全力を尽くすことが最善手にあらず ― 羽生善治の「強さ」を分析する (前編)
日本でもっとも将棋が強い棋士は誰か?
その質問に十中八九の人が羽生善治の名をあげるだろう。
では、羽生善治の「強さ」がどのようなものか、説明できる人がいるだろうか。
Wikipediaを参考にすれば、次のように、羽生善治の「強さ」を文章化することはできるだろう。
・中学生でプロ棋士となる(史上三人目)
・1989年に初のタイトルを獲得してから現在に至るまで、七大タイトルを合計75期獲得(2010/05/09現在)
・1996年には、前人未到の七冠独占を達成
・現在でも、勝利数の節目ごとに、最速・最年少・最高勝率記録をすべて更新している
・どんな戦術でも使いこなすオールラウンドプレイヤー。歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男といわれている。
・読む手数は、直線で30〜40手。枝葉に分かれて300〜400手。
・26歳から趣味で始めたチェスのレイティング(強さの基準)は日本国内1位。
羽生善治 - Wikipedia
しかし、その事実だけでは、彼の「将棋哲学」を説明することはできない。
なぜならば、NHKのTV番組収録で、彼は次のように語っているからだ。
羽生善治:
将棋って、持っている力を全部出せばいいということじゃないんです。
重量上げの場合は、持っている力を出し切らないといけないですよね。
でも、将棋はそうじゃないんです。強さの加減をしないといけないんです。
持っている力を全部出し切りたいが、意識的に弱めないといけない。
そこに理性が必要なんです。
一番強い手が、最善の手ではない、ということですか?
ええ、将棋って他力なんですよ。
自分が指した瞬間に他人に手番が渡るということは、自分には何もできないということですから。
武術に似てますよね。相手の力を使って、投げ返す、というような。
ええ、おっしゃる通りです。将棋もそうなんです。
持てる力を出し切ることが将棋ではない、と羽生善治は語る。
39歳になった今でも将棋の第一人者であり続ける彼の「強さ」は、その「明晰な頭脳」だけがもたらしたものではないのだ。
今回は、そんな羽生善治の強さについて分析してみよう。
将棋の駒の動かし方を知らない人にも楽しめるように書いたつもりである。
以下、目次。
<前編>
(1) 伝説の一手「▲5二銀」は奇手だったのか?
(2) ネット将棋で最強棋士として君臨した「dcshyi」の正体は?
(3) NHK杯史上に残る奇跡の大逆転劇
<後編>
(4) 定跡を変えたといわれる、羽生のチェス譜
(5) ネットでもっとも愛されている棋士、藤井猛の「強さ」の性質
(6) 羽生世代の天下と、「初代永世竜王」渡辺明
(*) その他、将棋の面白動画紹介
(1) 伝説の一手「▲5二銀」は奇手だったのか?
羽生善治のキャリアの中で、もっとも有名な一手が、「▲5二銀」だろう。
この「▲5二銀」は、羽生が18歳だったときの「1988年NHK杯戦」での一手である。
対局相手は、史上初の中学生プロ棋士であり、名人位も獲得していた加藤一二三(ひふみ)。
加藤優勢かと思われた61手目に打たれたこの一手は、加藤のみならず、解説者の米長邦雄ですら驚愕させた。
加藤一二三も米長邦雄も、名人位を獲得し、一時代を築いた名棋士である。
その両者とも、この「▲5二銀」は予測できなかったのだ。
そして、その6手後の67手に、加藤は投了。羽生は勝利する。
この鮮やかな逆転劇で、18歳の羽生は、その強さを全国のファンに知らしめることになった。
さて、この対局の米長邦雄による解説が次の動画である。
この動画を見ると、やや「拍子抜け」と感じる人が多いのではないか。
当時の解説では「すごい手が出た」と感嘆した米長だが、この解説では彼らしい軽妙な語り口で、「そんなに(羽生が)強かったならば、指し方が違っていたのに」という加藤の心境を語っている。
つまり、この「▲5二銀」という一手は「奇手」ではないのだ。
もし、詰め将棋ならば、セオリー通りの正解手順なのである。
ところが、対戦相手の加藤のみならず、解説の米長ですら、それを見抜けなかったのは、なぜか?
それは、盤上は加藤優勢であり、羽生逆転の糸口がないと受け取ったからである。
持ち時間の少ない「NHK杯戦」では、羽生の投了は時間の問題であると、両者とも見なしていたのだ。
この「NHK杯戦」はTV中継を前提とした対局であるため、七大タイトル戦とは持ち時間が大きく異なる。
例えば、名人戦と比較すると次の通りである。
NHK杯戦 | 持ち時間 各15分 |
名人戦 | 持ち時間 各9時間(二日制) |
数十手先を読む、というのは、あくまでも名人戦など、持ち時間が長い棋戦でのみできることであって、NHK杯戦ではそこまで細かく読むことはできないのだ。
それは羽生善治などトップ棋士も同じことである。
(だからこそ、名人戦では、持ち時間がそれぞれ9時間も与えられている。それが人間の指す将棋の性質なのだ)
そんな「NHK杯」にて打たれた羽生の「▲5二銀」は、まさに、間隙を突いた妙手であった。
それを可能にしたのは、羽生の将棋盤全体を見渡すことができる広い視野がもたらしたものだろう。
冒頭で紹介した動画によれば、「全力を出し切ることが最善手ではない」と気づいたのは二十歳過ぎと語っているが、18歳のときからも、そんな棋風を思わせる妙手を打つことができたのだ。
この羽生が見せる、終盤での逆転劇を、人々は「羽生マジック」と呼ぶ。
それは、確かに「手品」に似ているかもしれない。
「手品」には必ずトリックがあるが、それを観客に気づかれないように注意をそらすから、その技術はエンターテイメントとして驚きをもたらすのだ。
そして、手品の新鮮な驚きは、必ずしも新たな技法がもたらすものではない。
古典的なトリックでも、それを効果的に生かせば、今の人々を驚かせることができるのだ。
オールラウンダーとして知られる羽生の棋風をあえて特徴づけるならば、合気道のように「いかに相手の攻めを効果的に生かすか」ということにあるだろう。
決して、それだけが羽生の強さではないが、彼が今もなお、最速・最年少・最高勝率記録を更新し続けている一番の理由ではないかと僕は思う。
(2)ネット将棋で最強棋士として君臨した「dcshyi」の正体は?
「ヒカルの碁」というマンガをご存じだろうか。
タイトルの通り、囲碁を題材にしたマンガである。
アニメやゲームなど、マルチメディアで展開したヒット作のひとつだ。
「ヒカルの碁」の主人公、進藤ヒカルは、あるきっかけで、平安時代の棋士、藤原佐為の霊に取り憑かれる。
藤原佐為は、かつて、最強の棋士の一人とされる本因坊秀策に取り憑いていたほどの実力の持ち主であった。
その結果、進藤は名人の息子である塔矢アキラに目をつけられるほどの強さを身につけるようになる。
しかし、進藤にはプロ棋士になるつもりはなく、さりとて、藤原佐為の霊から逃れられるわけではなく、そこで、彼は正体が知られないネット囲碁にて、その強さを見せるようになった。
こうして、ネット囲碁の世界では、「sai」と名のる者が、プロ棋士を次々と破り、世界中の話題を集めることになる。
ついには、ネットを通じて、最強の棋士、塔矢行洋名人と一局を交えるまでに至った。
そして、「sai」は塔矢名人に勝ち、史上最強の棋士といわれるようになる。
この「ヒカルの碁」と同じエピソードが、ネット将棋界でも現実に起こったことをご存じだろうか。
その棋士の名を「dcshyi」と言う。
会員数20万人を超える、ネット最大の将棋対局サイト「将棋倶楽部24」にて、「dcshyi」は突如現れた。
実名を公表しているプロ棋士ですら、「dcshyi」の前には次々と敗れ去った。
やがて、「dcshyi」は、「将棋倶楽部24」管理人に「デクシ」と発音され、それが定着するようになる。
そして、「デクシ」の強さを示すレイティングは、前人未到の3000を達成することになる。
「dcshyi」は、ネット最強棋士として君臨したのだ。
果たして、この「dcshyi」とは何者か?
「ヒカルの碁」のように、かつての名棋士の霊が取り憑いた少年なのだろうか?
いや、「dcshyi」の対局を見た者は、誰もがこう語る。
デクシの正体は、羽生善治に違いない。
なぜ、人々は「dcshyi」を羽生であると見なすのか?
その理由の一つは、発音不明なその名前にある。
アマチュアならば、その名を誇示するべく、意味のある名前をつけるはずだ。
それこそ「ヒカルの碁」の「sai」のように。
しかし、「dcshyi」という記号は、その正体を知られなくするためのものとしか思えない。
ゆえに、プロ棋士であることは間違いないだろう。
そして、その棋風といい、その強さといい、羽生善治以外に考えられない、というのが、ユーザのみならず、プロ棋士の間でも共通した見解なのである。
その「強さ」について、僕の実力では説得力ある文章が書けないので、他の方のエントリを引用させていただこう。
今「将棋倶楽部24」の最高レーティング保持者はsakitamaさん。
もちろんこの人が弱いなんていうつもりはない。というか強すぎるぐらいにメチャクチャ強い。
それでも、 sakitamaさんは非常に美しい将棋を指す人で、その一手一手には非常に納得させられるものがある。
指し手が非常に棋理に適っている感じがするのだけれど、言ってみればだいたいの手は理解できる範囲なのだ。
それに対してデクシさんの指し手は、たまに「ん?」と思うことがある。
それはだいたい予想にない指し手で、はっきり言うと全く意味がわからない、理解不能な手であることも多い。でも、メチャクチャ強い。
なんだか底が知れないといった感じで、デクシさんには凡人の理解を超えた強さがあった。
http://edogawa1.web.fc2.com/colmn/scolmn/5.html
このエントリの言葉を借りれば、「dcshyi」の強さは「美しさ」ではなく「得体の知れなさ」にある。
これがそのまま、羽生善治という棋士の強さの特徴につながるのだ。
この「dcshyi」の棋譜が公開されているのを見たが、はっきりいって参考にならない。
ネット将棋だからか、「dcshyi」は実験色に富んだ、自由自在な手を打ってくる。
ところが、終盤には、それが見事に生きてくるのである。
あたかも、「羽生マジック」と同じように。
個人的に、趣味として楽しむのならば、羽生善治の棋譜というのは、あまり参考にならないと思っている。
それよりも、後に詳しく紹介する藤井猛(たけし)の棋譜を並べるほうが、ずっと役に立つ。
「藤井システム」などの戦術の確立に定評がある藤井猛の棋譜は、本当に「美しい」のだ。
それを並べるだけで、自分も藤井猛のように打ちたい、と思えるような、強さにつながる棋譜なのだ。
それに比べて、羽生善治の棋譜は「得体が知れない」のだ。
冷静に分析すれば、羽生の勝因を説明することは簡単だけれど、その間隙を縫う「妙手」を、自分が真似することはできるとは思えない。
オールラウンダーといわれるほど、どの戦術にも対応してきた羽生の棋譜は、いくら並べても、自分の強さにつながる気がしないのである。
と、こう書いてみたが、「dcshyi」が羽生善治であるという証拠は、これまで出されたことはないし、今後もそうだろう。
また、とあるネット棋戦で、羽生はパソコンの操作ミスにより時間切れで負ける、という珍事を起こしたことがある。
このエピソードから「デクシが羽生ならば、ネット棋戦に慣れているだろうから、そんなミスをするはずがない」という声がある。
ただ、多くの人々は「dcshyi」という意味不明な文字列の中にこそ、羽生善治を見つけるのだ。
それはあたかも、彼の結婚前の代名詞であった「寝グセ」と同じように。
羽生善治でなければ、「dcshyi」なんて名前、誰がつけるだろうか?
(3) NHK杯史上に残る奇跡の大逆転劇
そんな羽生の強さをもっとも楽しめるのが、2007年10月のNHK杯戦(対局相手:中川大輔)で見せた「大逆転劇」だろう。
解説役の加藤一二三(先の▲5二銀を打たれた棋士)の面白さもあいまって、ニコニコ動画では、将棋関連動画では異例の再生数を誇っている。
まずは、動画をじっくりとご覧いただきたい。
駒の動かし方を知らない人でも、この雰囲気は楽しめるはずだ。
加藤が、羽生の敗因を分析するほど、圧倒的劣勢の中で、それは起こった。
いや、誰もが、途中でそれに起こっていることに気づいたのだ。
羽生の「粘り」が、大逆転のための布石であったことに。
加藤一二三だけではなく、誰もが見ていて「あれ? あれあれ? ひぇ〜」と言わざるを得ない、史上屈指の大逆転劇である。
分析すれば、相手の中川大輔にミスがあったと結論せざるをえない。
しかし、それが彼の油断によるものとは、とても思えないのだ。
むしろ、盤石な体勢で、中川は羽生を追いつめているはずだったのだ。
前述したように、NHK杯では各自の持ち時間が15分と短い。
このような、一駒も残らない「詰み」は、プロ棋士でも読み切れるものではない。
非常に珍しいものなのだ。
こちらの動画は、勝又清和による解説である。
勝又は名解説者として、ファンに定評がある棋士だ。
将棋の「強さ」にも様々な形があり、一面的な見方では、その面白さが楽しめないが、勝又の解説のわかりやすさも「強さ」であると思う。
解説役としては、羽生は勝又に大きく及ばないであろう。
そんな勝又が聞いたところでは、羽生は「読み切れてはいなかった」と語ったそうだ。
僕はそれが事実であろうと思う。
さすがの羽生善治といえども、あの劣勢で、勝利を確信できたとは思えないのである。
しかし、羽生には他の者には見えない逆転の糸口が、光の筋となって見えていたのだろう。
誰もがその真意に気づかなかった「▲2二角」に、そんな羽生の勘の鋭さが現れている。
1996年に七冠を達成したときが、羽生善治の強さのピークであったという人もいるだろう。
羽生自身は、記憶力は20歳のときがピークだった、と語っている。
しかし、記憶力の衰えが、彼の強さを衰えさせたのではない。
その証拠に、この持ち時間が少ないNHK杯にて、羽生善治は、2008年、2009年と二連覇中なのである。
羽生の強さは、今もなお、現在進行形で続いているのだ。
彼に先天的才能があったのは言うまでもないが、それだけで、彼が勝ち続ける理由を説明することはできない。
「将棋」というボードゲームをプロとする棋士たちの棋譜は、人間の「強さ」がどのようなものかを、我々に教えてくれる格好の題材のひとつなのだ。
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