逃げるよりは死んだふり − 姉崎等・片山龍峯『クマにあったらどうするか?』(評価・A+)

 

 

「師匠はクマ」と語るアイヌ狩人のクマ対処策とは?
実用的すぎるクマ狩猟の具体例を通じて「クマと人間」の共生を探る
 

 昭和初期のこと。営林署の作業員がクマと遭遇したことがあった。動転した彼らは誰もが逃げだした。足の弱い年寄りは倒れてひっくり返った。このとき、一人がクマに襲われて殺された。
 さて、殺されたのは誰か? もっとも遠くまで逃げた、一番足の速かった若者である。
 どうやら、クマには逃げた者を追いかけようとする闘争本能があるらしい。だから、足の弱い年寄りには目もくれなかったのだ。図体に似合わず、クマの足は速い。崖でも上れる爪もある。林道を逃げる速さで人間はクマに叶わないのだ。そして、巧みに逃げれば逃げるほど、クマは追いかけてしまうのだ。
 姉崎等はクマを狩猟するハンターだが、キノコとりで丸腰だったときにクマに遭遇することもあったという。そういうときは、できれば立って威嚇したほうがいいらしい。間合いを取っていれば、クマは逃げてしまう。それができない人は正座すればいい。腰を抜かしてもいい。なるべく目はあわせたほうがいい。それも怖い人は死んだふりをするほかない。逃げるよりは動かないほうがマシであると姉崎等は言う。
 

 クマという動物を人間は極端な二面性で受け入れている。人間を襲う獰猛な動物としての一面。愛玩動物としてマスコットにもなっている一面。そのどちらも矛盾しないことが姉崎等の話に耳を傾けているとわかる。
 例えば、彼は少年時代に子供のクマと相撲をして遊んだことがあるという。母グマを撃ったハンターは、その子を養うという風習がアイヌにはあるからだ。そのとき、人間の子供はクマを適度に勝たせてやらなければならない。負けてばかりだと、クマもだんだん腹が立って凶暴になってしまうからだという。クマと遊ぶためには、そのような暗黙の了解が必要なのだ。
 また、冬眠から目覚めたばかりの母グマは、子グマの身体をならすために、滑り台のようなものを作って遊ばせるという。いともかわいらしい光景である。
 

 クマの狩猟はすでに禁止されている。しかし、姉崎等はその後もクマに関わることになる。クマの生態を調査する北海道大学の教員は、彼の眼識に舌を巻くという。おおまかな目撃情報でも、彼はクマのいる場所をピタリと言い当てることができるからだ。
 彼は言う。「私にとって、クマは師匠だ。山の歩き方については、クマに教わった。だから、私はクマの考えていることがわかる」
 

 アイヌ民族最後の狩人といわれる姉崎等は2013年に亡くなった。その彼への生前のインタビューをまとめたのが本書である。アイヌでは「里の神様」と呼ばれるクマの生態を知るうえで、本書は動物学者の著作にも劣らぬ魅力と説得力があるだろう。
 

 

【本書を読んだ動機】

 

 2014年4月20日朝日新聞読書欄で紹介されていたからである。僕は文庫版ではなくハードカバーを買ったが、単純なミスであり、後悔している。
 というのは、値段の違いだけではない。文庫本では2013年の姉崎等の死去についても言及しているはずだからだ。
 

 僕が本書に興味を持ったのは、「クマ」よりも「アイヌ」のほうだった。四国生まれの僕にとって「アイヌ民族」とは遠い存在である。沖縄県人は何人も会っているし、琉球音楽はBIGINなどをはじめ聞き知っているのだが、アイヌ文化に関しては、僕はまったく知らないに等しい。
 ただ、本書は「アイヌ」よりも「クマ」である。姉崎等は父が日本人で、母がアイヌ人という混血児である。幼少のとき、彼の父が病気になり、彼の母はみずからのアイヌ集落で子育てをすることになった。だから、姉崎等はアイヌ集落にとっては「よそ者」だった。それゆえに、彼は狩猟の技術を自力で身につける必要があった。彼が「クマを師匠」としたのもそのためである。
 もちろん、狩猟を通じて彼はアイヌの伝統についてより理解を深めてきた。彼がクマを獲たときに、その肉は必ず近隣で分け合ったという。それらの伝統への言及はアイヌ民族の文化を知る一助になるだろう。
 

【本書を読む前の先入観】

 

 人を襲う凶暴な動物でありながらも、ぬいぐるみやマスコットとして人気が高い「クマ」という動物について、本書を読むまで僕は深く考えたことはなかった。
 そんな僕でも「子連れクマ」や「手負いクマ」が恐ろしいことは知っていて、本書を読むと納得できた。また「人食いクマ」は駆除しなければならないという理由にもうなずくことができた。
 そのわかりやすさは、姉崎等の猟師経験がもたらしたものだ。彼はアイヌの風習についても「これは先人の知恵だ」「これは非合理な迷信」と、はっきりと区分している。経験豊富なハンターならではの説得力が本書には宿っている。
 

 ただし、クマの愛らしさに魅力を感じている人は、冒頭から「狩猟の対象」としてクマを話す彼の語り口に抵抗があるかもしれない。序盤から具体的な狩猟のやり方が描かれているので、クマ愛護団体のメンバーには受け入れがたい内容ではあるだろう。
 しかし、クマに対する二面性をこれほど納得できる形でまとめた本はないのではないかと感じる。姉崎等という優れた猟師はすでにこの世になく、彼の後継者もいない現状では、生前の彼の言葉には耳を傾ける価値がある。
 

【本書の展開について】

 

 本書はアイヌ研究家である片山龍峯が、姉崎等に数度にわたってインタビューした内容をまとめたものだ。だから、本書の著者は片山龍峯となるだろう。
 本書はそのインタビューを要素ごとにまとめるという体裁にされてはおらず、基本的にそれぞれのインタビューごとに章を改めている。
 この構成の欠点は二つ。一つは同じことが何度も語られて、そのたびに言葉が変わっていることがあげられる。もう一つは、序盤がもっとも緊張感あるやり取りだということ。著者は姉崎等に信用されるべく、当たり前の質問をすることはない。著者がアイヌの民族性を深く理解し、狩猟の知識もあるからこそ、姉崎等は心置きなく自分の経験を語ることができたのだ。だから、本書のタイトルである「クマにあったらどうするか?」という質問は第五章まで読むことはできない。
 もちろん、その欠点をおぎなうだけの魅力が本書にはある。インタビューを通じて、著者が姉崎等という猟師を理解していく過程が、本書を読むことで追体験できるからだ。
 また、(ハードカバーの)あとがきで、米国動物行動学者ヘレロ博士の著作を引用することも忘れていない。著者はそこで、姉崎等とヘレロ博士の見解が一致していることに驚いている。ただし、違いもある。ヘレロ博士はブラック・ベアに会ったら木に登って逃げろというが、姉崎等はヒグマは木に登るのが巧みだから絶対にそうしてはならないと説く。両者ともプロであるがゆえに、その差異は、ブラック・ベアとヒグマの生態の違いを浮かび上がらせることに成功している。
 

【本書で印象的だったところ】

 

 クマ狩猟をするときに、黒い服を着てはならないという。なぜなら、自分がクマと間違えて撃たれるからである。本書では、そんな実用的すぎる狩猟術が満載なのだが、その経験のない僕には、半分ぐらいしか理解できなかったと思う。
 

 ただ、クマ除けの鈴についての考察は納得できた。今では、それは「人間が通る」という合図以外の意味しかなさないという。実のところ、クマは人間をずっと見ているのだ。姉崎等のような熟練の猟師でなければ気づかないところではあるが。
 アイヌ語で、クマは「里の神様」と呼ばれている。「山の神様」でないのは、それだけ人間と共生する場所に住んでいたからだ。
 姉崎等は「クマ除け」として、ペットボトルを持ち運び、それをペコペコ鳴らしていたという。そういう「聞きなれない」音にクマは弱い。クマは人間の恐ろしさを本能的に知っていて、得体の知れない道具を使うことを恐れている。その点、鈴は耳になれているので、クマを恐れさせる効果はない。もし、空腹でどうしようもなくなったクマが人間を襲う決意をしたとき、鈴は何の助けにもならない。
 

 クマが人間を襲う理由は、ひとつは自分の子を守るためで、もう一つが空腹のためである。クマが飢えているのは、人間の山林管理の杜撰さが問題となっている。クマは雑食であるが、基本的に木の実を好む。だが、現在の山林は針葉樹ばかりで木の実がない。そのときに、人間が残したゴミがあったらどうするか。たとえ、カップラーメンの空き容器であっても、その匂いがあるかぎり、クマはそれを食べようとする。最終的に、クマはそれを持っている人間を襲うようになるだろう。
 だから、クマ対処策として、持っているバッグを投げるということは絶対にしてはならない。なぜなら、その中の食糧を口にすることで、クマはさらに人間を襲うようになるからだ。次の犠牲者を出さないためにも、自分の食糧をクマに与えることは絶対に避けなければならない。最終的に、その対象が人間自身に及ぶかもしれないからだ。そして、肉弾戦で丸腰の人間はまずクマに勝てない。
 もし、人間を食べてしまった場合、そのクマは絶対に駆除しなければならないと姉崎等は語る。肉弾戦での人間の弱さを知った「人食いクマ」は、人間を空腹を満たす餌としか見なさないからだ。
 

 もっとも恐るべきは「手負いグマ」である。致命傷を与えられず、逃げたクマを追いかける猟師は慎重にならなければならない。最後の気力をふりしぼりクマはあらゆる策を取ってくるからだ。
 人間が自分の足跡を追うことをクマは本能的に知っているので、途中でそのまま上をなぞり隠れ場所に伏せることがある。この「止め足」はシカなど他の動物にも見られるものだ。だから、足跡を追いかけていると、それが止まった地点で横に忍びこんでいたクマに不意打ちを受けることになる。だから、追跡は慎重に行わなければならない。
 手負いのクマはその隠れ場所で息をひそめる。姉崎等の体験談として、わずか2メートル先にいたのに関わらず、まったく身動きをしなかったクマの様子が語られている。もし、クマの間合いになったとき、一撃で葬られることになる。その一撃のために、クマは気配を完全に消している。だから、最後まで慎重にならなければならないという。
 

【評価とその理由】

 

 この他、猟師とカラスの関係についてなど、本書ではこれまで僕の知らなかった山の魅力を知ることができる。
 狩猟について興味を持っている人には「アイヌ民族最後の狩人」と呼ばれた姉崎等の経験談をまとめた本書は、その好奇心を満たす格好の一冊となるだろう。
 獲ったクマの魂送りの儀式「カムイホプニレ」についての記述もある。その後、近隣にクマの肉を分配し、酒宴を開くことがアイヌの習慣であったという。このような「狩猟と共食」文化についても、本書を読むことで知ることはできる。
 姉崎等は、ハンターをやめてからも防除隊の任務についた。クマの被害から人間を守るためのその役目だが、姉崎等の見解は「クマはルールを守っているのに、人間はルールを守らない」というものだった。本書を読んだ今となっては納得できる。「クマと人間」の共生について考えるうえで、人間は山について知るべきことは多い。大地をすべて我が物とするのは人間の傲慢である。
 「クマが私の師匠」と断言しながら、クマ猟を続けた姉崎等。その両者が矛盾していないことを本書は教えてくれる。
 軽い気持ちで読んでみたが、実りの多い一冊であった。評価はA+。