魔法少女さやかのソナタ

  -The Sonatas for Magica Sayaka-
 
 


  第一楽章
 
    (1)
 


 六階の病室から見る景色は、あまりにも空が狭かった。似たような形の高層マンションが、ぽつんぽつんとまばらに建っているおかげで、山や海どころか、川さえ見ることができない。
 そんな、他の街に自慢するものが何ひとつないベッドタウン――それが、私たちの住んでいる見滝原市だった。でも、私にとっては、家族がいて、友達がいて、大事な人がいる、かげがえのない街なのだ。
 それは、きっと、幸せなことなのだろう。
 この景色のはるか彼方には、災害や戦争で、それらを失った子たちがいる。そんな子たちに、恵まれている私は何かをしなければいけないのかもしれない。募金とか、ボランティアとか。
 だけど、中学二年生で世間知らずな私が、世界に対して本当に有意義なことができるのだろうか。気休め程度の優しさなんて、迷惑なお荷物にしかならないんじゃないかと思う。
 この狭い空の街しか知らない私に、世界に貢献できるものがあるのだろうか。
 こんなことを考えるのは、この病室にいる患者のせいだろう。ほとんどの人は、私と彼、上条恭介との関係を「幼なじみ」だという。
 窓ガラスにうっすら反射したベッドの上の恭介は、私が持ってきたプリントを丁寧に確認している。集中治療室からこの六〇九号室に移って一ヶ月。プリントを渡す役目は、いつの間にか、私ひとりがつとめるようになった。もともと、持ち回り制だったはずなのに、今では、和子先生も私が届けに行くのが当然だと思っているみたいだ。
 もともと、恭介にはクラスに親しい友達がいなかった。学校では、どのグループにも属さなかった。用事がなければ学級活動にも協力するけれど、自分からクラスを盛り立てることは、絶対にしなかった。
 そんな態度でも許されていたのは、恭介のことを「将来大物になる」と誰もが信じていたからだ。
 彼は幼い頃からヴァイオリンを習っていて、それで数々のコンテストを受賞していた。それが、どのぐらいすごいことか素人の私にはわからないけど、高校は有名な先生がいる遠いところに通うという話を聞いたことがある。
 つまり、こんな狭い空の街ではなくて、世界中の華やかな衣装を着た人たちが見守る壇上こそが、恭介の生きるステージなのだ。そして、彼の才能を知らない子でさえも、そう感じさせる特別な雰囲気が恭介にはあった。
 そんな恭介に、恐るべき不幸が襲ったのだ。
 あの事故で、何とか一命をとりとめたものの、彼の身体は今でもまともに動かない。約束されていたはずの彼の未来は、暗闇に閉ざされてしまったと、誰もが落胆していた。
 私はそうではない。彼の栄光は、過去形ではなく、現在進行形でなければならないと信じている。
 私にとっても、恭介はただの幼なじみではなくて、大げさに言ってしまえば、その背中を追いかけさえいれば、虹の橋の向こうまで行けそうな、そんな何かを持った特別な男子だった。たとえ、手をつないでなくてもいい。恭介がみずからの才能にふさわしいステージに立つ日まで、私は見届けなければならないと思った。それが、彼と同じ街に生まれた、私の運命なのだと。
 弱気になりそうな自分の心を打ちはらい、私は顔をあげる。恭介はまだプリントに目を落としたままだ。私が届ける学校の課題を、恭介は律儀にこなしていた。まあ、そのおかげで、私も律儀にこの病室に来る口実ができるわけだけれど。
 だから、私はその向こう、六〇九号室の窓から見える殺風景な街を見つめる。
「…………あ!」
 しかし、私の目には予期せぬものが映って、思わず声をあげてしまう。空への視界をさえぎる高層マンションの屋上に、人影を発見したのだ。しかも、彼女は間違いなく私と同じ見滝原中学の制服を着ている。
 その二十階建てのマンションの屋上は立ち入り可能なのかもしれないが、彼女は柵の外に立っているのだ。飛び降り自殺、という不吉な言葉が頭をよぎる。私は身を乗りだして、その人影の行方を追う。
「え?」
 でも、信じられないことが起こった。突然、その子がいなくなったのだ。私が目をそらしたわけではないのに、姿がふっと消えたのだ。その下に視点を動かしてみたものの、特別なものは何も映らない。人々のざわめきも、私の耳には届かない。
「どうしたんだい、さやか」
 唖然としている私に、恭介が声をかけてくる。私はすぐに説明しようとした。あの屋上にうちの中学の女子がいて、だけど、いつの間にかいなくなって、でも、飛び降りたわけじゃないみたいで。
 ……そんなことを恭介に話して何になるのだろう。見間違いだよ、と笑われるのがオチだ。だから、私はあきらめる。なんでもないよ、と小さくつぶやいて。
「そうそう、明日来る転校生のことなんだけど」
 プリントから恭介が目を離しているのを確認して、私は口早に話題を変える。
「ああ、その話か」
「聞きたくないの?」
「べつに」
 あまり興味なさそうな恭介の口調を気にせず、私は熱っぽくしゃべり始める。
「でね、その転校生、前に言ったけど、ずっと入院してたみたいなんだよね」
「それって、男子? 女子?」
「女の子だよ、もちろん」
「ふうん」
「とにかく、その子、中学にもほとんど行ったことないらしくて、クラスになじめるかどうか、和子先生も心配してるみたいで。そしたら、まどかのヤツが張りきっちゃってさ」
「鹿目さんが?」
「うん、あのまどかが、だよ!」
「へえ」
 私の友達、鹿目まどかと恭介の関係は、ただのクラスメイトにすぎない。でも、赤の他人ではないはずで、だから、私は恭介のあたりさわりのない相槌にもひるまずに、話し続ける。
「あの子、保健委員だから、和子先生から転校生の面倒見るように言われたんだよね。病気のせいで、たびたび保健室に行くことになるからって。それを聞いて、まどかのヤツ、あたしたちに向かって、その子と仲良くなるために、みんな協力しようよ、とか言うんだよ。あの、まどかが、だよ?」
「そりゃすごいね」
「ホントいい子なんだよ、まどかは。昨日のことなんだけど、大通りにあるコンビニのそばに、狭い路地があるじゃん。あたしとまどか、そこにお地蔵さんがあるのを発見しちゃったわけ。で、あたしは、めずらしいね、こんなの知らなかったね、とか言ってたんだけど、まどかったら、すぐに目をとじてお祈りしたんだよね。どうか、あたしたちの街を守ってください、とかさ。そういうのって、すごいと思うのよ。顔の形もわからないぐらい古びたお地蔵さんを見て、すぐにそういうお祈りをするなんて、普通の子はできないじゃん。まったく、まどかは天使の生まれ変わりかもしれないって、友達のあたしですら思っちゃうぐらいで」
「天使、か……」
「そうそう天使よ天使。あたし、あの子、将来アフリカのどっかの恵まれない国に行って、看護婦なんかやりだすかもしれないとか、不安になったりするんだよね。世界平和のためなら、わが身を犠牲にしてもかまわないってものが、あの子にはあるわけ。恭介なんか、まどかのこと、ただのおとなしい子だと思ってるかもしれないけど、実はすごい子なんだよ」
「僕は天使が嫌いだな」
 大げさな私の話を、恭介は意外な言葉でさえぎった。
「へ? なんで?」
「だって、天使は人々に運命を告げることしかできないからね。神の使いである天使には、運命を変える力なんてないんだ。神の意志である、来るべき運命を人間に伝えるのが、天使の仕事なんだよ」
「そういうものなの?」
「うん」
 そういえば、恭介の家がクリスチャンだったことを思い出す。毎週、教会に行くほどの熱心な信者じゃないみたいし、私たちに信仰を強制するようなことはなかったけれど、私の知らない教えを守っているみたいなところはあった。
「でも、願いごとをかなえたりするじゃん、天使って」
「それは妖精の仕業だよ。夢と魔法が許された、ファンタジー世界の話」
 私からすれば、キリスト教だって、十分にファンタジーだと思う。死んだ人が生き返ったり、海が割れたりとか、現実ではありえないことが、聖書にはいっぱい書かれているみたいだし。
 もちろん、そんなことを私はたずねたりしない。天使と妖精との間に、たいした違いがあるとは思わないし、もしかしたら、私だってクリスチャンになるかもしれないし。
 ただ、恭介の「天使は運命を変えることができない」という言葉が気になった。この二ヶ月間、私以上に恭介は祈っていたはずだ。どうか、神様、身体を元通りにさせてくださいって、何度も、何度も。
「ま、まあ、まどかだけじゃなくてさ、ほかの子たちも、転校生と仲良くしようとがんばってるわけで」
 私はあわてて、転校生の話題に戻す。
「仁美だってそうだよ。ちゃんと転校生と仲良くするって約束してくれたんだから」
「志筑さんが? あの子、忙しいんじゃない?」
「うん、毎日何かの習い事やってるから、放課後もあんまり付き合ってくれないんだけどさ。でも、あの子はお嬢様だから、仕方ないんだ。それに、男子に人気ありすぎるから、ついつい防衛本能働いて、つーんとしてるように見えるかもしれないけどさ、ホントはいい子なんだよ、仁美だって」
「知ってるよ」
 恭介が笑いながら応じる。
「いつも、さやかが宣伝してるからね。あたしの友達は、こんなにいい子なんだって」
「宣伝じゃないよ。ホントにそうなんだから。あの二人に比べたら、あたしなんて、バカだなぁとか、自慢できるものが何もないなぁって、情けなくなるぐらいで」
「そんなことないよ」
 恭介の言葉に、私の鼓動は一瞬止まった。
「さやかは、いつも自分の友達を素直にほめてるじゃないか。それって、とてもいいことだと思う」
 恭介の顔をまともに見ることができず、私はうつむいてしまった。手をギュッと握る。汗ばんでいるのがわかった。動悸が、激しくなる。
 そして、恭介は忘れられない言葉を口にした。
「さやかは今のままでいいんだよ。素直で、友達思いのさやかのままで」
 その瞬間、私がどんな気持ちになったかは、とても説明することができない。事故を知ってから、恭介のために流した涙とか、信じてもいない神様に捧げたお祈りとか、そんなものすべてが清められて、ただ、恭介を慈しむ感情が私を満たしていた。
 いつか、この狭い空の街を出て、海の向こうの国に行くはずの、上条恭介という男の子。たぶん、私は彼を愛するためだけに生まれてきたんだと、そのとき、私は確信することができた。
 でも、恭介が言う、運命を告げる天使があらわれたら、そんな私の甘い思いこみをすべて否定しただろうけれど。
 もしかしたら、病室から屋上の人影を見たのは、神様の警告だったのかもしれなかった。こんな日常を続けられない、私の運命についての。
 でも、その病室で、私はとても幸せだった。とんでもなく、幸せだったんだ。
 
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