隊長が狂った

 
 職場の隊長Kさんが狂った。
 狂う、といっても、いろいろある。Kさんは会話ができなくなる狂い方だった。
 二日前からその予兆はあったけど、今日はひどかった。僕は罵倒され、口をきかなくなり、社長が飛びだしてくる始末だった。
 Kさんは家庭に問題を抱えていた。父がひどいらしい。その看護で、いつも疲れた顔をしているものの、きちんと仕事はした。口数は少なかったが、誰からも信用され、僕もKさんと一緒に働くのが好きだった。
 二日前、Kさんは携帯電話を忘れた。信じられないミスだったけど、僕はそれをフォローした。今日も疲れた顔をしていたので、できるだけ負担をかけないようにしたつもりだった。午前11時頃までは、いつもと様子はおかしかったものの、仕事は反射的にきちんとこなしていた。疲れているのだろう、と思った。
 それが急に豹変した。「人が足りない、もっと呼べ」と僕に命令する。事務所に電話するが、僕にそんな権限はないから、隊長のKさんに代わるように言われた。そして、Kさんに電話を渡すと、驚くべきことに、Kさんは即座に電話を切って、ニヤリと笑った。
 それから僕を罵倒するようになった。それが理にかなったものならいい。口調が荒くなるのも仕方ない。でも、理不尽なのだ。僕は逆らえばよかったのかもしれないが、そうすれば、まともに仕事ができなくなると感じて、その言いつけに従った。Kさんは傍目に見れば、普通に仕事をこなしていた。いささか、やりすぎと思えるぐらい。僕はそんなKさんの邪魔をせず、フォローに徹していた。
 危機を察して、社長が来ても、挨拶すらしない。僕は説明するが、社長は信じられない様子だった。ひとまず、Kさんに休憩を取ってください、というと、そのまま、一時間以上、戻って来なかった。その後も、仕事はするけど、僕どころか社長にも何もこたえなくなった。
 ただ、Kさんは取引先には迷惑をかけなかった。僕をはじめ仕事仲間や社長に対して、ひどい態度を取るだけだった。そして、僕に今日の仕事の伝票を渡して、そのまま失踪した。
 当然のことながら、社長は立腹した。「もう解雇だな」と言う。月曜からは僕が隊長になることになった。
 
 Kさんはマジメな人だ。家庭の問題などは、ごく一部の人しか知らない。仕事だって、きちんと押さえるところはやっていて、見ていて参考になった。おそらく、今日のKさんはギリギリの状態で、僕に迷惑をかけても、取引先や第三者には迷惑をかけないように働いていたのだ。
 いま、Kさんは何をしているのだろう。もしかすると、父の殺害を決意したのかもしれない。或いは、自殺とか……。だが、電話はもう通じない。
 最後に伝票を渡したときのKさんの安堵した表情が忘れられない。そのあと、社長に慰めてくれたが、きっと、僕には何もできなかった。僕はKさんと仕事をする関係でしかない。ただ……。
 いや、もうやめよう。僕はただ、Kさんのようにはなりたくないから、こんなことを書いている。せめて、僕を罵倒しても、社長に迷惑をかけてほしくなかったと思いながら。
 そう、今日、ひどい目にあわされながらも、僕は来週の月曜、Kさんと一緒に働けたら、と思ってるぐらいの甘い男なのだ。そのためなら、今日のことは忘れてもいい。でも、Kさんはマジメな人だから、忘れないだろう。僕が許しても、Kさんはそんな自分が許せないのだろう。たとえ、狂ったとしても。だから、もうKさんと働くことはできないのだ。
 これからのKさんの居場所はあるのだろうか。僕にはKさんを雇う組織も財力もない。だから、犯罪をせず、自殺せずに生きてほしいと願うことしかできない。「さよなら」を言えなかったもどかしさを抱えたまま、僕も生き続けるしかないのだ。