『あの花』二次創作を書いたわけ

 
 当ブログで掲載した『ビフォア・ザ・超平和バスターズ』という二次創作についてのエッセイです。
 作品を読む前でも、読んだあとでも、ご自由にどうぞ。 
 
【目次】
☆『あの花』を素直に「面白い」と言えない人のために
☆執筆に要した時間
☆6月28日、秩父にて、めんまを探す
☆一人称小説の利点と欠点
☆子供は中立的な存在か?
 
 

☆『あの花』を素直に「面白い」と言えない人のために

 
 『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』というアニメ作品を、僕は「みんなにオススメ!」と素直に絶賛できないところがありました。
 いいシーンはたくさんあります。僕がもっとも好きなのは、第6話で学校を飛び出したあとの安城鳴子(あなる)の歩き方。そのような優れた人物描写が随所にもりこまれた、質の高いアニメだったと思います。
 ところが、それらのシーン(点)をつなぐ物語(線)が、どうも僕には納得できませんでした。
 その理由を考えると、それぞれのキャラの背景というか動機付けが不十分だったからではないでしょうか。
 例えば、同学年の男三人女三人という仲良しグループが、当然のように結成されたという設定とか。
 僕の人生経験からいって、そのような米国子供番組のような民主的なメンバー構成が自然発生したとは、とても信じられないのです。男四人女二人ならわかります。男一人女五人でもわかります。同学年でないのならば、母親つながりで男三人女三人(兄弟姉妹込み)というグループもアリでしょう。
 でも、同学年の男三人女三人というグループ分けができるのは、特殊な事情がないかぎりはありえないと僕は考えました。
 そこで作ったのが、二次創作『ビフォア・ザ・超平和バスターズ』です。
 もし、僕と同じように『あの花』という作品を、素直に絶賛できないわだかまりを抱えている人は、読むと楽しめるはずです。
 もちろん、僕の二次創作の展開に満足できない人もいるでしょう。イジメというテーマをあつかうことの難しさは、僕も承知の上です。
 ただ、僕としては、クラスでいじめられていた女の子が、秘密基地のお姫様になるという筋立てが、フィクションとしてもっともスッキリするのではないかと考えているわけです。
 
 

☆執筆に要した時間

 
 この二次創作を構想したのは、『あの花』最終回放映(6/23)をひかえた6月19日の日曜日のことです。二時間ばかり布団にうずくまって、彼ら六人がどのような順番で出会ったのかをまとめました。
 しかし、その構想は、アニメ最終回の内容によっては水泡と帰す可能性がありました。何はともあれ「二次創作は原作ありき」です。そのため、僕は6月23日までにとりあえず形にしようと、下書き状態でのブログ連載をしました。
 こうして、20日(月)21日(火)22日(水)の三日間、仕事が終わったあとに、それぞれ3時間ほどを費やして、『ビフォア・ザ・超平和バスターズ』を書き上げました。
 書いた場所は、ほとんど喫茶店です。自分の部屋だと、ついついネットでウェブページを見てしまったり、ゲームをプレイしてしまうのです。なので、この作品のほとんどは、川崎市登戸の喫茶店で書かれているわけです。
 そして、6月23日の深夜に『あの花』最終回を見ました。それから、出勤までの短時間で軽いエッセイをまとめました(⇒http://d.hatena.ne.jp/esu-kei/20110623/p2)
 あの最終回に「感動した!」「泣いた!」という人には、いまいち共感しにくいエッセイだったかもしれませんが、僕としてはネット世論にしばられず、自分の感性に忠実に書いた内容だったと思います。
 その後、下書き状態の『ビフォア・ザ・超平和バスターズ』をまとめようと考えたものの、仕事で休みがとれず、鬱々とした日々を過ごしました。ようやく休みがとれたのは、6月28日(火)。でも、僕はその日、おさえきれずに、『あの花』の舞台である秩父市に行きました。いろいろ確かめたいことがありまして。
 秩父に行ったことで、中途半端だった結末部分を思いつくことができました。また、自分の二次創作が、それほど外れたものではないと確信しました。
 この段階で、この作品をまとめる状態にはなっていたわけです。ですが、結局、仕事に追われたことを言い訳に、完成には二週間近くを要しました。
 ちなみに、僕は毎日コツコツ書くタイプではありません。その二週間で二日しか実際には書いていません。
 こういう自分の怠惰さには我ながらあきれるところがあります。当初の予定では、六月中にはこれを書き上げて、七月上旬には『ハルヒコの溜息』を完結させて、今頃は『ハルヒの驚愕γ』の構想をねっていたはずなんですけどね。
 時期を逸したことは、アクセス数に反映されます。最近はアニメ批評が充実したせいか、コンテンツの寿命がとても短い。六月中に公開していれば、もっと多くの人に読んでもらえたのに、と後悔することしきりです。
 
 

☆6月28日、秩父にて、めんまを探す

 
 6月28日の火曜日に、僕は秩父に行きました。池袋駅から「特急ちちぶ号」に乗って、西武秩父駅に行き、それから作品の舞台になった「旧秩父橋」「定林寺」「羊山公園」をめぐりました。
 べつに写真を撮りたかったわけではなく、僕はその風土を感じたかったのです。
 そこで、僕は『あの花』に登場する五人を見つけることができました。
 秩父に向かう特急は飯能駅で方向転換します。そこからは車窓の景色が劇的に変わります。何度もトンネルをくぐり、風光明媚な山河の風景が、目に映ります。
 線路は単線であるために、特急でも待ち合わせをすることがあります。各駅停車に乗ったのならば、相当な時間を要することになるでしょう。
 こうして、長いトンネルを抜けた先に、はげた山が見えてきます。秩父の象徴である武甲山です。この武甲山の石灰が、秩父の主要産業であるセメントを生み出したのです。
 その武甲山が見えるとともに、これまでの山間部の景色がウソのように、新しい町が目に広がります。それが秩父の町です。
 西武秩父駅のすぐそばには、仲見世通りという、観光客向けの商店街があります。セメントを運ぶために整備された鉄道網を、秩父の人たちは観光業にいかそうとしました。その歴史は深く、だから「アニメの聖地巡り」に来るような若者に対しても、秩父はあたたかい町なのです。
 秩父の人たちは「自分たちはまるで引きこもり」と言うことがあります。秩父の町には、かなり大きなブックオフがあるし、ショッピングセンターもあります。車を乗りこなす大人ならともかく、高校生にとって、秩父の町を出るためには、西武秩父線に乗らなければならず、特急に乗らない場合、とことん長い待ち合わせをへて、飯能駅まで行かなければなりません。
 『あの花』では、秩父を「町」、飯能を「街」として描いています。統計上は、どちらも十万未満の「市」ではありますが、一度秩父に来てみると、飯能を「街」ととらえる秩父の人たちの気持ちがわかると思います。
 だから、高校生のなかで、優秀なものは飯能に行き、そうでないものは秩父に残るわけです。ゆきあつやつるこは、毎日一時間近く電車にゆられて飯能の有名校に通い、その受験に失敗した仁太は、地元の高校に通えずに引きこもってしまうのです。かつて、仲良しグループのリーダーであった仁太にとって、秩父に残ることは「負け犬」というレッテルから抜け出せなくなったのでしょう。そして、目立った少年だった仁太のことを忘れてしまうような秩父の人ではありません。
 さて、僕は西武秩父駅から、アニメのメインビジュアルに使われた「旧秩父橋」までは徒歩で向かいましたが、かなりの距離があります。季節が季節だけに、バスで行くことをオススメします。しかし、徒歩で行くと、それぞれの家並みや自家用車を見て、その町の経済度を知ることもできます。僕が見たかぎり、秩父の町は、他の地方に比べると、裕福である気がしました。人々は秩父で引きこもることに、あんまり不満をいだいてなさそうです。
 その旧秩父橋から見える、横瀬の三菱セメントの工場は、一見の価値があるでしょう。アニメでも効果的に使われたその光景は、秩父を象徴している景色である気がします。
 このように町を歩いていると、僕はめんまをのぞく五人の高校生(ぽっぽは通っていないけれど)をリアルに感じることができました。もともと『あの花』というのは、満たされない思いをかかえた五人の少年少女が、とある物体「X」によって、かつて仲間だったことを思いだし、そのわだかまりを解消するという話なのです。いわば、彼らの子供時代は、その逆算として便宜上作られたわけです。
 そんなことを考えながら、僕は最後の目的地である羊山公園に向かっていました。その近道である山道には蛇がいて「ああ、裸足でサンダル履きで山を歩くなんてありえねーな」と思いました。かわいい格好で山道を歩くというのは、現実的ではない、ということです。
 こうしてたどり着いた羊山公園の慰霊碑の近くの丘に、花が咲いているのを見つけました。アニメの作中ででてきた、名前の知らない花です。
 ああ、これが、めんまなのだな、と思いました。
 ひとりきりで風に吹かれながら、その花にかこまれて、秩父の町を見晴らすのは、僕にとってとても幸福な時間でした。
 結局のところ、めんまを子供にしか見えない花の妖精とするべきだったのか、本間芽衣子という実在する少女とすべきだったのかは、難しい問題ではあります。アニメ全11話という枠内で語られた『あの花』が中途半端に終わったのは、その双方を「いいとこどり」しようとしたせいだと思います。
 
 

☆一人称小説の利点と欠点

 
 さて、『ビフォア・ザ・超平和バスターズ』は、宿海仁太の一人称という形で書いています。
 一人称小説には利点と欠点があります。利点は、視点キャラの主観を如実に描くことができること。アニメを見て「あなるがかわいそうだ」と思った人は、この二次創作を読めば、納得できるんじゃないかと思います。
 もちろん、欠点もあります。それは、その視点キャラの価値観から逃げられないこと。
 僕の二次創作では、つるこの行動の動機付けが読者にうまく伝えられなかったという欠点があります。
 よく読んでもらえばわかると思いますが、つるこの帰りの会の発言については、仁太の憶測は見当外れもいいところだったりします。
(1)なぜ、ゆきあつは沈黙したのか?
(2)なぜ、つるこはあそこまでの発言をしたのか?
(3)なぜ、ぽっぽは自分が責められたのに関わらず「一番つらいのはゆきあつ」と言ったのか?
 アニメ本編を見た人ならば、ゆきあつがめんまに対してどういう思いを持っていたのかわかるでしょう。で、ゆきあつの沈黙で、その真意に気づいたつるこは、たまりかねて、ああいうことを言ったわけです。
 僕はこの二次創作での彼らの年齢を特定していませんが、だいたい小学四年ぐらいとしています。小4にしては、あまりにもつるこの発言が大人びていると思われるかもしれませんが、つるこの真意を知れば、納得できると思います。
 で、こういうことを、作品の外でべらべら語るのは、我ながら作者失格です。実は安城鳴子に語らせようと思ったのですが、彼女を「さとい」を仁太に思わせることは、その後の展開に問題があるので、ぽっぽにそれを匂わせる発言をさせることしかできませんでした。
 
 

☆子供は中立的な存在か?

 
 僕の二次創作を読んで「子供はもっとニュートラルではないか」と疑問を感じる人がいるかもしれません。
 でも、僕は「初恋」なんてものは、環境要因にかなり左右されるものだと思うのです。
 例えば、好きな曲とかゲームとか。
 子供時代に好きだったそれらは、かなり家族の意見の影響を受けていると、自分をふりかえって感じます。
 大人になった今となっては、そんなものに関係なく、自分の感性にしたがって「面白い」「つまらない」と言えるわけですが。
 子供時代っていうのは、そういうものにしばられているわけで、大人のような自由な精神を持っているわけではありません。そりゃ、大人になれば、金を稼がなくちゃいけないわけだから、何でもかんでも言えるわけではありませんが、心の中は何かに怯えていた子供時代よりもずっと自由だったりします。
 『あの花』の作中では、彼らがそれぞれの異性を好きな理由について、はっきりとした形では語られていません。それがために、視聴者としては「動機付けができていない」と不満を抱いたわけで、それを表現したのが、この二次創作なのです。
 「そういうことは視聴者の想像に任せればいい」というのは、スタンスのひとつではあるでしょうが、僕としては「フィクションなんだから、そういうとっかかりはきちんと定めてほしい」と思ったりします。
 そういう思いが、僕に『ビフォア・ザ・超平和バスターズ』という二次創作を書かせた最大の理由なのです。