野崎まど『know』(評価・C)

 
 
情報格差が制度化された近未来を描いたSF。
主人公はいけすかない男で、結末はイマイチ。
 

know (ハヤカワ文庫JA)

know (ハヤカワ文庫JA)

 
 ハヤカワ文庫から出されたSFだが、作者はライトノベルの登竜門である電撃小説大賞にて、メディアワークス文庫賞を受賞して『[映]アムリタ』でデビューしている。
 今作は、文庫書き下ろし長編である。表紙はラノベっぽいが、文中に挿絵はない。
 
 2080年、情報が肥大化した社会において、人造の脳葉である《電子葉》なる装置を植えつけられるのが義務化され、45歳未満の者がほぼそれを脳に宿している近未来が舞台である。
 《電子葉》により、人々は端末なしに情報をネットワークから引き出すことができる。自分の居場所だけではなく、相手の顔を見ただけでその者に関する情報を手にすることができるのだ。
 ただし、入手する情報は万人に平等ではない。クラス分けがされている。総理大臣や閣僚はクラス6。標準的な市民はクラス2。社会的な罰則を受けるとクラス1。そして、生活保護を受ける者はクラス0。
 このクラスは、情報の防御力をも意味する。クラス0の者は、ほとんど情報を得られないばかりか、個人情報を守ることすらできない。
 このように情報格差が制度化された社会である。本作の主人公はクラス5の官僚である。クラス5となれば、女を口説くときに、ただちにその個人情報を入手して、「運命的出会い」を演出することができるし、帰る家を見失った老人の顔を見るだけでその住所を知ることができる。また、犯罪行為をしても、高クラスの情報防御力をいかして、警察組織に気づかれることはない。
 
 そんな歪んだ情報格差制度が作られたのはなぜか?
 ひとつは、肥大化する情報の中で、人は自前の脳だけで処理することが困難になり、自殺が社会問題となっていた。《電子葉》はそんな超情報社会を解決する画期的発明だったのだ。
 そして、《電子葉》をはじめとした情報技術が一人の天才によって生み出されたという事情もある。彼は京都大学の教授であり、ゆえに、京都は世界屈指の情報先進都市となり、成功した。
 その結果、人の尊厳よりも、脳のオーバーフローに対処することが先決であると、情報格差は行政によって制度化されることになったのだ。
 
 本作は約350ページ。全5章+エピローグという形式である。
 エピローグをのぞき、主人公である29才若手官僚男性の一人称小説の体裁だ。
 彼は物語の主体者ではない。彼は《電子葉》を生み出した天才教授の最後の弟子を自認している。その教えに導かれるように、クラス5の官僚に昇りつめた。ただ、道徳観は乏しく、高ランクをいかして女を口説いたり、犯罪行為に手を染めている。その彼が、天才教授と再会し、《量子葉》という新型人造脳葉を植えつけられた孤児の少女を託されることで、物語は進む。
 その少女はランク0だが推定ランク9である。情報格差の制度化では、ほとんど情報を得られず守ることができない孤児だが、《量子葉》の性能はそんなシステムを凌駕しているのだ。
 少女は組織に追われている。その《量子葉》は、とある企業が天才教授と共同開発したもので、非合法なものだ。違法な人造脳葉を植えつけることは法律で許されない。だが、推定ランク9の能力にみせられた主人公は、官僚という立場を捨てて少女と逃亡劇を繰り広げる。そこで、自分の属していた「情報庁」の真の姿を知ることになる。
 逃亡劇の舞台は、かつての古都、この物語では情報先進都市である京都である。クライマックスは京都御所でのバトルだ。ただ、史跡めぐりのようなものであり、京都ならではの息づかいは文章から感じない。
 
 やがて、主人公は知ることになる。情報格差を許した天才教授の本当のねらい。そして、《量子葉》を植えた少女の目的を。
 少女と出会ってから、わずか四日で物語は終わる。映画化するにはちょうど良い長さだが、1クールのアニメならば半分もたないだろう。
 
 本作でもっとも読みごたえがあったのは、クラス*との情報バトルであろう。クラス*と自称する男の嗜虐性たっぷりのセリフの数々は悪役にふさわしいものだった。
 しかし、それ以降は、読者を置き去りにする場面が多い。最後の情報バトルなんて「凡人に理解できないから最高の戦いなのだ」という、意図的意味不明な代物である。爽快感がまるでない。
 
 本作のラストバトルを読みながら、高校時代に、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』を友人の薦めで見たことを思い出す(リアルタイムでだ)。そのとき放映したのは第13話で、僕はそれ一回だけを見てやめた。というのは、その中で「進化の最終形は自殺」といった表現があったからだ。これが当時の自分には納得できなかった。
 たしかに、ビリー・ジョエルの『ピアノマン』に出てくる男のように、音楽を聴いて興奮状態に陥ったときに「殺してくれ!」という気持ちはわかるが、それが理想とするならば、人々は毎日を「生きる」ことはできるのだろうか。
 
 また、検索で情報を収集することが「知る」という考えにも否定的だ。
 例えば、Wikipediaには豊富な情報がそろっているのだが、それを見ただけで「知る」ことにはならない。
 歴史などがそうだ。「朝鮮戦争」について調べてみるといい。朝鮮戦争を起こしたのは、スターリンだが、彼の思惑はどこにも書かれていない。「老いてボケていたせいだ」という、想像力を放棄した結論である。
 レーニンがボケ始めたすきに権力を奪取したスターリンが、自分の老いに鈍感であるはずがない。ただ、彼ほど情報の機密化を徹底した独裁者はいないといってよく、その決定にもとづく動機は、どこの資料を探しても見当たらないのだ。
 僕の結論は、スターリンの最大の脅威が毛沢東であり、その牽制のために、金日成の南侵を認めたというものが、これは推測にすぎない。
 そして、そのような推測はWikipediaでは採用できないシステムになっている。それが情報というものだ。
 
 小説というのは、そういう一般的見解にあらがうべく作られなければならない、という信念が僕にはある。
 己の偏見だけで片付けようとする社会の事象を、様々な視点を提示することで「深み」を持たせることができる。人間の脳は「物語化」することで、記憶に残すことができる。小説は、その「物語化」のきっかけづくりをする使命があるのだ。
 だから、小説を書くためには、資料を集めるだけではどうしようもない。個人の推測がなければ、深層への扉が開かれることはない。
 
 この作品のタイトルになっている「know」のとらえ方が、僕とこの作者は異なるようだ。
 情報格差を制度化した社会というのは、SFとして魅力的な題材だと感じたが、主人公には共感できないし、語り手が主体者でないことで感情移入が阻害される。
 エピローグも良くない。一人称を貫き通すべきではなかったか。文章通り読めば、それまでの世界観を否定しただけの内容である。
 
 力作だと感じるが、他人に勧められる小説ではない。