小説に欠かせぬ3つの要素とは? ― 筒井康隆『創作の極意と掟』(評価・A)

 

創作の極意と掟

創作の極意と掟

 

小説に欠かせぬものと、やってはならないことはなにか?
古今東西の作品を引き合いに、筒井康隆がマジメに創作を語った一冊!
 

 筒井康隆といえば「作品ごとに文体を変える」と評価されたり、文字落とし長編『残像に口紅を』などの画期的な実験小説を書いてきたりと、小説の可能性を探り続けてきた作家だ。僕は未読だが『文学部唯野教授』という著作もある。
 本書の対象者は「プロの作家になろうとしている人、そしてプロの作家すべて」と序言に書かれているが、どちらかというと同業者向けであると感じた。新刊本の帯推薦で伊坂幸太郎が「参考になった」と書いていたが、あながち冗談ではないだろう。
 では、小説家になれない人には無用の長物かといえばそうではない。読者視点に立って読めば良いのだ。本書の「小説執筆の極意」を知ることは「良き小説」を見きわめる目を身につけることもできるはずだ。個人的には、書評を書くうえで参考になった一冊である。
 

 小説とは何をどのように書いてもよい文章芸術の唯一のジャンルである。それでも「小説には欠かせぬ要素」と「やってはならないこと」があると著者はいう。
 本書では「凄味」「展開」「逸脱」など29の項目(+2)について、それぞれ作品を引用して語られている。「小説家は理論家ではない」と著者が語っているとおり、それらは体系化されておらず、大切に思っている項目から順番に書いたという。
 例えば「妄想」「諧謔(かいぎゃく)」といえば、筒井文学の真骨頂というべき項目であるはずだが、本書では末尾に回されている。著者の本気さがこれでもわかるというものだ。
 

 小説には「未熟ゆえの欠落が凄味となる」といった面白さがあり、文学理論を身につけた者が良い小説を書けるわけではない。
 とはいえ、本書の「自分の考え方すべてに自信満々という人が書いたものには、まったく凄味がない」「読者のことをまったく考えないで迫力というものは生まれない」といった助言は、創作活動で苦しんでいる者には大いなる助けとなるはずだ。
 引用している作品は、著者が自分の文体を築くうえで参考にしたヘミングウェイの短編をはじめ、室生犀星高橋源一郎、『涼宮ハルヒの消失』など多岐に及ぶ。自身の作品も例にしているので、筒井ファンの人にも満足できる内容だろう。
 繰り返し読みたい創作助言書だ。
 

 

◆ 感想

 

 本書のうち、大事な4項目について、手短にまとめてみる。
 

 

【凄味】

 

 「小説を書くとは、もはや無頼の世界に踏み込むことであり、良識を拒否することでもある」と著者は語る。それゆえに、その文章には凄味がある、と。
 凄味こそ、読者に小説を読み続けさせる魅力である。「凄味のないものは小説ではなく、本として売られることもない」とまで著者は言い切る。
 凄味が必要といって「死」や「恐怖」を書こうとするのは安易である。カフカの不条理感覚のように、死や恐怖は間接的表現の裏側にぼんやりと存在をほのめかした方が凄味に結びつく。
 新人作家の場合、未熟のための意図せぬ欠落が逆に凄味となるが、技巧によって凄味を出すこともできる。作品世界の「底の知れなさ」を読者に感じさせることが凄味につながるのだ。本書では、その簡単なサンプルがある。
 小説に必要不可欠な要素である「凄味」について、著者は「小説を書く覚悟を決めた人が書く以上はどんな小説であれ、そこには必ず凄味がある」と書く。つまり、凄味のある文章が書けない人は覚悟が足りぬということだ。
 

【色気】

 

 凄味とともに、小説になくてはならぬものが色気であるという。といっても、男女の愛欲に限るものではない。
 例えば、本書では宮沢賢治を例にあげている。女性に縁のなかったといわれる宮沢賢治だが、その作品にはたいへんな色気が存在するという。
 では、その色気とはなんなのか。「凄味」には直接結びつかない「死」や「恐怖」が色気と結びつくという。『注文の多い料理店』で、喰われると知った二人が泣き叫ぶところに、異常なほどの色気があると筆者は述べる。
 エロチックな愛欲描写だけをえんえんとやっただけでは、小説しての色気は感じられない。絶対にやってならぬことは、作者自身が性的に興奮するためエロチックな描写をすることである。
 はたして、色気とは何なのか。著者は丁寧に説明してくれない。「小説を書く者は自身が色気を持て」と助言するのみである。
 著者いわく「常に色気を持った日常を保つためには、常に誰かを恋し続けなくてはならない。それが手の届かない高嶺の花であろうと、手を出してはいけない既婚者であろうと、ひそかに、できれば情熱的に、恋し続けていなければならない。その背後に死の陰が見え隠れしていれば文句なしだ。そうすれば作品には何を書こうと色気がしぜんに漂ってくる」。
 

【迫力】

 

 小説には迫力がなければならない。
 迫力とは文章の力によって生じるものである。主人公を窮地に追い込んだり過酷な運命に追いやったりストーリイを予想外に展開させたりすることによって生じるものではない。文章というのは作家の思考の過程をそのまま表現してしまうものだから、さほどの考えもなくルーティン・ワークとして小説を書いてしまうような作家の作品からは絶対に迫力が産まれることはないのだ。
 また、読者のことをまったく考えないで迫力というものは生まれない。自分が作品に感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違いである。
 創作において迫力を生む題材といえば「対立」である。小説の場合は、主人公と何者かの対立、ということになる。親子の対立、夫婦の対立、教師と生徒の対立、兄弟姉妹の対立、友人同士の対立、などなど。運命との対立、社会との対立という小説は、運命や社会を体現している他者を登場させることになる。
 善悪の対立となるといささか図式的になるが、主人公を悪にすると文学にもなり得る。このとき、作家は自分の中にある悪の部分を顕在化させ、見つめなおすという作業が必要になってくる。作者がどこまで、そして如何に自分自身の中の悪と対決できるかが迫力の源になってくるからだ。
 最後の対立の相手は「死」である。ハイデガーの『存在と時間』では、いわゆるメメント・モリ(死を思え)のくだりこそが最も迫力のある部分である。死と真剣に向かい合ってみることで、迫力は生まれるのだ。
 

【揺蕩】

 

 「揺蕩(ようとう)」とはあまり聞き慣れぬ言葉だが、批評用語ではアポリアという。作家の意図せぬ「辻褄の合わぬ」ところである。登場人物の主張や考え方が前半部分と後半部分では違ったり、価値基準が変わったりすることだ。
 この揺蕩を作家は怖れてはならないと本書はいう。英国批評家ジョン・ベイリーによれば「小説は無秩序だから面白い。登場人物の性格が行きあたりばったりだからこそ自然に見える。それだからこそ読んで心地よい。喜ばしき平穏だ」となる。
 自身が気づかなかった揺蕩を矛盾だとか破綻だとか論難されても、作家は気にしてはいけない。それは作品の破綻ではないからだ。
 例えば、ガルシア・マルケスは『百年の孤独』出版後に四十二の矛盾点を自身で見つけたという。しかし、彼は誠実ではないだろうと考え、再版でも翻訳でも訂正しなかった。
 批評家は、この揺蕩(アポリア)を珍重する。その中に、作品の新しさや作家の言いたいことを発見できるからだ。ガルシア・マルケスの言葉を借りれば「誠実に書くからこそ揺蕩が出る」のだ。
 ただ、わざと登場人物や語り手に揺蕩をさせてはならない。文学的に無価値な上、読者をいたずらに混乱させるだけだからだ。
 

◆ その他、引用している作品など

 

 このほか、【細部】では『ボヴァリー夫人』が定番として紹介されているほか、【遅延】ではライトノベル涼宮ハルヒの消失』が取り上げられている。【羅列】では中島らもが引用され、【人物】では『戦争と平和』(登場人物が500人に及ぶ!)を例にあげる。【濫觴】(らんしょう。書き出しのこと)では、川端康成の『雪国』が当然のように出てくる。
 

 むろん、著者は自作の紹介も忘れない。【省略】では『虚人たち』、【実験】では『残像に口紅を』をあげている。【反復】では、まるまる『ダンシング・ヴァニティ』という自作を解説している。いずれも実験色にあふれたコンセプトで書かれたものだ。
 

 『虚人たち』は、作中の一分を原稿用紙一枚として書かれている。主人公の食事や排泄も詳細に描き、気絶しているときはその時間分空白となる。泉鏡花文学賞受賞。
 『残像に口紅を』は、章ごとに文字落としをする長編である。第一章は「あ」の文字落としで「麻雀」「ラーメン」といった単語が使えない。第二章は「あ」に加えて「ぱ」の文字落とし。話が進むにつれて、どんどん使える音が減っていき、最後に「ん」だけが残るというもの。
 『ダンシング・ヴァニティ』は、反復小説として書かれている。象徴の反復、出来事の反復、空想の反復、失敗の反復、時間の反復、儀式の反復、日常の反復、演劇的反復、音楽的反復、行為の反復、階層の反復、映画の反復、ゲームの反復、人生の反復……。もちろん、コピー&ペーストではなく、反復するにつれて細部が省略されたり、重層的な反復であったりする。このリピート・ノベルを批評家の吉本隆明は「文学は難解なものであるということを示すために書いた作品」と評したという。
 

 新しい小説を書きたい、という願望は誰もが持っていると考えるが、筒井康隆の実験文学(しかもすべて長編)を前にすると、そんな野心もしぼむのではないか。
 僕はこれまで筒井作品をほとんど読んだことはなかったが『文学部唯野教授』とともに、これら実験小説を読んでみようと考えている。
 

◆ まとめ

 

 ベートーヴェンの「合唱」の作詞で知られるシラーはこう書いている。
「創造的人間の場合、理性は、入口でその監視をゆるめる、すると、いろいろな観念(アイディア)が乱入してくる」
 本書は文章作法指南書ではない。前述したように「文章というのは作家の思考の過程をそのまま表現してしまうもの」であるから、形だけ真似ても読者に見透かされてしまうのだ。小説家はどのような視点を持たねばならないかという生き方を説く本といえる。
 小説に絶対に欠かせぬ「凄味」「色気」「迫力」についても、その文章を生みだすのは作家の人間性であることを、本書は教えてくれる。
 

 本書は「これから小説を書こうとする者」に向けて書かれている体裁だが、明らかに「プロの作家」に向けて書かれたものだ。
 だから、アマチュアの僕には実感できない部分が少なくなかったが、それでも読みごたえのある内容だった。
 いつか読み返すと、新たな発見が見つかるかもしれない。評価はA。
 

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