をよくぞ映画化に成功したものだ、と一定の評価を与えられる完成度である。
 問題は、エンディングテーマ。これがもう耳障りすぎる。
 曲をつくったのはボカロPで名をあげたryo(Supercell
 『メルト』や『ブラック★ロックスター』などの楽曲は、ニコニコ動画で高い再生数を誇っている。
 個人的には、アニメ「俺妹」のオープニングテーマ『irony』『reunion』が好きである。
 しかし、『虐殺器官』のエンディング、特に原作通りの世界崩壊を予兆させる結末のあと流れるにしては、ひどすぎる楽曲である。
 映画スタッフも内心は「これを流しちゃダメだろ」とはわかってたはずだ。例えば、魔法少女まどか☆マギカのED『Magia』だったら、エンディングで流れても僕は納得できただろう。ryoなりの「狂気」を題材にした歌曲を流されても、観客は「一刻も早く出たい」と感じるだけではないか。
 最近の映画では、エンドロールが流れたあとにオマケ映像が流れることがある。僕は原作通りの結末に「これ以上付け加える要素はないだろう」と思いながらも、それでも席にとどまっていた。
 しかし、あの最悪のエンディングテーマのあとに映像が流れることはなかった。
 ということで、本作ではエンディングテーマが流れたら、即座に席を立つことをオススメする。エンドクレジットの名前をチェックしているアニメオタクの人には嫌われるだろうが仕方ない。それほどまでに苦痛に満ちたエンドロールだったのだ。
 

(5) 公開初日19:40〜上映を見た俺

 

 
 以下余談。いつもの日記である。
 今回、僕は『虐殺器官』を2月3日(金)の公開初日に映画鑑賞し、その感想をブログでアップするという野望をいだいた。
 しかし、僕の事情と会社の事情は両立しない。火曜日から日曜日まで休みをとることはできなかった。だから、19:40からの上映を見ることにしたのだ。
 前日夜にとった席はL-6。通路端である。予約時点で多くの席は埋まっていた。『虐殺器官』というタイトルでこんなに盛況なのか、と僕は驚いたものである。
 
 さて、2月3日、僕が登戸の自宅に戻ったのは19:00。それから着替えて駅に向かって、向ヶ丘遊園駅新宿駅行の電車に乗ったのは19:18。
 

 
 googleマップの乗換案内を参考にせずとも、19:40には間に合わないことがわかる。
 シアターに入ったのは19:50。それでも、僕は本編を冒頭から見ることができた。映画予告編が10分以上垂れ流しされていたせいだ。端の席ということもあり、他の人に迷惑をかけずに座ることができた。俺大勝利である。
 上映時間前の映画予告はともかく、上映時間をすぎても予告版が流れる今の風習はなんとかならないものだろうか。どうも映画館側は「新作をちょっとだけ見せる」サービスだと勘違いしていると思われる。あんなのサービスではない。ただの広告の押しつけだ。あれを垂れ流しすることに後ろめたさを感じてもらわないと困る。
 ちゃんと映画料金を払っているのだから、予告編は免除しても良いはずだ。上映時間になったら、該当シネマの注意映像と映画泥棒だけ流れて本編が始まるべきだ。
 今回の場合、上映開始時間後10分してからでも本編に間に合ったのは幸いしたが、本来ならば遅刻であり、本編の冒頭を見ることができないのが当然であろう。
 このように慌てて劇場に入ったので、観客数の正確な数はわからなかったが、407名定員のスクリーンがほぼ埋まっていたと見えた。
 若者の数が多く、僕は勝手に「声優目当てだ」と考えたものだ。もしかすると、熱心な伊藤計劃ファンばかりだったのかもしれないけれど。
 
 さて、映画を見終わったあと、登戸に帰り、そこのネットカフェで感想をアップしようと思ったが、時間をかけずに公開した文章は誤字脱字が訂正できないし、ムダな敵を作ってしまう可能性がある。疲れるとつい暴言が出てしまって、それが読者の注目を浴びてしまうことが多い。
 結局、この感想記事を公開したのは、2月5日の昼休みとなった(予定)。僕のように長文でなければ自分の主張ができない性格の人間には、即日に感想を公開するということは難しいと実感した今回の試みであった。
 
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