長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』(評価・A−)

 
 
「蛙飛びこむ水のおと」の「水」は「古池」のことではない!
成立過程からわかる、客観と主観が溶け合った芭蕉の俳句世界
 

 
古池や蛙(かわず)飛(とび)こむ水のおと
 
 松尾芭蕉の作品のうち、もっともよく知られる句である。
 この句の評価は様々だが、近代俳句の巨人である正岡子規のものが、もっとも一般的であろう。
「古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、また他に意義なし」
「古池に蛙が飛びこんでキヤブンと音のしたのを聞いて芭蕉がしかく詠みしものなり」
 古池に蛙が飛びこんで水の音がした。それだけの句であって、深読みは無用であると、子規は語る。
 
 それに異を唱えたのが本書である。著者の主張はこうである。
「古池に蛙は飛びこんでいない」
 そして、そこから、松尾芭蕉の俳句の芸術性を解き明かしているのだ。
 古池の句の真相を知ることは、松尾芭蕉の作風である「蕉風」が何たるかを知ることができる格好の素材であると、本書は主張している。
 
 
 本書は一般向けの書ではない。きわめて専門的な内容である。
 もともと『俳句研究』という専門書で連載されたものだし、引用される古文に現代語訳が付いていない。
 また、多くが1995年に刊行された『松尾芭蕉全集』の解説への反論となっている。いわば、俳壇の主流派への批判という体裁だが、俳壇そのものを知らない読者には、なじみにくい。
 それなのに、中公文庫で文庫化されているのだ。
 
 それは、古池に蛙が飛び込んでいないという著者の主張を読むことで、松尾芭蕉がいかにして句を作ってきたかを知ることができるからだ。
 そして、それゆえに、本書は俳句という限られた文字数で表現された「世界」の魅力がわかる格好の書となっている。
 わかりにくいところがあるし、繰り返しが多いものの、その欠点をおぎなうだけの面白さが本書にはある。
 

◆ 古池の句はいかにして成立したか

 
 古池の句は「蕉風開眼の句」として知られる。
 古池の句をつくったことで、松尾芭蕉は旧来の句風から脱し、みずからの作風を築いたとされる。
 それは、後世の評価ではなく、芭蕉の弟子である支考が、こう書いているのだ。
 
「(芭蕉は)古池の蛙に自己の眼(まなこ)をひらきて、風雅の正道を見つけたらん」
 
 もし、芭蕉の200年のちに生きた正岡子規が言うように「古池に蛙が飛びこんだだけの句」ならば、芭蕉たち「蕉門」は、この句を広めようとしただろうか。
 本書の著者はその疑問から、その成立過程を調べたのだ。
 
 古池の句の初出は『蛙合』という句集である。
 編者の仙花はこのように記す。
「(東京の)深川の芭蕉庵に集まって、蛙の句を詠みあったものをまとめた」
 芭蕉の古池の句は、その最初に掲載されている。
 
 しかし、著者はそれが「架空の句会」であったと指摘する。
 なぜなら、『蛙合』に掲載された句を詠む四十一人の中に、京都にいるはずの去来も含まれているからだ。
 この句集の作者は、素堂、孤屋、嵐雪、杉風、曾良、其角といった、芭蕉にゆかりのある江戸人の面々であるが、京の去来の名がある時点で、彼らが一堂に会して、蛙の句を詠みあったとは考えられないと著者は語る。
 おそらく、数人の句会で、芭蕉の古池の句は生まれたのだろう。それに感銘を受け、参加者は、知人に蛙を主題にした句を寄せてもらうように書簡で依頼したのだ。それをまとめたのが『蛙合』であるというのが著者の推測である。
 少なくとも『蛙合』という架空の句会をでっちあげるだけの動機が、古池の句にはあったということだ。
 
 そんな古池の句の成立過程を記した書がある。
 支考の『葛(くず)の松原』である。
 この各務支考は、古池の句が誕生した瞬間に居合わせていない。古池の句が詠まれたのは貞享三年(一六八六年)であり、支考が芭蕉の弟子となったのは、その数年後である。
 ただし『葛の松原』が出版されたのは、芭蕉の存命中の元禄五年(一六九二年)である。だから、芭蕉本人が目を通したうえで、世に出されたと考えられてる。
 
 その『葛の松原』に書かれた、古池の句の成立過程は「古池が蛙に飛び込んで水の音がした」という一般的見解とは、大きく異なるものだった。
 

◆ 古池の句はこうして完成した

 
古池や蛙(かわず)飛(とび)こむ水のおと
 
 この句は「蕉風開眼の句」として、弟子たちを中心に喧伝されたものだが、その構造を分析すると、次のことに気づく。
 
 上の句の「古池」と、下の句の「水」は意味がかぶっているのではないか?
 
 俳句は十七音という限られた音数で表現される。
 ゆえに、同じものを二つ繰り返すのは、野暮であると見なされる。
 なぜ、芭蕉はほかの表現を探さなかったのか。
 それが『葛の松原』の成立過程を読めば明らかになるのだ。
 
 『葛の松原』によれば、この句は、最初に「蛙飛びこむ水のおと」という下二句ができた。
 その後、弟子の宝井其角は「山吹」を提案したが、芭蕉は「古池」とした。
 
 わずか二百字足らずの文章だが、示唆されるものは大きい。
 まず、芭蕉の弟子の第一人者である其角が「山吹」を提案したことに注目すべきである。
 もし、それが採用すれば、次のようになっていた。
 
山吹や蛙飛こむ水のおと
 
 なぜ、「山吹」という単語が出てきたのか。
 それは、これまでの俳諧では「蛙」と「山吹」はセットであるという決まりごとがあったからだ。
 
 「蛙飛びこむ水の音」という下二句は、当時としては画期的であった。
 なぜなら、俳諧では「蛙」は「鳴く」ものだったからである。
 蛙を題材とする短歌ないし俳句では、その鳴き声を題材にするのが常であった。
 それなのに、芭蕉は「水に飛び込む音」を句として詠んだのである。
 
 この句が詠まれたのは、江戸の深川にあった芭蕉庵である。
 隅田川のデルタ地帯が埋めたてられた水辺である。蛙は多かったであろうし、その鳴き声は知っている弟子たちも、水に飛びこむ音が蛙によるものとは知らなかったかもしれない。
 ともすれば、耳ざわりと感じるその音に、芭蕉は興を覚えて、「蛙飛びこむ水のおと」という下二句を作ったのだ。
 
 その上の句で、弟子の其角は「山吹」を提案した。
 蛙といえば山吹である。しかし、それが詠んだ句は、鳴き声でなく、飛びこむ水の音である。その仕掛けによって、其角は旧来の俳諧固執を皮肉ろうと試みたのだ。
 だが、芭蕉は「古池」を採用した。
 
 この制作過程からもわかるだろう。
 この句は古池を見ながら詠んだ句ではない。
 「蛙飛びこむ水のおと」という聴覚から導きだされた下二句に、最適の上一句が「古池」であると芭蕉が判断しただけなのだ。
 
 もっと突き詰めて考えてみると、この句は次のようなものである。
 
「蛙が飛びこんだ水の音を聞いて、私の心に古池のイメージが広がった」
 
 だから、「古池」と「水」という同じ意味の単語が共存できるのである。
 十七音という限られた音数のなかで、同じ意義の言葉を使うのは野暮だとされる。
 芭蕉は、あえてその野暮な手法をとることで、それが別のものであると伝えたのだ。
 
 つまり、「蛙飛びこむ水のおと」の「水」は「古池」ではないのである。
 
 こう考えると、この古池の句が「蕉風開眼の句」と呼ばれるのも納得できるのではないか。
 蛙の飛びこむ音を聞くことで、視(み)える古池を詠ったのが、この句なのだ。
 
 なお、この手法は、他の芭蕉作品にも見られる。
 
京にても京なつかしやほととぎす
 
 あえて「京」という単語を二回使うことで、それぞれが別の意味を持っていることを、受け手に知らせる。これは、京都でほととぎすの鳴き声を聞くと、文学作品などで触れたかつての京都が胸にせまり懐かしさを覚える、というものである。
 
 古池の句は、このような芭蕉の作風を確立させた、画期的な句だったのだ。
 

◆ 「蝉の声」の句は、どのように推敲されていったか?

 
 それでも、古池の句が「心の眼(まなこ)で視(み)た古池」というのは、深読みではないかと考える人もいるだろう。
 
 そこで、本書の著者は「おくのほそ道」に掲載されている句を例に出している。
 
閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声
 
 これは山形の立石寺に立ち寄った際に詠まれたとされている。
 しかし、同行者である弟子の曾良によれば、この句は旅先ではこう詠まれていたのだ。
 
山寺や岩にしみつく蝉の声
 
 古池の句と構造が似ているが、こちらは深読みする必要はない。
「山寺(立石寺)で蝉の声が岩にしみつくように聞こえた」という意味である。
 
 ところが、東北の旅から帰り「おくのほそ道」という作品にまとめたときに、芭蕉はこの句を推敲したのである。
 もし、芭蕉が徹底したリアリズムの追求者であったなら、このような加工はしなかったであろう。
 
 そして、その訂正によって、古池の句と同じような構造となる。
 
「岩にしみいるような蝉の声を聞き、私は静けさを感じた」
 
 多くの解説では、この句は「静けさのなかで、岩にしみいるような蝉の声が聞こえる」と訳されている。
 しかし、同行者の曾良のメモから、その成立過程を探ると、この「静けさ」がその場の状態を表すだけものではないと気づくはずだ。
 蝉の声に静けさを感じる。その描写で、その句の空間世界は広がっていく。
 それは「山寺」という場所をあらわす単語よりも効果的であると、旅から帰ったのちの芭蕉は判断したのだ。
 
 これが「蕉風」であり、松尾芭蕉の俳句の世界なのである。
 

◆ 客観と主観が溶け合った芭蕉の俳句の世界

 
旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る
 
 松尾芭蕉の晩年の句として有名なものだ。
 この句の一般的な解釈は次のようなもの。
 
「旅の途中で病んでしまった。その病床で、枯野を駆けめぐる夢を見た」
 
 しかし、古池の成立過程を頼りに、芭蕉の句の世界を知った者には、このような解釈は物足りなさを感じるだろう。
 「夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」という下二句を「少年時代のように枯野を駆けめぐる夢を見た」という陳腐な表現だけで片付けて良いものか。
 
 これは文字通り「夢が枯野をかけめぐるのだ」ととらえるしかない、と著者は語る。
 旅先で倒れ、私の身体は自由にきかない。しかし、夢を通じて、私の心は枯野を自由にかけめぐっているのだ。
 そのようなダイナミズムを感じないだろうか。
 
 古池の句の一般的な解釈は平板なリアリズムである。
 しかし、芭蕉はリアリズムの追求者ではない。より自分の内面世界を表現するべく、推敲することをいとわぬ俳人であった。
 
 ここでは、古池と蝉の句を中心にとりあげたが、本書では他の句も紹介されている。
 それを読むことで、これまで「何がよいのかわからない」芭蕉の句に秘められた内面世界を知ることができるはずだ。
 そして、それゆえに、芭蕉の句は400年近くたった今でも、愛されつづけているのである。