三田誠広ー聖書の謎を解く (おすすめ度:★★★☆☆)

 

聖書の謎を解く―誰もがわかる「福音書」入門 (PHP文庫)

聖書の謎を解く―誰もがわかる「福音書」入門 (PHP文庫)

 
 キリスト教の聖書には、数多くのご都合主義や後付け設定が盛り込まれていて、読んでいてウンザリすることがある。
 しかし、キリスト教は世界最大の宗教で、聖書は世界最大のベストセラーである。
 現代文学でも、聖書が引用される例は枚挙にいとまない。
 
 神の存在を信じない人でも、魂や運命について考えない人はいないだろう。
 古代人には現代人の科学の常識は知らなかっただろうが、天体の動きや季節の変わり目については敏感だった。
 そして、人間の誰もが抱く死の不安について、聖書ほど多くの人の心の慰めとなった書物はない。
 キリスト教会が数えきれない過ちをおかしたとしても、聖書のモチーフは現代でも息づいている。
 
 例えば、「福音」を意味する「エヴァンゲリオン」はアニメの題名に使われた。
 キリスト教のとある仮説を題材にした「ダ・ヴィンチ・コード」は世界中でベストセラーになった。
 絵画・音楽・文学を楽しむために、キリスト教の知識は不可欠である。
 
 なぜならば、聖書というのは、神の偉大さを書いているだけではないからだ。
 生と死が苦しいものだからこそ、人間は敬うべき対象を必要としてきたのだ。
 聖書が描くのは、神の業(わざ)ばかりではない。それを求める人間の生々しさこそが、聖書の主題であると僕は感じる。
 
 さて、今回紹介するのは、「新約聖書」と「旧約聖書」の区別がつかない人を読者対象とした福音書入門書である。キリスト教の知識がまるでない人でも楽しめる内容になっている。
 新約聖書の1ページ目の長ったらしく無意味な「イエス・キリスト系図」を始め、聖書を読む上で躓く箇所をわかりやすく説明している。
 
 筆者は「僕って何?」「いちご同盟」などで有名な小説家、三田誠広
 小説家ならではの切り口で、聖書を解説しているため、キリスト教徒になりたい人には不向きの案内書かもしれない。
 

 キリスト教内部の伝統的な認識よりも、最近の研究による新解釈やエキサイティングな仮説を、意図的に選んでお話ししてきました。形骸化した儀式に寄りかかった保守的な既存の宗教を批判することから、イエスは出発しました。そのようなイエスを語るためには、私自身も過激でありたいと考えたからです。
(あとがきより)

 
 「ミステリー」の語源は、神の奥義を意味する「ミュステーリオン」から来ている。そう、聖書に秘められた意味を解くことは、史上最大のミステリーなのだ。
 
 聖書学をかじった者からすれば反論をとなえたくなる主張が少なくないのだが、三田誠広という小説家が聖書のどこに強くひかれてきたかがまとめられた、読みやすく、わかりやすいキリスト教福音書入門書であろう。
 「旧約聖書」の「旧約」とは何なのか。「キリスト」とはどういう意味か。そのような基礎知識を時代背景とともに知ることができるはずだ。
 
 
 以下、雑感。
 

福音書についての基礎知識

 
 この本だけを読むと誤解しそうなところを少しだけ。
 
 福音とは「よき知らせ」を意味し、ギリシャ語では「エヴァンゲリオン」という。今では、イエス・キリストの復活を主張する特定の書物に対して使われている。
 新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順に収録されているが、二番目の「マルコによる福音書」がもっとも古く執筆されたと考えられている。
 なぜなら、マルコ福音書の90%が、マタイ福音書とルカ福音書に含まれるからである。マタイとルカは、マルコ福音書を下敷きに、他の資料を集めたり、自分の神学に沿うように改変している。
 
 例えば、イエスの誕生物語は、マタイ・ルカにしかない。彼らは、マルコ福音書の記述だけでは、イエスを「聖なる存在」として主張できないと考えたのかもしれない。また、マルコ福音書に見られる「イエスの人間らしさ」の描写も、マタイ・ルカでは注意深く書き換えられている。
 
 最後のヨハネ福音書については、一部ルカ福音書の影響を受けた箇所があり、もっとも後で成立したと考えられている。複数の作者による増補のため、筋がわかりにくいが、マタイ・ルカの「処女懐胎」ですら否定し、もとからイエスは霊的に聖なる存在であったと、冒頭のロゴス讃歌で記している。
 
 この福音書はいずれもギリシャ語で書かれている。イエスが生前に話していたのはアラム語であり、ギリシャ語は解さなかったと考えられている(異説あり)。また、成立はイエスの死から数十年のことであり、その内容すべてが目撃談であったとは考えられていない。
 
 新約聖書では、この「福音書」がもっとも重要な位置を示していると思われるかもしれないが、四福音書が互いに矛盾し合い、それぞれ独自の神学を主張しているため、非常に難解な書物であり、トルストイを始め、数多くの文豪が「福音書の統一」を目指したものの、失敗に終わっている。
 それに比べ、生前のイエスを知らず、イエスの言行を記していない「パウロ書簡」では、明快な神学を打ち出している。キリスト教の「原罪」という考え方は、福音書ではなくパウロ神学によるものだ。
 だから、キリスト教神学のことを知りたければ、福音書よりもパウロ書簡を読むべきである。
 
 ただし、福音書における「イエスの受難」と「キリストの復活」こそが、キリスト教の原動力であり、現代文学でも取り上げられる重大なテーマなのだ。
 はたして「復活」とは何なのか。これこそが、聖書の最大のミステリーといえるだろう。
 

十二使徒の伝承

 
 福音書を読むかぎりでは、十二使徒と呼ばれるイエスの直弟子は、あまり活躍することはない
 イエスの死後のことを記した、使徒行伝やパウロ書簡でも、ペトロ(ケファ)・ヨハネとその兄ヤコブぐらいしか出てこない。
 そもそも、キリスト教における後世に果たした役割は、十二使徒ではなく、パウロを中心とした、イエスの死後に教団に入った者の方が大きいのだ。
 これもまた、キリスト教の「ミステリー」の一つではないかと思うのだが、この本ではあまり触れていないのが残念だった。
 
 キリスト教では十二使徒について豊富な伝承があるが、どれも信用性が乏しい。
 前述したように、福音書自体がイエスの死から数十年後に書かれたものであり、二次創作のようなものだ。さらに、「ヨハネ福音書」やその他の外典は、どれも二次創作の二次創作のようなもので、同時代のイエスの実態に近づくには無理があるものばかりである。
 
 イスカリオテのユダが熱心党に関係していたのではないかという仮説は魅力的だが、彼の出身地はガリラヤ地方ではなくユダヤ地方南部のコリアテではないかと考えられている。ヨセフスのユダヤ古代誌にあるように、熱心党はガリラヤ地方が中心地だった。
 イスカリオテのユダが、元熱心党員だから、イエスを裏切ったというのは、説得力に欠けると思う。
 
 ただし、この本でも書かれているように、最後の晩餐の席次からして、教団のナンバー2がペトロではなくイスカリオテのユダであったことは間違いない。問題は、そのユダのグループについて、その後の伝承が残されていないことにある。
 「ユダの裏切り」は聖書学というよりも文学的な題材であるが、この本はその想像力をふくらませるのに十分な材料を用意しているとは言いがたい。
 

エスの敵はパリサイ派だったのか?

 
 この本を読んでもっとも気になったのが、イエスを処刑したのがパリサイ派である書かれ方をされていることだ。
 確かに、福音書の多くはパリサイ派批判に費やされている。しかし、イエスはローマ長官ピラトゥスにより十字架刑に処されたのだ。おそらく、政治犯として処刑されたと考えられている。
 イエスの論敵は民衆の支持を得ていたパリサイ派であっただろう。ただし、イエスを処刑したのは支配階級であったサドカイ派の主導によるものだった。
 イエスの死体を引き取ったアリマタヤのヨセフのように、パリサイ派の中には、イエスの教えに共感する人が少なくなかっただろう。だが、サドカイ派はイエスの思想を怖れ、強引な形で処刑した。
 
 この本ではサドカイ派が貴族的で保守的という書き方しかされていないのが残念である。エルサレムで演説をぶち、民衆の喝采を浴びていたとき、使徒ペトロをはじめとした弟子たちは、師の捕縛と処刑を予想だにしていなかった。そこから「復活」に至るドラマがあると僕は考えている。
 当時の時代背景なども、この本では描かれているが、サドカイ派をはじめとした描写の浅さが気になった。
 

エスの教団がパレスティナ地方に与えた影響力

 
 ヨセフスのユダヤ古代誌には、イエスの死後に教団の指導者となった「主の兄弟ヤコブ」については書かれているが、肝心のイエスについては後世の偽作しか載っていない。
 新約聖書福音書ではイエスは各地の民衆に支持されたと書かれているが、ガリラヤ地方の中心都市であるヒッポリスなどの都市は描かれていない。あくまでも、イエスガリラヤ地方の一部で熱狂的に支持されたに過ぎなかったのだ。
 
 そんなイエスエルサレムで話題となったのは、洗礼者ヨハネの後継者と思われていたからである。洗礼者ヨハネについても、ヨセフスのユダヤ古代誌には書かれている。
 人々のほとんどは「高名な洗礼者ヨハネ」が捕縛されたからこそ、イエスを支持しただけであり、彼の独特な教えには、ほとんど興味を示していなかった。だから、イエスが捕縛されたら、弟子も群衆も、たちまち見放したのである。
 
 イエスはきわめてローカルな存在にすぎなかった。
 まず、この事実を知ってこそ、新約聖書の受難の背景がわかると僕は考えている。